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結局、昼休みは桔梗院姉妹をナンパしただけになってしまった。
少なくとも、結果だけ見れば否定はできない。
休み時間が終わりそうになったので、茶室から退出したのだが、その際に紫子さんがトンデモ発言をした。
「妹とややこしいでしょうから、今後はわたくしの事は紫子と呼んで下さいますか?」
などと言い出したのである。
俺はもちろん、百合子さんの方も驚いていた。
内心ではとっくにそういう呼び方をしていたわけではあるが、実際に口に出すとなるとまた訳が違う。
二人とも英陵の中では相当な存在なのだ。
そんな二人を下の名前で呼ぶ事を知られたら、一体どんな反応が待っているだろうか。
そう考えるとしり込みしてしまう。
俺がとっさに判断しかねていると、紫子さんは妹の方を向いた。
「あなたもその方がいいでしょう?」
姉に訊かれた百合子さんは、頬を染めてためらいがちながらもこくりとうなずく。
そして俺の方をすがるような目で見る。
「赤松様……ご迷惑でなければ、わたくしからもお願いいたします」
そう頼まれてしまった俺は、ハイと言うしかなかった。
俺が教室に戻ると、一斉に視線が浴びせられた。
これは入学式の時以来の事で、一瞬たじろいでしまう。
一体、俺は何をやらかしてしまったんだろう。
疑問に思いながら席に着くと、相羽が小声で尋ねてきた。
「紫子様に呼び出しされたんだって?」
俺は驚き、小声で訊き返す。
「え、もしかして広まっているのかい?」
相羽はこくりとうなずく。
どうやら同級生達は全員、俺が紫子さんに呼び出された事を知っているようだ。
恐るべし、女社会の情報伝達力。
千香の奴が忠告していたのはこういうところなのか。
この分だと生徒会や風紀委員会の耳にも入っているかも。
生徒会の皆は大丈夫だと思うけど、風紀委員は厄介だなぁ。
風紀委員と言うか、正道寺先輩がと言った方が正しいけど。
「もしかしたら、皆聞きたがるかも」
相羽はそんな事を言う。
え、それってただのゴシップ好き野次馬じゃないか。
ここは英陵で、俺以外お嬢様だらけだろう。
そんな子はいないと断言するのは難しいかもしれないけど、あまりいないはずだ。
……いないよな?
少し不安になった俺をよそに五時間目の授業は始まった。
数学だったけど、半ば上の空で聞いていた。
集中しようと思ったのになかなかできない。
俺ってやっぱりメンタル弱いのかなぁ。
軽く自己嫌悪に陥っている間に授業は終わった。
先生が退出すると、相羽が何となくこちらを見る。
うん、視線は他にも感じるよ。
何か言いたそうな、あるいは尋ねたがっていそうな種類のものが。
とは言え、俺の方から自発的に訊かれてもいない事をペラペラ話すというのもなぁ。
さて、どうしたものか。
そう迷っていると、相羽、デジーレ、恵那島、大崎、小早川がやってきた。
委員長の小早川に俺と仲良くなった四人ってところか。
分かりやすすぎるけど、変にひねられるよりはずっといいな。
「赤松君、今少しいいかしら?」
口火を切ったのは小早川だった。
「うん」
俺は判決を言い渡される人間のような気分で待ち構える。
「紫子様に呼び出されたって本当?」
相羽が心配そうに質問してきた。
恵那島、大崎、デジーレも似たような表情である。
あれ、これはもしかして……。
「うん。桔梗院……百合子さんを助けた奴がどんな人間か、一度見てみたかったらしいよ」
「そうだったの」
小早川もどこか安心したようにほっと息をついた。
やっぱりこの子達は心配してくれていたのか。
ちょっとでも疑ってしまった自分が恥ずかしい。
「たとえユカリ様が相手だとしても、わたくし達はあなたの味方ですからね」
