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瞬く間にテスト期間は終わり、返却の日がやってきた。
自己採点でどれも七十点くらいはとれていたんだけど、果たして平均点はどうなんだろうか?
中間の時のクラス平均が七十前後だったはずだから、割と厳しいんだよな。
「おはようございます」
小笠原先生がいつものようにクールな表情で入ってくる。
もう暑い季節なのに、相変わらず涼しげな様子なのはすごいと思う。
汗をかいていないはずはないのにな。
そんな考えが浮かぶものの、すぐに気持ちは切り替わる。
今からテストが返却されるからだ。
そう、英陵においては朝のホームルームにまとめて返されるのである。
とは言え、さすがに全科目という事はない。
せいぜいが二、三科目だけだ。
今日明日授業がある科目では授業の時になったりする場合もある。
「それでは最後に国語と英語のテストを返却しましょう。各自見直して下さいね」
普通の学校ならここでざわめきの一つでも起こると思う。
少なくとも俺が通っていた中学ではそうだった。
ところが、英陵高校ではそんな事は起こらない。
皆、静かに待っているのである。
育ちが違うと言えばそれまでかもしれないが、俺はすごい光景だと感じていた。
「次、赤松君」
呼ばれたので前に行くと、先生はうっすらと優しい笑みを投げてくれる。
お、この反応は期待できるかも?
前回は淡々とした表情だったからなぁ。
「頑張りましたね」
小声とともに答案用紙が渡される。
国語は七十四点、英語は八十一点だった。
思わずガッツポーズを出したり、叫んだりしたくなったのをぐっとこらえる。
ここは英陵なのだ。
そんな事をしても奇異な視線を向けられてしまう。
美少女達の白い目を三ダースとか、頑丈ではない俺の心がへし折れる危険が高かった。
にやつきそうになるのを何とか我慢しながら自分の席へと戻る。
この時も誰も声をかけてこない。
テストの結果を生徒達が訊くのは休み時間中なのだ。
全員に答案が返却されると先生が発表する。
「今回、国語の平均点は六十九点、英語は六十七点でした」
よかった、どっちも平均を超えている。
皆には感謝だな。
「クラスの平均点は国語が七十一点、英語が六十九点ですね」
何だそれ、ギリギリじゃないか。
分かってはいたけど、レベルが高いクラスだよな。
とりあえずまあ、平均点は達成できていたのでホッとする。
これなら教えてくれた皆に顔向けができるというものだ。
先生が出て行き、一限目の授業が始まるまで少しの空白が生まれる。
この間に授業の準備をし、騒がしくない程度に雑談をするのだ。
俺はさっそく近くの小早川に報告する事にする。
「何とか平均は達成できたよ、ありがとう」
「あら、よかったわね」
小早川は嬉しそうに微笑んでくれた。
うん、あまりこの手の顔は見ないだけに破壊力があるな。
美人の顔は三日で見飽きるなんて言葉があるらしいが、美少女達の色んな顔は数カ月見て来てもちっとも飽きないぞ。
まあ、個人差ってやつかな。
「英語もですか?」
デジーレが会話に入ってくる。
「うん、デジーレのおかげだね」
俺が全身から感謝の気持ちを立ち上らせると苦笑された。
「それは何よりです」
とりあえず二人への面目は保てた気はする。
この分だと他の科目も大丈夫だろうな。
自己採点では似たような感じだったし。
俺は安心した気持ちで授業を受ける事になった。
休み時間、他のクラスメート達から祝福を受けて何とも面映ゆい気持ちになりつつ、いよいよ体育の時間となる。
着替えは相変わらず俺一人教室だ。
移動の手間がないわけだからある意味で楽である。
「はぁ、水泳か……」
憂鬱そうにため息を漏らす子がチラホラといた。
きっと泳ぐのが苦手な子なんだろう。
基本的に体育に関しては大らかでのんびりとした空気が漂っている英陵だったが、それでも苦手な子が暗い顔をする事は珍しくない。
この点に関しては普通の学校と同じだ。
お嬢様達だって人間なんだよな、と親近感を覚える。
とは言え、ぐずぐずしているような子はいない。
皆、友達に慰められたり励まされたりしながら移動していく。
全員がいなくならないと俺が着替えられないっていうのもあるだろうけど、麗しい光景ではあると思う。
