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昼休み、俺はデジーレと相羽と三人で購買に行った。
「雨が降っているけど、購買にするのか?」
俺は二人に訊いてみる。
外で食べられないのに購買に寄る人はどれくらいいるのか、疑問だったからだ。
「雨でも食べられる場所は意外とあるからね。別に食堂で食べても問題ないし」
相羽の答えに一応は納得する。
食堂で食べるなら食堂で注文すればいいんじゃないか、という気はしたものの、中には購買のメニューの方が好きだという子がいるのかもしれないと思い直したのだ。
少なくとも俺はそうだし、相羽もそうなんだろう。
デジーレはたぶん、俺達につき合っているだけじゃないのかな。
「デジーレは構わないのか?」
訊くのは野暮なようにも思えたんだが、確認を取るのは悪い事じゃないだろうと思った。
「ええ。ここだけの話、コーヒーは購買の方が美味しいですからね」
上品で華がある微笑を浮かべ、お貴族様は返事をする。
どうやら例の打ち上げ以降、コーヒーにハマってしまったらしい。
食堂はコーヒーも紅茶も美味しいのだが、残念ながら紅茶の方に力を入れているように見える。
それだけ紅茶が好きな女子生徒は多いのだろう。
そんな中でコーヒー好きの仲間が増えたのは喜ばしい事だ。
俺がコーヒー党だったらそう思うんだろうな。
しかし、俺はコーヒーは好きでもフリークなんて言えるレベルじゃない。
「そうだね」
隣の相羽は違うようで、頬をだらしなく緩ませているのだが。
デジーレがコーヒーにハマったのが、かなり嬉しかったようだ。
購買でパンとコーヒーを注文すると、そこに桔梗院姉妹がやってくる。
学年が違うのに一緒に来たという事は、どこかで待ち合わせでもしていたんだろうか。
「あら、ヒーロー様、ごきげんよう」
美人姉妹はそう笑いかけてくる。
「ご容赦下さい……」
俺は自覚できるくらい情けない声を出していた。
不特定多数からそう呼ばれるのは諦めてしまっているが、交流がある人達にまで言われるのは辛い。
そういう思いを込めたのだが、百合子さんの方が露骨に残念そうだった。
「あら。とても素敵でお似合いなのに」
どうやら本気でそう思っているらしい。
背中がむず痒くて堪らないんだが、本気である以上はあまり強くも言えないかな。
相手は女の子、それもいいところのお嬢様だ。
間違っても怒鳴りつけたりはできない。
「本当にお嫌みたいね。それじゃ遠慮しましょう」
紫子さんの方は俺の顔をじっと見つめた後、意外と物分りがいい事を言ってくれた。
「え、お姉様……?」
百合子さんは不安半分、不満半分といった面持ちで、姉の方を見る。
そんな妹に対して紫子さんは耳元で何事かささやいた。
するとみるみるうちに百合子さんは真っ赤になる。
「そ、そ、そそそそそんな?」
激しく動揺するなんて、一体どんな事を言われたんだろうか。
いや、俺の方を意味ありげに見てくるくらいだから、何となくは想像できるんだがな。
「ごめんなさい、気を付けますね」
百合子さんはそう言った後、何やらもじもじし始める。
上目づかいで俺をちらっと見てはうつむく、といった事を繰り返す。
言いたい事があるけど言い出す勇気が持てないという事がありありと分かる。
言えるまで待つのがマナーみたいなもんだろうが、生憎とここは購買だ。
紫子さんが一緒にいるからか、それとも皆育ちがいいせいか、誰も苦情を言ってこないけど、いい加減邪魔になるだろう。
「ごめん、テーブルまで移動していいかい?」
「あ、はい」
百合子さんはきょとんとしたものの、直後にうなずく。
自分の現在地をすぐ思い出してくれたのは幸いだった。
「そうね。ご飯を食べてからにしましょう」
紫子さんの一言で決定したと言えるだろう。
それにしても、さっきからデジーレと相羽の存在感が低下しているな。
紫子さんがいるから遠慮してしまっているんだろうか。
……だとしたら俺も少しくらいは自重した方がいいのかな?
