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はいそっ  作者: 相野仁
八話
67/114

3

 それからあっという間に、姫小路先輩の家に行く日がやってきた。

 例のごとく校門の前で待ち合わせするのかと思いきや、普通に家の前まで車が迎えに来るという。

 申し訳ない気がしたけど、考えてみれば校門のところだったとしても変わりない。

 言葉に甘える事にした。

 更に先輩からは携帯電話の連絡先を教えてもらう。

 これには驚いて思わず尋ねたが、「プライベート用ではなく、あなたとの連絡用です」と微笑んだ。

 要するに俺とやりとりする為にわざわざ新しく用意したんだろう。

 明らかに新品だったしな。

 どう考えても俺を他から隔離するつもりでいるんだろうけど、察するに家の意向だろうな。

 先輩は単純に俺とやりとりができるようになった事を喜んでいたし。

 全く連絡しないのも問題だろうが、あまり積極的にメールを送るのもやめておいた方が無難かもしれない。

 朝起きて顔を洗い、食事を済ませて歯を磨く。

 そして鏡の前で身だしなみをチェックする。

 いい服なんて持っていないが、今更と言えるだろう。

 他の女の子達の家にだって大した服で行ったわけじゃないし。

 そもそも、向こうだってそのあたり期待してはいないと思う。

 とは言え、やはり不潔だとかだらしがないという印象は持たれたくはなかった。

 本日の俺の服装は、青い半袖の襟付きシャツと紺のズボンである。

 念の為、千香の奴にチェックしてもらう。


「まあ、女の子が見る限りじゃ及第かな?」


 うん、こっちの方面で割と口やかましいこいつから及第点をもらえたなら、ひと安心だろうな。

 最低でも庶民の限界近い事はやった。

 千香はそのまま立ち去ったりはしないで、じろじろと俺の事を見てくる。


「何ていうか、いつもより気合が入っているよね。それだけその人が好きなの? それとも粗相をしたらヤバい相手?」


「後者だな」


 俺はきっぱりと即答した。

 姫小路先輩の事を好きか嫌いで言えば大好きと言えるが、女性として意識しているわけではない。

 というか、あの人の事をそういう目で見た瞬間、俺の人生ジ・エンドになるんじゃないだろうか。

 少なくてもあの人に本気で惚れられたりしない限りは。

 だが、あの人の好みの基準はかなり高そうだな、と思う。


「ふーん……英陵の人ってそんなのばっかだと思うんだけど、中でも別格って感じ?」


「別格って感じ」


 こいつやけに鋭いよな。

 それとも俺が分かりやすいだけなのか?

 ……両方かもしれないな。

 

「気をつけてよね、あたしの為にも」


「おう」


 何があたしの為だと思いかけたが、来年こいつ英陵を受験するつもりでいるんだっけ。

 そうでなくても俺のせいで一家離散って可能性はありえるから、確かに気をつけないといけない。

 姫小路先輩に限ってそんな無体な事はしないと思うけど、家の人はどうかは分からないしなあ。

 頑張ろう、皆の為にも。

 別にタイミングを見計らっていたわけじゃないだろうが、俺が決意をすると同時にインターフォンが鳴る。

 出てみると「姫小路家の使いで参りました」と渋い男性の声がした。

 