最後の子がドアを閉めてから俺は服を脱ぐ。
英陵のプールはどんなところなんだろうか。
水が冷たくないくらいは期待したいんだけどな。
他にどんな設備があるのかも気になる。
地味なようでいて充実しているのが英陵の特徴だ。
さすがに流水式とかはないだろうな。
そんな馬鹿な事を考えて思わず口を緩める。
俺一人の方が絶対早いけど、それだけにあまり遅くなるのも不自然だ。
早めに行くとしよう。
幸い、プールへの行き方は既に知っている。
俺が着替えを済ませ、タオルなどを持って外に出るとちょうど複数の女子が通りがかった。
女子達は手で口を押さえ、黄色い声をあげる。
一瞬だったけど、悲鳴に近い。
何だと訝しく思ったものの、すぐに原因が俺にあると思い至った。
なにせ俺は今、上半身裸でいるのだから、男に免疫がないお嬢様達にとっては刺激的になる。
少なくとも他に声をあげられる理由は考えられない。
……うん、これは予想してしかるべきだったな。
俺は上半身をタオルで隠す事にする。
普通は下半身を隠すものじゃないかという考えが一瞬よぎったが、女の子達は落ち着いてくれた。
「ご、ごめんなさい」
そしてきちんと謝ってくれる。
「いや、こちらこそ」
自分に非があるとは思っていないが、他に言い返しを思いつかなかったのだから仕方がない。
それに驚かせたのは事実である。
女の子達は安堵の微笑を浮かべたものの、やはり気になるらしくちらちら視線が俺の体を這う。
礼儀正しい子が揃っている英陵において、この手の視線は久しぶりだ。
以前受けていたのは、俺が入学した頃だからな。
ただ、前回と違って今回は頬を赤らめている子が多い。
うん、お互いあまり心臓によくない状況だな。
俺は足を速める事にする。
英陵のプールは体育館の近くにあるそうだが、何とドーム状の屋根があった。
もしかしなくても全天候型っぽいな。
何となく予感はしていたので、驚きは小さいけど。
靴と靴下を脱いで中に入ると暑すぎず、寒すぎないちょうどいい空気が迎えてくれる。
やはりここも空調機があるらしい。
プールは十コースもあって、綺麗な水がたたえられている。
水温を確かめてみたかったけど、勝手に水に手を入れていいのか分からないので待つ事にした。
ぽつんと一人で佇んでいると小さな声の集まりが聞こえてきて、女子達の到着を知る。
皆が入れるように俺は立ち位置を移動しよう。
「どうですか、ヤス」
そんな俺に声をかけてきたのはデジーレだった。
「立派な設備だな、予想はしていたけど」
プールの事を訊かれたのか、それとも女子達の水着姿について感想を求められたのか迷ったが、普通に考えて前者だろう。
美少女達の水着姿なんて、舐めるような視線を送らない自信がないのでろくに見ていないんだから。
「そうでしょうね。それで私の水着姿はいかがですか?」
貴族のお嬢様は空気を読めないキャラでもないが、容赦をしてくれるキャラでもないようだ。
はっきりと尋ねられた以上、いつまでもスルーしているわけにもいかないか。
仕方がないので彼女の姿を視界に入れる。
紺色のスクール水着から覗く白い肌が眩しい。
そして何より出ている部分がはっきりと出ていて、くびれも見事である。
腰の位置は高いし、むきだしになっている太ももも美脚と言えるだろう。
アイドルやモデルを目指す子が悔しさのあまり絶叫してもおかしくないくらい、見事なものだ。
何も知らない人にデジーレは芸能人だと言ったら、たぶん誰一人疑わないに違いない。
「そうだな。さすがに綺麗だと思うよ」
これは嘘偽りのない本心である。
スクール水着って普通の女の子が着ても野暮ったいだけだと思うんだ。
女子の水着姿そのものに興奮する奴とか、スクール水着ってだけで興奮するような奴を除けばね。
俺の簡素な褒め言葉に満足そうな顔になる。
どうやら一言でもいいから褒めてほしかったようだ。
女って面倒くさいなと思ったけど、そういう要求をしてきたのはデジーレくらいである。
貴族令嬢が面倒なだけだと訂正した方がいいかもしれない。
他の女子は程度の差はあれ、俺の視線を気にしてもじもじしているようにも見えるし。
こちらの方が自然だと思うのは、俺が日本人だからだろうか。
それともお嬢様という生き物は奥ゆかしくて、羞恥心が強いというイメージが強いからだろうか?