紫子さんが何も言わない間は大丈夫だとは思うんだけど、何かを言われてからでは遅いという気もする。
他のメンバーはサンドイッチにコーヒーか紅茶だが、俺だけハムカツサンド、ホットドッグなどをつけていた。
「やはり殿方の方がたくさん召し上がるのね」
紫子さんが感心したように目を細める。
「はあ」
言外に大食漢だと言われたようで恐縮してしまう。
ここのは食堂も購買のも美味しいから、いくらでも入るんじゃないかって思えてしまうんだよなぁ。
もちろん限界はあるんだが、それが残念に思えてしまうくらい味はいい。
お嬢様達、普段からこんなものばかり食べているんだろうな。
一緒に食事をすると言っても、食べながらおしゃべりをするのはマナー違反である。
それは紫子さんという上級生がいても例外ではない。
むしろ先輩の目があるという状況だから、余計に厳しいかもしれない。
食べ方にも個性があってなかなか面白い。
当たり前だが、じろじろ見たりするのもマナー違反だが。
相羽は小さな口でゆっくりとリスのように食べる。
デジーレは上品さと豪快さを兼ねたような食べ方だ。
この二つが両立するあたり、さすがただものじゃない。
次に紫子さんだが、優雅で流麗な印象を与える食べ方だった。
こちらもただものじゃない感が半端なくにじみ出ている。
妹の百合子さんも似たようなものだった。
さすが姉妹といったところだろうか。
一方で俺はと言うと、上品さなんてかけらもない食べ方だと言うほかない。
まあ、誰にも注意をされた事はないから、これがダメだっていうわけじゃないと思うが。
ある程度は男って事で許してもらえると助かるな。
あまり人の食事姿をじろじろ見るのも問題なので、自分の分に集中する。
新鮮な野菜と舌でとろけるチーズ、サクサクでジューシーなカツ、柔らかくてかすかに甘い味がするパン、そしてコーヒーの芳香を楽しむ。
贅沢って言うのは美味しいものを食べる事だと言われても、反論できないよなあ。
ここの購買、マジ凄い。
一体どういう仕組みなんだろうか?
いや、本来の値段を考えれば、採算は取れているのか?
俺には到底手が出せない金額なんだけど、他のお嬢様達は平気な顔をして利用しているしな。
最後に相羽が食べ終えて、皆がお茶タイムへと移った。
それを見計らったように紫子さんが、話しかけてくる。
「そろそろダンスの授業が始まったと思うけれど、赤松さんはいかがかしら?」
その言葉に百合子さんも興味深げな視線を送ってきた。
俺は苦笑に近い感情を抱きながら、率直に答える。
「難しいですね。デジーレのおかげで何とか恥をかかずにすんだといった感じです」
何せ今まで一度も踊った事がないんだからな。
いきなり踊れるほど、俺は才能豊かな超人ではない。
俺の言葉を受けた桔梗院姉妹は、視線をデジーレへと移す。
どうやら俺の評価が気になるらしい。
「生まれて初めて踊ったという割にはお上手だったと思いますわ」
金髪の貴族令嬢はそう感想を述べた。
上品な笑みを浮かべていたので、お世辞もいくらかは入っていると思う。
「そうなのですか。さすがですわ」
何がさすがなのか分からなかったが、百合子さんが我が事のように嬉しそうに目を細めた。
いや、あまり額面通りに受け止められても困るんですけど。
百合子さんの中で俺はだいぶ美化されているんじゃないだろうか?
そういうのって困るよな。
かと言って幻滅されるのも怖いと思ってしまう俺は情けない奴かもしれない。
俺の反応を見ていた紫子さんは不意にくすりと笑う。
心を読まれたんだろうか?
何となくいたたまれない気持ちになってくる。
「大した事ありませんよ。もっと練習しないといけないでしょうね」
とりあえずそう言っておく。
見栄を張ってもいい事はないってくらい、承知していたからだ。
ただ、これで終わらせるのも何だったので、こちらからも訊いてみる。
「百合子さんや紫子さんはどうなんですか? 踊りは得意なんでしょうか?」
俺の問いかけにデジーレが「あら」と目を丸くし、相羽が「えええ」と声をあげて、途中で口を押えていた。
あれ? そう言えばこの二人は桔梗院姉妹を下の名前で呼んでいる事は知らなかったんだっけか?
