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結局、高遠先輩が助け舟を出してくれるまで、天国地獄は続いたのだった。
「あなた達?」
高遠先輩がこう冷ややかな一言を投げただけで終わったのだから、もう少し早く助けてくれても。
そう思った俺にも冷たい一瞥が浴びせられ、背中が寒くなった。
内心、鼻の下を伸ばしていたのがばれているのかもしれない。
余計な事は言わないでおこう。
「ありがとうございました」
ただ一言お礼だけ言う事にする。
先輩はちらりと皮肉がこもったまなざしを向けてきたけど、声には出さなかった。
そのおかげで空気は悪くならなかったと思う。
二年生の決勝が始まると同時に、高遠先輩は去っていった。
仕事があるのだろう。
三年生の試合が始まる頃に戻ってくるらしい。
二年生の試合はやはり、一年生よりもレベルが高いけどデジーレみたいな人はいなかった。
あいつだけ別格なのかな。
観衆は盛り上がっているので、俺もおつきあい程度に声援を送った。
知り合いがいないのに盛り上がるのは難しい。
ましてよく知らない競技なのだからなおさらだ。
野球やサッカーだったら熱くなれたかもしれないんだが、女子高じゃ競技種目にはならないよな。
女子高と言うかお嬢様学校と言うべきか。
二年生が退場し、三年生達が入場してくる。
それなりに熱くなっていた観客席が、一瞬冷却化した。
そして再び沸騰する。
姫小路先輩が登場したからだろう。
どこにいるのかなんて探す必要がなかった。
一人だけ光でも放っているんじゃないかって思うほど、存在感があったからである。
美人が多い英陵においても完全に別格だ。
改めて強く認識する。
だからと言って実力があるとは限らないと思うけど。
ついそう言いたくなったのは多分俺だけなんだろう。
他の子達は好きなオモチャかお菓子を目にした子供のように、キラキラとした目で先輩の事を見ている。
正直、ついていけなくて軽く引きそうになった。
果たしてどうなるのか。
俺が斜めな興味を抱く中、試合が始まる。
三年同士だからか、二年生よりもやや上手い感じだ。
そんな中、姫小路先輩はと言うと、要所で光るプレーをする。
敵のマークを引き付けて味方にパスを出したり、いいところでパスをもらって点を取ったりといった具合にだ。
さすがにデジーレのように無双したりはできないようだが。
まあ、あれは別格なのだろう。
先輩がパスを受け取る度に小さな歓声が起こる。
大きくならないのは選手達への遠慮があるからだろう。
そう思わせる雰囲気があった。
「どうですか、翠子は?」
隣にいる高遠先輩が小声で質問をしてくる。
何とも意図を把握しにくく、答えるのに困る内容だった。
「何と言うべきか、凄いですね」
これが一番適切だろう。
と言うよりもむしろ、他に言いようがないと言うべきだろう。
「そうですか? デジーレさんの方が凄くはないですか?」
ああ、そういう意味だったのか。
得心はいったものの、即答はしかねる。
言葉を選びながら返事をした。
「でも、あいつはほぼ個人技ですし。チーム戦術という点では、姫小路先輩の方が格段に上じゃないですか」
この点に関しては、比べるだけ失礼というものだろう。
デジーレは基本的に一度パスをもらったら、そのまま個人技で一気に点を取るというスタイルである。
一人での突破が困難になった時だけ周囲を使う。
チームワークも何もあったものではない。
周囲と上手く連携していく姫小路先輩とは大違いである。
「個の力は大きなものではないと?」
高遠先輩、何か食い下がってきているのか?
俺の考え方でも知りたいんだろうけど。
「そりゃ、場合によっては必要でしょうし、プロスポーツなら重宝されるかもしれないですけど」
デジーレなら同級生の気安さもあり、割と遠慮なく評価ができる。
「でも、これってただの学校行事ですよね」
俺の言いたい事はこの言葉に集約してしまえるのだ。
お祭りイベント的なものなのに、一人で全部やってしまう奴って嫌われそうなものなんだが。
感心されてはいても嫌われている様子がないのは、善良な人間しかいない英陵だからじゃないだろうか?