「行ってきます」


 リュックを背負ってそう言うと千香は「逝かないでね」なんて言葉を背中にぶつけてくる。

 笑えないよ、この状況じゃ。

 後で文句を言ってやろう。

 外に出てみると、門のすぐ横に黒い燕尾服を着た壮年の男性が立っている。

 優しい光を宿したキツネ目の男性は俺が近づくと、うやうやしく一礼した。


「康弘様ですね。翠子様のご命令でお迎えにあがりました」


 他のお嬢様達の時もそうだったけど、こういう人が俺に対してやたらと礼儀正しいのは、仕えているお嬢様が招待した客だからなんだよな。

 その点を忘れてはいけない。

 すごく当たり前の言なんだが、一回は戒めないとうっかり勘違いしそうになってしまう。

 それくらいこの人達の従者としての態度は素晴らしい。

 職業の執事ってやっぱりすごいんだなぁ。

 姫小路家が別格だとすれば、そこで働いている人達も別格なんだろうか。

 庶民達の家が並んでいる場所に、高級車で乗り付けないという配慮もすごい。

 いや、プリススも分類するなら高級車になるか。

 それでも一般家庭でも手が届くレベルの車には違いない。

 あれこれ思いながら、開けてもらったドアから車に乗り込む。

 それから執事さんは運転席に座り、一言かけてから車を出した。

 もう毎度恒例となっているが、車内の沈黙が痛い。

 デジーレの家族を除いて、運転中に話しかけてこないのだ。

 黙って乗っているのがマナーなのかな。

 いい加減一回くらい話しかけてみようか。

 ただ、単に話しかけてみる事が目的なら、何も今日やらなくてもいいか。

 散々迷った挙句、一度だけ話しかけてみる言にする。

 それをどう対応するかによって、今後の方針を決めよう。

 万が一の時は先輩に謝りまくって、とりなしを頼めばいいだろう……たぶん。

 さて、話題とするには何がいいだろうか。

 いつから働いているのか訊いてみたら……私の言など気にするな、なんて返ってきそうだ。

 何となくだけどね。

 無難なのは先輩の事なんだろうけど、訊く事を間違えたら「お嬢様の事を知ってどういうつもりだ」なんて思われるかもしれない。

 慎重と言うよりは臆病になっている自覚はあるものの、相手が相手だからなぁ。

 あああ、うじうじしていたって仕方ない。


「姫小路先輩って、水泳をやる機会がなかったのですか?」


 一番無難そうな質問をする。

 今日、俺が行くのは先輩の水泳の練習の為だし、その事はこの人だって知っているだろう。


「そうですね。お嬢様は水が苦手なようでして。無理に覚える必要はないだろうと」


 端的な気はしたものの、一応答えが返ってきてホッとする。

 無理に覚える必要はないか。

 それはそうかもしれないな。

 俺は泳げないよりは泳げた方がいいとか、水泳の授業がある以上泳げないと困るとか、そういう事を言われたものだ。

 でも、英陵は泳げなくてもあまり気にしなくていいし、そもそも溺れたとしても助けられる人間が揃っているだろうな。

 一人で納得していると、執事さんが続きを口にした。


「ですから、お嬢様が水泳の練習をすると仰った時は驚きました」


 えっ? いやまあ、確かにそうかもしれないが……何だろう、ニュアンス的に単に執事さんが驚いただけじゃないよな?