やばいな、誰が知っていて誰が知らないか、段々分からなくなってきている気がするぞ。
「残念ながらわたくし達、ワルツは苦手ですわ」
紫子さんは少しも残念そうじゃない顔で言った。
百合子さんは申し訳なさそうな顔でうなずく。
「私もお姉様も日本舞踊ならばできるのですけれど、外国の踊りは嗜んで来なかったのです。だからお力にはなれないと思います」
そうだったのか。
まあ、見るからに和風美少女って感じなので、日本の習い事しかやった事がなくても違和感はないけどな。
それにしても俺、助言が欲しそうに見えていたのか。
当たらずとも遠からず……うん、ちょっとだけ見栄を張りました。
「そういうものなんだな」
「私なんて踊り自体、やった事ないよ」
相羽が微苦笑を浮かべながら自嘲する。
自分も庶民的だと言いたいらしい。
「おー、俺もだよ」
俺はおどけて、相羽と二人でくすくす笑いあう。
「ならば練習してみてはいかがですか?」
デジーレがそう提案してくる。
何度も瞬きをして、彼女の言葉の意味を咀嚼しようとした。
「練習って……場所も相手もいないと無理だろう?」
今日習ったワルツを踊るスペースくらいはうちにもあるだろうけど、曲とパートナーに関してはどうしようもない。
まさか妹相手にやるわけにもいかないしな。
あいつをパートナーにするのは構わないけど、あいつにワルツが踊れるとは思えない。
俺の反応を見たデジーレは優雅な笑みを深めた。
「よろしければ、わたくしがお相手いたします」
「えっ?」
驚いた声を出したのは何も俺だけじゃない。
相羽、百合子さん、そして紫子さんまでが俺と似たような表情で、原因である白人美少女を見やる。
「デジーレが……いいのかい?」
真意を探ろうと質問をすると、金色の髪が揺れた。
肯定が返ってきたのだ。
「もちろんですわ。クラスメートの苦労を見て見ぬふりするわけにもいきませんから。リナもわたくしと練習して上達したのですよ?」
さらりとカミングアウトされる。
「そ、それはそうだけど……」
された相羽は何やら慌てていた。
デジーレに練習相手になってもらった事をばらされたのが原因かなって一瞬思ったものの、踊れないとか庶民とか自分で言う事がそうなるかな?
むしろデジーレが俺の練習相手を買って出た事が理由か?
桔梗院姉妹も似たような反応だったしな。
俺とダンスの練習をするくらいで一体何を慌てているのかと考えたが、もしかするとお嬢様達にとっては外聞がよくない事なのかもしれない。
相羽は女子だけど俺は男だからな。
ダンスの練習となると、閉鎖された空間で二人きりとなる。
デジーレは素晴らしい美貌と日本人離れしたスタイルの持ち主だから、色々と勘ぐる輩が現れてもおかしくはないな。
「あ、あのっ」
俺が色々と思いを巡らせていると、百合子さんが声をあげる。
どこか必死さを感じさせる表情で俺の方を見つめてきた。
「あ、赤松様がよろしければですが、私も立候補させていただきたいですっ。お教えするのは無理でしょうけど、練習相手くらいならば、なれると思いますからっ」
これにはデジーレと相羽が驚く。
もちろん俺もだ。
姉の紫子さんは一瞬だけ目を見開いたものの、すぐに「よく言った」と言わんばかりの顔になっている。
「それがいいわね。色んな相手と踊った方が、実力がつくと思うわ」
そういうものなのかね?
まあ、一杯練習した方が上達はしやすいんだろうけど。
ここで皆の視線が俺へと集中する。
「皆がいいならお願いしたいな」
俺は素直に甘える事にした。
上達しない方が迷惑と言うか、意地を張って断る方が問題になると思ったのである。
「ならば今日からはいかがですか?」
デジーレがそんな事を言い出す。
「え? 今日から?」
さすがに想定外だったが、何も俺だけではなかったらしい。
他の女性陣も目を丸くして手を口に当てていた。
「いくら何でも急すぎるんじゃないかな?」
相羽が遠慮がちに言う。
デジーレと仲がいいからこそ、言いやすかったんだろう。
「そうでしょうか?」
言われた方は本当に怪訝そうだった。
「日本語で言うでしょう? 善は急げと」
使い方を間違っているとは言わないけど、せっかちで強引な感じがする。
外国人だからか、それとも貴族だからだろうか?