デジーレが励ますように微笑みながら言ってくれる。
見る者の心を温めるような、そんな魅力があった。
相羽、恵那島、大崎、小早川が力強く同意する。
そしてその後ろでも「何だ、よかったわ」とささやきあう声が聞こえてきた。
皆、俺が紫子さんに叱られたりしたのではないかと心配していたんだな。
やばい、マジで自己嫌悪だわ。
「何かあったら頼りにさせてもらうよ」
俺の言葉は笑顔で受け入れられた。
本当、英陵に入学できてよかったと思う。
ただ、少し気になる事はあるな。
デジーレの「たとえ……」というくだりだ。
敵に回したら恐ろしい展開もありえるんだろうか。
紫子さんは姫小路先輩と人気を二分するくらいだから、ないとは言い切れないな。
妹の百合子さんも一目を置かれるような存在みたいだし。
何かあったら姫小路先輩に泣きつく……というのも虫がいいだろうしな。
そういう意味では皆をアテにするのもダメになってしまうけど、やっぱり断るなんてできないし。
……少なくとも紫子さんの様子を見るに、別に俺をどうこうといった気はないだろうけど、今後は気をつけなきゃいけないかも。
それを言ったら姫小路先輩もなんだが、何と言うかあの人は大丈夫だと思う。
むしろ正道寺先輩の方が……あの人の事を考えるのはよしておこう。
それにあの人も厳しいだけで、別に悪い人じゃない。
六時間目の終了後、小笠原先生がやってきてホームルームが始まった。
「球技大会が近づいてきています」
その一言でそんなものがあった事を思い出す。
元お嬢様学校と言っても、その手の行事は普通にあるんだなぁ。
とは言え、競技種目や参加人数のせいで、俺に出場機会があるのかどうか、かなり怪しいんだが。
裏方に徹するしかないんじゃないかな。
しかし、先生から行事に関する通達があっても静かなのはさすがだよな。
中学時代までなら絶対騒ぐ奴がいたもんだけど。
「今年の種目はラクロスとバスケットボールです。どちらに参加するか、考えておいて下さい」
本日はそれだけ言って終わりだった。
メンバーを決めて提出するのには後日時間を取るとか。
先生が去り、清掃の時間となる。
俺は今週は当番じゃないから、生徒会室へと向かう事にした。
球技大会の事については先輩達に訊いてもいいからな。
その最中、正道寺先輩とばったりと出くわしてしまった。
こちらに疾しい事はないので堂々としておこう。
「聞いたよ、赤松君」
風紀委員長はお嬢様にしては険しい眼光を浴びせてくる。
「何がでしょう?」
あるいは失礼な言い方かもしれないが、他に言いようもない。
先輩は特に咎めずに続きを口にした。
「百合子を助けた件で紫子に呼び出されたそうだな」
「はい」
やはり耳に届いていたか。
むしろ生徒会と風紀委員会には真っ先に報告が行くのかもしれないな。
「その件については立派だったと褒めておこう」
「ありがとうございます」
少し意外に思いながらも言葉を受けとる。
先輩はまっすぐに俺の目を見据えて言った。
「ただし、お前は唯一の男子生徒だ。お前に悪気はなくても、風紀が乱れているようにしか見えない、と判断される事はある。その点は忘れるな」
「はい、ありがとうございます」
どう聞いても純粋な忠告だったので、頭を下げてお礼を述べる。
「後、そんな意外そうな顔をするな。この学校ではよくとも、外に出ればよくない輩には絡まれるぞ」
くすりと笑いながらそう警告し、先輩は去って行った。
やべ、顔に出ていたのか……。
それにしても、あの人は何が何でも疑うってわけじゃないんだな。
俺って変な先入観を持っていたのかもしれない。
別に毛嫌いしているわけではなかったものの、苦手な人である事は確かだった。
今日は反省が多い日だな。
とは思いつつ、少しだけ気分は軽くなっていた。