もちろん、デジーレ本人の人徳があるのは否定しない。
美人で人当りがよく、面倒見もいいし、貴族のお嬢様なのに家柄を鼻にかけたりもしない。
俺みたいな異分子的存在にも積極的に話しかけてくれ、皆の輪に入れようとしてくれる。
性格も美人だと断言できる子だ。
「まあ、彼女は何事にでも全力で取り組む性分みたいですから」
何故か高遠先輩がフォローをする。
これって普通は逆だよな。
クラスメートの俺がやらなきゃいけなかったように思う。
反省しよう。
「そうですね。僕を皆の輪に入れる事にも、一生懸命になってくれていましたから」
迷ったけど、あえて過去形を使った。
そうしないといつまで経っても、お客さん的ポジションのままになるんじゃないかと危惧したからだ。
少なくともここの皆は俺の事を受け入れようとしてくれている。
だったら俺も溶け込もうとするべきなのだ。
俺の密かな決意や努力を見抜いたわけじゃないだろうけど、高遠先輩は口元をかすかに動かす。
これはこの人が微笑ましく思ったサインなのだ。
それなりのつき合いで分かるようになった。
「まどか。それに赤松さん」
姫小路先輩が話しかけてくる。
これまでにそれなりの人間がいたはずだが、この人にとっては関係なかったのだろう。
綺麗なまでに左右に人垣が割れて道ができている。
黙っていても皆が譲ったのだろう。
それを当然と思うほど傲慢な人ではないが、いちいち気にするほど繊細な人でもないっぽい。
「ご覧になりましたか?」
それに今は俺達との話を優先したいのだろう。
「ええ」
俺と高遠先輩は異口同音な返事をする。
「相変わらず見事でしたね」
高遠先輩が一言感想を述べ、ついで俺の方をちらっと見た。
俺にも何か言えって事か。
「とてもお上手でびっくりしました」
下手なごまかしは通用しないので、本音を明かす。
すると姫小路先輩は拗ねるように口を尖らせる。
「あら、わたくしは運動ができない女だと思っていらっしゃったのですか?」
目が悪戯っぽく笑っているから、本気で言っているわけではないと判断できた。
ただ、それでも何も返さないというわけにもいかない。
高遠先輩はさておき、それ以外の女子陣が何気なさを装って聞き耳を立てている事が手に取るように分かるからだ。
「失礼ながら、お姫様のようなイメージが先行していて」
そうは言っても今更気の利いたセリフが出てくるはずもない。
本当の事を伝えて姫小路先輩に許してもらう事が最優先だ。
本人が許してくれたなら、他の人達は何も言わないだろう。
頬をかきながら申し訳なさそうに弁明すると、姫小路先輩は頬を紅潮させていた。
「あらまあ。お上手ね」
いや、別にそういう意味で言ったわけじゃないんですが。
ああ、そういう風にも取られるのか。
俺、全然学習していないな。
「動きも洗礼されている感じでお美しかったので、イメージが違うというわけじゃないんですが」
何とかごまかす、あるいは言い訳はしておきたい。
だからと言って先輩を貶すような事は言えるはずもない。
そんなジレンマが俺を襲い、上手く言葉が出てこなかった。
「そ、そう」
俺の言葉がどう伝わったのか。
姫小路先輩は耳まで赤くなり、うつむいてしまっている。
周囲の視線が痛い。
別に睨まれたりしているわけじゃないけど、とんだ計算違いだったのは確かだ。
背中に嫌な汗をかいている。
思わず助けを求めて高遠先輩に視線を向けると、呆れたようにため息をつかれてしまった。
「赤松君の立場や心情は理解できますが、もうそろそろ異なる言い回しについて考えられるようになるとよいですね」
「す、すみません」
俺への配慮がにじみ出ていたので、反発を抱く事なく謝罪する。
教えてもらえたらありがたいのに、という思いが少し頭の隅をよぎった。
するとまるでそれを読んだかのように高遠先輩が口を開く。
「他人の言葉を借りては、誰かの心に響かないと思った方がよいでしょう。まして翠子が相手ではね」