何にせよ、体育教師もまた女性であり、言うまでもなく水着姿だった。
水着姿の女性達に囲まれた男一人という状況で水泳の授業は始まったのである。
今日の課題はクロールで二十五メートルを泳ぐ事だった。
第一回目だからそんなに無理はしないという。
少なくとも先生はそう言ったのだが、一部の同級生達は憂鬱そうな表情をした。
予想はできていたけど、彼女達は二十五メートルも泳げない子達だろう。
「名前の順で行きましょう」
先生はそう宣言した。
言うまでもなく俺はトップバッターである。
第一コースにゆっくりと入った。
水はほどよい温かさである。
考えてみればかなり贅沢な設備だけど、英陵という事を考えればむしろ今更か。
隣には相羽や恵那島、大崎も入っている。
表情的には恵那島以外は微妙っぽい。
あまりじろじろ見るわけにもいかないから、断言はしかねるけど。
あくまでも泳力の確認をするだけという事で、各自バラバラにスタートする。
俺は少し迷ったけど、普通に泳ぐ事にした。
男子が女子より速くても変に思われないだろうし、手を抜きすぎるといい顔をされない可能性も考慮したからである。
俺にとってクロールで二十五メートルを泳ぐのなんて大した事じゃない。
いいタイムを出せと言われたら困るだろうけど。
普通に泳ぎ終えて壁にタッチして、底に足をつけた。
「さすが男子。速いわね」
すぐ近くに先生が来て声をかけてくる。
そうか? と思ったけど、運動能力で俺の方が勝っているのは当たり前だし、普段お嬢様達しか見ていない先生がそう感じるのも無理ないんだろう。
プールの外に出て振り返ると、相羽と大崎が途中で立っていた。
他の子達は何とか泳ぎきれそうである。
「相羽さんと大崎さんは今年もダメみたいね」
先生が軽くため息をつく。
口ぶりからすると去年までも泳げなかったらしい。
中等部と高等部で、同じ先生が受け持つんだろうか?
そんな疑問が湧いてくる。
「あ、赤松君は列の最後尾に戻ってね」
「はい」
先生に指示されたので素直に歩き出した。
皆のところに行くと、何やらキラキラした視線が集まってくる。
「すごいですね、赤松君」
「とても素敵でしたわ」
お嬢様達は興奮を隠しきれていないらしく、口々にそんな称賛する言葉を浴びせてきた。
たかが二十五メートルを泳いだだけなので、すごいギャップを感じるんだが、彼女達の感覚では「とてもすごい事」なんだろう。
どう返していいか迷ったものの、とりあえず皆の泳力について訊く事にした。
「皆は泳ぎは得意じゃないのかい?」
俺の問いにお嬢様達は互いの顔を見合わせ、少し目を伏せる。
これは彼女達にとってバツが悪い表情だ。
数カ月のつき合いで何となくだが分かってきたのである。
例外は小早川とかデジーレといった面子くらいだろうか。
彼女達はきっと普通に泳げるんだろう。
「嗜む程度と言ったところかしらね」
小早川が代表して、それでいて皆を庇うように言った。
「まあ、そういうものなのか」
俺としては別に泳ぎが苦手な事を咎めたりあげつらったりしたいわけじゃない。
そしてそんな事は彼女達も承知しているだろう。
デジーレが話を変えるべく話しかけてくる。
「他の学校では泳げる方は多いのでしょうね」
訂正しよう。
あまり話題は変わらなかった。
無理矢理変えてしまうわけにもいかないからだろうか。
「そうでもないよ。泳げない奴はクラスに数人くらいいたものさ」
これは嘘でも慰めでもない。
毎年、数人くらいは泳げないせいで補習を受けていた奴がいたのは事実だ。
どこにだってそういう奴はいるものだと思う。
どちらかと言えば英陵が特殊なんじゃないだろうか。
俺の言葉は意外だったらしく、小早川やデジーレも目を丸くした。
「あら、そうでしたの。てっきり私達だけかと思いましたわ」
「そんなわけがないさ」
謙遜してみせたデジーレに肩をすくめて笑いかける。
それを聞いたお嬢様達はどこか安心したような力を抜く。
あれ、何だろうこの空気。
まるで「俺に泳げない奴」と思われるのが嫌だったみたいじゃないか……いくら何でもそれはないか。
俺が「誰でも泳げて当たり前」なんて考えていないと分かって安心した?