正道寺先輩は笑ったら百合子さんや七条先輩に引けを取らない美人だったから、というわけじゃない。
……ほんの少しだけあるかもしれないけど。
生徒会室、と言うよりは一つの建物だが、そこに行くとまだ誰も来ていなかった。
その事に少しほっとする。
一番早く来た人が簡単に清掃をする、という暗黙の了解みたいな習慣が存在するのだ。
そしてそれは大概、下っ端の役目である。
だから一年である俺が一番早いのが、一番いいのだ。
二年の藤村先輩、内田先輩、水倉先輩ならまだしも、姫小路先輩や高遠先輩が早かったりしたら焦ってしまう。
いくら何でも三年生に清掃とかさせられないからな。
二年生にならさせてもよい、という訳ではないが。
清掃と言っても、軽く絨毯をカーペットクリーナーをコロコロしたり、机や窓ガラスなどを乾いた雑巾で拭く程度だ。
毎日やっているだけあって綺麗なので、大した労力ではない。
コロコロを終えたくらいのタイミングで、高遠先輩がやってきた。
「こんにちは。赤松君だけでしたか」
「高遠先輩、お疲れ様です」
俺の返事にうなずき、先輩は荷物を置いて自分の席に座る。
先に誰かが来ていた場合、三年生は清掃を手伝わないというのもルールなのだと、内田先輩に教えてもらった。
手伝ってもらったりすると気を使っちゃうから、ありがたいルールだ。
俺が雑巾がけをしている間、先輩は鞄から取り出した本を読んでいる。
生徒会業務の準備をしないのは、どこまで清掃が終わっているか分からない為だろう。
冷たいような態度ではあるが、「催促しない」「焦らせない」という意味があるのだ。
少なくとも俺にとってはありがたいのである。
正直なところ、高遠先輩と仲良く、あるいは楽しく清掃というのは難しいからな。
……そういう意味でなら、内田先輩か水倉先輩でないと無理ではあるんだが。
無言の空気が流れる。
高遠先輩は少なくとも、俺が何らかの作業をしている時は話しかけてこないからだ。
いや、話しかけてくるのは内田先輩くらいのものか……。
ある意味、内田先輩だけ浮いているとも言えるな。
一種の清涼剤的存在になってくれているとは思うけど。
俺にとって一番話しかけやすい人だし。
清掃を終えると、高遠先輩に一言声をかける。
「先輩、終わりました」
すると先輩は本を直して立ち上がり、俺のお茶を淹れてくれるのだ。
初めは断ったのだが、クールな目でじっと見つめられると拒絶しきれなくなってしまった。
「下の者を労うのも、上の者の役目です」
クールな口調でそう言われたので、俺は二度と断らない事にしている。
綺麗な先輩が手ずから淹れてくれたお茶を飲む機会なんて、そうはないしな。
高遠先輩は元々お茶を淹れるのが上手というのもあるが、高遠先輩が淹れてくれたという事実がお茶の味を三割増しくらいにしている気がする。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
礼を言って受け取る。
本日のは紅茶で、先輩はまず俺の分を置き、それから自分の分を置いた。
残念ながら銘柄は分からないが、恐らく高級なものだろう。
生徒会にあるものは、先輩方が自腹で購入するか、家から持ち寄るかしたものだからだ。
わざわざグレードの低いものを買ってくる、なんて事はないだろうしな。
「ミルクや砂糖は好みでどうぞ」
そう言われるが、ミルクや砂糖も高級品っぽいんだよなぁ。
ちらりとメーカー名を見たけど、外国語で書かれているとしか分からなかったし。
外国のメーカーなら高級ってのは安直だと思うけど、ここは英陵だからな。
俺はミルクだけを入れてミルクティーにする。
本当は美味しいミルクティーを飲む為には、きちんとした手順があるらしい。
ただ、それをやろうとすると気軽にお茶を楽しめないからやらないそうだ。