正論だった。
俺は言い返さず、黙って頭を下げる。
その間、当然周囲の耳目が俺達に集中していたのだが、誰も何も言わなかった。
どうやら礼儀正しく(?)見て見ぬふりをしてくれるつもりらしい。
さすがお嬢様学校だ、と半ば投げやりに感心した。
俺に忠告した後、高遠先輩は姫小路先輩に話しかけて我に戻らせる。
「我々は業務に戻りましょう」
「そうね」
生徒会副会長の言葉に会長はうなずいた。
まだ、三位決定戦などが残っているはずだが、彼女達に見る余裕はないのだろう。
俺だけがぽつんと残される事になりかねない。
「あの、お手伝いしましょうか?」
さすがに知らん顔し続けるわけにもいかないので、そう申し出る。
先輩達は顔を見合わせてうなずきあい、姫小路先輩が代表して言った。
「そうね。お願いする事にしますね」
俺は実のところホッとする。
今、この場で残されたら他のお嬢様達の反応が怖かったのだ。
見る人によっては大勢の前で姫小路先輩に甘い言葉をささやいていたのだから。
そんな気は全くないと言っても通用するかは疑問である。
考えようによっては、先輩達なりの助け舟だとも解釈できた。
「それでは一緒に行きましょうか」
高遠先輩がそう促して歩き始め、姫小路先輩もそれに続こうとする。
そしてバランスを崩してしまった。
「きゃあっ」
黄色い悲鳴が上がったが、それが誰のものかは識別できなかった。
俺は反射的に体を動かし、落下してきた姫小路先輩を受け止めたのである。
黒い髪がさらさらと流れ、いい匂いが鼻をくすぐった。
先輩のぬくもりも伝わってくるけど、到底それどころではない。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え、ええ。どうもありがとうございます」
姫小路先輩はしばしの間固まっていたようだが、俺が話しかけた事によって我に返ったのだろう。
胸に手を当てて息を吐き、それから俺にお礼を言う。
はっきりと形が変わったのが分かるくらいの大きさなんだな。
とっさにそう思ってしまい、慌てて視線を逸らす。
「さすがですね、赤松君。百合子さんを華麗に助けただけの事はあります」
高遠先輩がそう褒めてくれる。
三年生にまであの件は広まっていたんだな、と改めて思った時、突如として黄色い声が爆発した。
「本当に素敵でしたわ、赤松様っ!」
「翠子様の危機を颯爽とっ!」
何事かと思って振り向くと、さっきまで沈黙を守っていたお嬢様がたが目を輝かせ、頬を紅潮させている。
言うまでもなくかなりの興奮状態にあるらしい。
貞淑とか慎みとか遠慮とか、常日頃装備している諸々も、今はどこかに失くしてしまったようだ。
こう言うと俺が冷静なように感じるだろうが、無理矢理でも何でも冷静になるしかない、という状態なのである。
姫小路先輩が出場するという事で、軽く百人くらいのギャラリーがいたのだ。
そしておそらくほぼ全員が、興奮して騒いでいるのである。
冷静になるしかないじゃないか。
いや、ホント一体何なんだコレ。
ついていけないってもんじゃないよ。
デジーレが微笑みを湛えながらやってくる。
「お見事でしたわ、ヤス。まるで物語のヒーローみたいに素敵でした」
勘弁してくれよ。
俺は情けない顔で貴族令嬢の顔を見る。
もちろん彼女に悪気は全くないのだろう。
讃辞と好意百パーセントといった感じで俺に熱いまなざしを送っている。
悪い気がしないのは事実だが、居心地がよくないのも確かだ。
こうなると頼りになるのは高遠先輩くらいのものか。
そう思って目を向けると、黙って肩を竦められた。
お手あげですか、そうですか。
「本当にヒーローみたいだったわね」
「百合子様もヒーローの如くお助けになったのでしょう?」
「そうよね。本物のヒーローみたい」
おいおいおいおい。
更に話が膨らんでいっているんじゃないか?