 何かご家族も驚いたとか、そういう風に解釈できる言い方だったんだけど。

 確認するのが少し怖い。


「本日はよろしくお願いします」


 運転しながらだったけど、とても丁寧なお願いをされてしまった。

 まるで肉親の事を頼んでいるかのような、真情が込められていたと思う。

 思わぬ展開にあっけにとられたけど、ひとまずこっちも頭を下げておいた。

 姫小路家は例の高級住宅街の一画にある事には途中で気づいたものの、同時に違和感を覚える。

 高い煉瓦の塀がずっと続いている箇所があったからだ。

 塀の上には鋭い有刺鉄線がはりめぐらされているので、誰かが所有している土地なのだろう。

 ……うん、桔梗院家の時と同じパターンだわ。

 気のせいじゃなかったら、あれよりも一回りすごいような気もするんだけど、正直自信がない。

 一と十の違いならすぐに分かるんだけど、千兆と千百兆の違いはよく分からないって感じだ。

 やがて車はあまり大きくない門を通過して、敷地の中に入る。

 これはきっと車専用の門なんだろうな。

 前方に広がっているのは、三階建ての宮殿としか言いようがない豪奢な建物だ。

 壁の色は白だが大理石か何かで造られているのだろうか。

 その手前には見事な芝生が植えられた庭があり、白い石畳の通路が敷かれている。

 そこまではいいんだけど、正門の前あたりには大きな噴水があり近くにはベンチもあるようだった。

 どこかの観光名所や公園をちょっと家の中で再現してみました、とでも言わんばかりである。

 芝生が植えられている場所だけでサッカーグラウンド分どころか、一緒にテニスとバスケをやってもまだあまりそうな勢いである。

 何せ、車が走っている位置からは、左右の端がうっすらとしか見えないんだ。

 俺の視力、両目とも一.五なんですけど……。

 桔梗院家と言えども、さすがにここまでじゃなかったぞ、おい。

 速度を落としていると言っても、車が屋敷の前まで行くのに時間がかかっているって時点でもうな。

 しかし、そんな時間も終わりはやってくるものだ。

 門の前まできて車が止まると同時に、俺の身長の軽く倍はありそうな大きなドアが開いて、中から先輩が姿を見せる。

 水色のワンピースドレスってやつかな?

 スカート部分の丈は膝のすぐ下まであり、白い短いソックスと黒い靴を履いていて、とても清楚でよく似合っている。


「いらっしゃい、赤松さん」


 空の上で頑張っている太陽の日差しがかすんでしまうほど、強力な笑顔にドギマギとさせられてしまった。

 見慣れているはずなんだが、今日はいつもの制服姿じゃなくて新鮮な私服だしなぁ。

 その背後からは高遠先輩も現れる。

 もう到着していたんだな。

 高遠先輩の方は、黒い半袖のシャツに茶色いズボンというボーイッシュな印象のいでたちだった。

 あまり女性的な服装を好む人ではない気はしていたものの、ここまでくると逆に意外だな。 


「こんにちは、お邪魔します」


 ややぎこちなくなりながらも、何とか先輩二人に対してあいさつしておじぎをする。

 姫小路先輩はもう一度微笑み、高遠先輩は小さくうなずく。

 対照的とは言わないまでも、はっきりとした差異がある二人だった。

 わざわざ手を挙げたあたり、先輩達は仲いいんだろうけどね。

 俺は先輩達の案内によって屋敷に招かれる。

 一歩踏み込めばそこは既に別世界だったと言えた。

 いちいち文字にしても惨めになるだけではないか、と心底思えたほどである。

 数人の人間が肩を並べて通るくらい何でもないくらい広い廊下に、高級そうな絨毯が敷かれているし、豪華なシャンデリア、見事な壺に絵画と揃っていた。

 一番派手なのはシャンデリアで、他はそこまでもないというのに高級感があふれて調和もとれた場面となっている。

 俺の視界に入っているものだけで親父の生涯賃金を軽く超えると言われても、全く疑問に感じないだろう。

 赤い絨毯が敷かれた階段が見えてくるが、これもテレビに出てくる豪邸のものと同じか、それ以上に立派なものだ。

 それでいて他のものと見事に溶け込んでいるので、単に必要だから造っただけなんだろう。

 先輩達の後をついていくうちに、いくつもの大きな扉を通過していく。

 会話がないのは今の俺の心理を察していてくれているからだろうか。

 そう思わざるを得ない。

 そのうち先輩達は立ち止まって振り返る。


「ここでお茶をしましょう」


 姫小路先輩の優しい笑顔に脊髄反射で首を上下に動かしていた。

 まあ、これまでのお嬢様達のパターンからして、そうなんだろうと思っていたというのはある。

 案内された一室は、外観で受ける印象の割にさほど広くはない。

 一番狭い部屋に案内したと言われても信じられるな。

 と言ってもうちの台所とダイニングルームを併せたより、やや広そうなんだが。

 中には白いクロスがかかったテーブルに二人用の黒いソファーが二つ、一人用のソファーが二つ並んでいる。

 窓は縦に長く、白いレースカーテンがかかっていて外は見えない。

 窓の両脇には青銅製と思しき花瓶があり、ピンク色の花びらをつけた花が活けられていた。

 かすかに匂いがただよってくるところをみると、活花なんだろう。

 