これも何か違う気がするなあ。
考えても埒があきそうにもないな。
このへんにしておくとしよう。
「それに泳げないって事はそんなに気にしなくてもいいんじゃないかな」
俺は慰めるように言ったが、もちろんそれだけが目当てではない。
「俺だって踊れないし、馬術とか無理だしね」
こっちが本命である。
先にできない事をアピールし、お互い様だと印象付けようと思ったのだ。
そう、馬術の授業もあるのである。
初めて知った時は目が点になった。
幸い、二学期らしいが……一瞬「馬に乗って騎馬戦?」と思っても責められないはずである。
さすがにお嬢様学校だけあってそんなものはなかったのだが。
「ではまた練習しないといけませんね」
デジーレがくすくす笑いながら、悪戯っぽい笑みを向けてくる。
「そうだな。また皆を頼らせてほしいな」
俺がおどけて応じると、何となく暗かった雰囲気が変わった。
俺達の会話を聞いていたお嬢様達も、微笑を浮かべている。
「私達でよければ喜んで」
そう言ったのは小早川だったが、クラスの意思を代弁したものだと言っても過言じゃないだろう。
彼女達にとっては頼るべきところは素直に頼る方が、好感度が高いのだろう。
見栄っ張りな性格じゃなくてよかったと思っている。
でなければ今頃総スカンを食らっていたかもしれない。
いや、皆上品でお行儀がいいから、表面上は儀礼的に接してくれるかもな。
それでも家に呼んで一緒にダンスの練習をしたり、おしゃべりをしたりといった事はできなかっただろう。
和やかな空気になったタイミングで、先生が戻ってきて言った。
「次、順番に入って」
この一言でお嬢様達は現実へと引き戻される。
別に俺との会話が現実逃避だったわけでもないだろうけど。
先生の指示で泳ぎ始める。
ゆったりとしたフォームと言うか、どこかぎこちない感じがする。
おっかなびっくり泳いでいるとでも言うべきか。
泳ぐのが苦手な子が多いみたいだから、仕方ないんだろうな。
順調に進み、全員が一通り泳ぎ終える。
皆が並び直した後、先生は言った。
「それじゃあ、泳げる人と泳げない人で分かれましょう。泳げない人は、九コースと十コースに移動して下さい」
ああ、そう言えばこういうパターンもあったな。
俺はどこか懐かしさを感じた。
このあたりはお嬢様学校と言っても同じなんだな。
かえって新鮮な気持ちになる。
その指示で十人ほどが移動していく。
クラスの三割前後といったところだろうか。
中には相羽や大崎も含まれていた。
「じゃあ泳げる子はどんどん泳いでいきましょうか」
やっぱりこうなるのか。
俺は平気だけど、浮かない顔をしている子は何人もいる。
泳げる事は泳げるが、何度も泳がされるのはたまらないといったところだろうか。
「ああ、そうだ。赤松君」
「はい」
不意に先生は両手を叩いて俺に話しかけてくる。
何だかとても嫌な予感がしたが、返事をしないわけにもいかない。
「君、泳げない子の方に回ってくれる? できれば手本になってもらいたいの」
「え? 僕がですか?」
俺はびっくりして訊き返していたが、他のクラスメイト達からもざわめきが起こった。
これは英陵の子としてはかなり珍しい事だったけど、そんな事を考えている余裕もない。
「ええ。あなたは正直、頭一つとびぬけているし、何より唯一の男子だもの。他の子と全く同じというわけにもいかないのよ」
だからと言って泳げない子のコーチ役っていうのはどうなんだろうか。
そう思ったものの、先生の命令に逆らえるはずもない。
困惑を隠しきれている自信はなかったが、泳げない子達の方へと移動した。