マジで誰か何とかしてくれ。
誰も頼りにならない以上、自分で収束を試みるしかないのか。
「えっと、人として当然の事をしただけですので、あまりほめないで下さい」
これでいいのかと思いはしたものの、他に言いようがない。
「人として当然ですって」
「素敵!」
あれ? 何か逆に黄色い歓声が起こったんだけど。
お嬢様達は更にヒートアップしてしまった気がする。
どうしてこうなった……。
たまりかねて高遠先輩の方をちらりと見ると、先輩は俺の側まで寄ってきたささやきかける。
「だから言ったでしょう。今はお手上げだと」
「すみません」
全くもって仰る通りだった。
俺がやったのは火に油を注いだ結果に終わってしまったようである。
「こういう時、本来ならば翠子が頼りになるのですけれど」
姫小路先輩は残念ながらあちら側の人間になってしまっているのだ。
故に手が付けられないのである。
「季理子さんと紫子さんがいればもう少し何とかなるのでしょうけどね」
高遠先輩はそう言って嘆息した。
季理子さんと紫子さん、恐らく二年では人気と影響力がツートップであろうお二人は何故か不在だった。
何故かと言うのも変か。
他に見たい試合があったりしただけだろうから。
結局、皆が落ち着いたのは一年生の三位決定戦のアナウンスが流れてからだった。
助かったとは言いがたい。
問題は単に先送りになっただけだからだ。
今のうちに考えようにもどうしようもない。
「これから大変ね、ヒーロー様」
俺にそんな風に声をかけてきたのは小早川だった。
彼女もこの場にいたらしい。
「いたなら止めてくれよ」
俺は情けない声を出す。
誰でもいいから助けてほしい気持ちでいっぱいだったのだ。
そんな俺に対して学級委員長は、申し訳なさそうな顔を作る。
「ごめんなさいね。でも、一年生だけならまだしも、先輩がたに対しては私が言えないわ。言っても効果は期待できないでしょうし」
それはそうかもしれないな。
英陵はいいところではあるものの、上下関係はしっかりしているところだ。
先輩が後輩に対して横暴だという事はない。
むしろ優しく親切で面倒見がいいと言えるだろう。
その一方で、後輩は先輩に対して礼儀正しく従順で遠慮がある。
決して強制されているわけじゃない。
ごく自然にそれが当たり前なのだと認識しているのだ。
先輩に対して忠告をしたり、諌めたりしたりする事は可能だろう。
だが、一人が不特定多数に言ったところで聞き入られるかは別問題なのである。
姫小路先輩、季理子さん、紫子さんといった人達の名前が出たのはそういう理由だからだ。
この三人は学年の壁を越えた影響力がある。
「紫子さんと季理子さんを探して頼んでみようかな」
俺は独り言を言ったつもりだった。
あくまでも自分に対して。
ところが小早川の耳にはしっかりと聞こえていたらしく、鋭い視線を向けてくる。
「え? 赤松君、今紫子様と季理子様の事を名前で呼ばなかった?」
「あ、いや……」
しまった。
うっかりしていた。
どうやってごまかすか、必死で頭を動かすけど、委員長は言い逃れは許さないと言わんばかりに見つめてくる。
これは無理だな。
俺は早々に諦め、事情を簡単に説明した。
「これってインパクトがある事なのか?」
そして問いかけてみる。
答えは予想できたけど、訊かないわけにもいかない気がしたのだ。
「当たり前よ」
小早川は真面目な顔をして肯定する。
「下級生が上級生を下の名前で呼ぶのもかなり異例なのに。おまけに赤松君は男性でしょう? よほど親しいか、あるいは婚約者なんじゃないかって勘ぐられるわよ」
「こ、婚約者?」
全く無縁だった単語を聞いてむせ返りそうになった。
「ええ、そうよ」
あくまでも小早川は真面目な顔である。
「赤松君にとってはどうかは知らないけど、私達にとっては別に珍しくない存在なのよ」
この人当りが良くて面倒見がいい同級生が、初めて異世界の住人に見えた。