「どうぞ」


 白い手に導かれるまま、ソファーの一つに腰を下ろす。

 うーん、この座り心地……いや、桔梗院家とかのものとはそこまで変わらないはずだ。

 俺が座った場所と向かいに先輩達は座る。

 それと同時にノックの音が聞こえて、メイドさん達が入ってきた。

 それから淹れたての紅茶のカップを置いてくれる。

 耐性が出来ていなかったらタイミングおかしいだろ、と内心でツッコミを入れるハメになっていたに違いない。

 メイドさんが退室してから紅茶を口につけた。

 これはレモンティーだろうな。

 後はとても美味しいとしか、分からない。 


「どう? お口に合うかしら?」


 姫小路先輩は心配そうな顔で尋ねてくる。


「ええ。残念ながらとても美味しいくらいしか、理解できませんが」


 カップを置いて肩をすくめて見せると、この家のお嬢様はくすくすと笑う。

 その隣の高遠先輩は澄ました顔で口を開いた。


「それだけ分かれば十分ですよ。美味しいものを美味しいと感じるだけでね」


 どうやらフォローしてくれたらしい、と気付く。

 それとも変に劣等感を持つなと叱咤されたんだろうか。

 いずれにせよ、高遠先輩の前ではあまり卑屈にならない方がよさそうだ。

 

「ありがとうございます」


 ここは簡単に礼だけ言ってやりすごそう。

 今回もやはりおしゃべりなんだが、相手が同級生達ではなく先輩達というのは大きい。

 生徒会活動を一緒にやってきた分、打ち解けていないというわけじゃないんだけど、やはり同い年の方がまだ気は楽だった。

 それを見越してなのかどうなのか、姫小路先輩が話しかけてくる。

 話題になったのは、同級生の女の子達の水泳の練習についてだった。


「どうなのでしょう? 皆さん、泳げるようにはなりましたか?」


 変な期待を抱かれては堪らない。

 俺はそう思い、急いで否定した。


「とんでもない。もしそんな簡単に上達できる方法があるなら、水泳スクールとか存在意義がありません」


「それもそうですね」


 絶妙なタイミングで高遠先輩が相槌を打ってくれる。

 そのおかげでいい感じの空気になった。

 せっかくだし訊いてみようか。


「失礼ですが、お二人はどれくらい泳げるのでしょう?」


 この人達に「泳力は?」と尋ねても泳力とは何か、と言われそうだったのでこんな言い方をする。


「二十メートルくらいかしら」


「私は五十メートルは泳げますね。クロールだけならば」


 姫小路先輩、高遠先輩の順で答えが返ってきた。

 正直なところを言わせてもらうなら、二十メートルくらいじゃ泳げる範疇にはならないと思う。

 苦手という割には悪くないと言ったところだろうか。

 それにしても高遠先輩は泳げるのか……クロールしか出来ないのかもしれないけど。

 泳げるなら何故、なんてとても訊けない。

 そこへ問いが発せられる。


「赤松さんはどれくらいなのでしょう?」


 何かお嬢様達に対しては自慢することになりそうだけど、姫小路先輩に訊かれた以上は答えるしかない。


「クロール、平泳ぎ、背泳ぎで百メートルはいけますね」


 実はバタフライだけは苦手なのだ。

 二人の先輩は短く息を飲み、感心したようなまなざしを向けてくれる。

 これくらいでいちいち恥ずかしいんだが……言葉には出来ない。

 反応してもキリがないので必死にやり過ごす。


「更衣室などはどこにあるのでしょうか?」


 何とか話を変えようと思ったものの、とっさにいいものが思い浮かばなかったのでこんな事を言ってしまう。

 姫小路先輩は何でもない顔で答えた。


「そうですね。せっかくだから案内させて頂きます」


 言ってからすっと立ち上がる。 


「えっ?」


 どうやら泳ごうと遠回しに催促したと判断されたらしい。

 確かにいつまでもこうしておしゃべりしていられないんだが……やっちゃったものは仕方ないか。

 高遠先輩も立ち上がったので、もうどうしようもなかった。

 今日の目的を果たすとしよう。

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