いずれにせよ、今日は無理だと早めに言っておいた方がいいよな。
「ごめん、無理だよ。生徒会があるしさ」
単に断るだけじゃ悪い気がしたので、代案を出してみる。
「今度の土日ならいけるんだけど、その日じゃダメかな?」
「土日には習い事が……」
百合子さんが申し訳なさそうと言うよりは悲しそうな顔で目を伏せた。
「わたくしは日曜日ならば大丈夫ですわ」
デジーレはそう言って微笑む。
相羽も「私も今度の日曜なら」と言ってくれた。
百合子さんがますます落ち込む。
見かねたのか、紫子さんが口を挟んできた。
「別にお稽古は一日中あるわけじゃないでしょう? 時間に余裕があるところをお伝えしてみなさい」
声も表情も優しかったが、言葉の中身はそうでもない。
あくまでも百合子さん自身の口で言わせようとする、一抹の厳しさを感じた。
「ええっと、日曜日の午後二時頃から、四時頃まででしたら大丈夫だと思うのですけれど」
若干潤んだ、すがるような目を向けられてしまう。
これじゃ無理だなんて言えないよ。
女の涙は卑怯なんてフレーズが存在する理由がよく分かる。
反射的に返事をしようとして、辛うじて言葉を飲み込む。
デジーレや相羽の都合もあるんだから、俺の一存で言うわけにはいかなかったのだ。
「二人はどうなんだい? 日曜日の都合は」
「そうですね。二時頃ならば大丈夫ですわ」
デジーレは即答し、相羽もうなずく。
これで「はい、解決」とはいけばいいんだけど、残念な事にそうはいかない。
次は場所という問題がある。
踊れるスペースがあり、周囲に迷惑をかける事がないところじゃないとダメだ。
俺がそう口にすると、少女達はくすりと笑う。
示し合わせたわけでもないだろうにと思っていると、すぐに理由は判明した。
「私達の家でやるしかないと思うよ」
相羽が控えめな口調で言ったのである。
「そりゃそうか」
というかそれが無難だよな。
お嬢様の家に男の俺がお邪魔するという、心理的なハードルと外聞的ハードルを無視するのなら。
前者は俺一人の問題なんだが、後者はそう単純じゃないだろう。
「年の近い男が遊びに行くのは問題ないのか?」
声に出して訊いてみる事にした。
一度も考えた事がない、なんて事はないはずである。
少なくとも紫子さんはあるはずだった。
それほど長いつき合いじゃないけど、そこまでうかつじゃない人だというくらいは分かっているつもりだ。
「大丈夫だと思いますわ」
デジーレはあっさりと答えてしまう。
そして意味ありげな笑みを作る。
「二人きりならばともかく、リナやユリコも来るのでしょう? 誤解の生じようがないではありませんか」
これまたごもっともだった。
先走りすぎ、というか自意識過剰すぎたようで恥ずかしい。
桔梗院姉妹も遠慮がちではあったが、笑っている。
例外は相羽だけだった。
彼女はあっと声をあげ、慌てて口を抑える。
「どうしたんだい?」
俺が問いかけるとどこか恥ずかしそうで、なおかつ申し訳なさそうな表情になった。
「実は両親が一度赤松君に会ってみたいなんて言っていたの」
「ええっ?」
彼女の言葉には、全員が叫んでいた。
「ほら、打ち上げの事でね」
説明されると少しは納得がいく。
相羽は打ち上げ以降、あまり劣等感は抱かなくなったようだからだ。
少なくともあまり表立っては出していない。
ご両親にしてみれば、娘の心境が変化した理由を尋ねてみたのだろう。
そして俺という存在が浮かび上がった、というわけだ。
全部俺の想像だが、全くの見当はずれという事はないと思う。
そうでないと相羽の両親が、俺に会ってみたいなんて言い出すはずがない。
「今すぐってわけじゃないけど、いつかは、ね?」
考えてみてほしいな。
はにかみながらそう言われて俺は拒絶する事ができなかった。