皆知っているところが凄いよな。
一口含むと、紅茶の風味が口腔に広がる。
「美味しいです。どうもありがとうございます」
「どういたしまして」
高遠先輩はクールに答える。
一見すると壁を作っているように感じるかもしれない。
しかし、実際のところ、砂糖を混ぜるスプーンの速さが落ちていた。
これは先輩なりの照れ隠しなのである。
そう思えば、笑みがこぼれないように苦労するというものだ。
「何か?」
先輩は目敏く見咎め、きつめの視線を向けてくる。
そこがまた可愛かったりするのだが、言葉にすれば藪蛇になるだろう。
「いえ、先輩のお茶、本当に美味しいですよね」
だからごまかす事にする。
こういう言い方だと聞こえは悪いだろうが、口にした事は本心であってお世辞ではない。
「お茶、好きですから」
高遠先輩はそっけなく答えるが、手の動きは更に緩やかになっている。
そして若干だが頬が赤くなっていた。
クールな美少女、という形容がぴったりな高遠先輩なだけに、ギャップが大きい。
「そう言えば」
淡々としてはいたものの、先輩にしてはやや強引な感じで言い出した。
「紫子さんと会ったそうですね」
ここでもそれか。
いや、言われる事自体は覚悟していたけどさ。
まさか高遠先輩が、俺と二人きりの時に持ち出すとは思わなかった。
この人、そこまで俺に興味ないって印象だったし……。
とは言え、訊かれた以上は答えなきゃいけないだろう。
「ええ。百合子さんの件で」
俺が言うとピクリと眉が動いた。
あっと思ったけど、既に遅いな。
「名前で呼ぶようになったのですか?」
「あ、はい。紫子先輩に」
仕方なしに肯定する。
「そうでしたか」
心なしか高遠先輩の声が冷ややかになった気がした。
先輩の事を下の名前でなれなれしく呼ぶのは認めがたいという事なんだろうか。
高遠先輩はそのあたり、厳しそうだしな。
あれ、でも考えてみたら、クラスメート達はあまり気にしていなかったような。
それとも気づいていなかっただけなのか?
紫子さんの事を「さん」ではなく「先輩」と呼んだのは、俺なりのけじめだ。
……さんづけした場合の反応が恐ろしかったのは否定しないけど。
そう言えば、百合子さんの事の顛末について相談してみようか。
どうしてここまで好意的な評価をされるのか分からないままなのだ。
高遠先輩なら、本当の事を率直に教えてくれるだろう。
「先輩にお訊きしたい事があるのですが」
「何でしょう」
高遠先輩はカップを置き、まっすぐな目を向けてきた。
清らかな水を思わせる様に若干気圧され、唇をひと舐めしながら言葉を発する。
「実はその百合子さんの件なのですが」
ここで俺は洗いざらい吐いた。
川の水深が浅く、助ける必要はなかった事もだ。
「はっきり言って、穴があったら入りたいという気持ちなんです。ところが、皆には称賛されたり、百合子さんには感謝されたり、何が何だか分からないと言うか……」
「困惑していると?」
高遠先輩の言葉に大きくうなずく。
「そうなんです。一体どうしてなんでしょうか?」
返ってきたのはくすりという声だった。
高遠先輩は彼女にしては珍しく、口元にはっきりとした笑みを浮かべたのである。
「危ないと思ったらすぐ助けに行く。その姿勢が褒められる事のどこがおかしいのですか?」
「でも、必要なかったわけですし……」
先輩の問いに脊髄反射で応えてしまう。
恥をかいたという思いを引きずっているだけなのかもしれない。
あるいは、もっと格好よく助けたかった、なんて気分もあるのかもしれない。
見苦しいかもしれないけど、結果に結びついたとは言えないのに、称賛されたりするのはどうにもバツが悪いのだ。
「赤松君は結果を出せなければ無意味だと思いますか?」
不意に高遠先輩はそんな事を訊いていた。
質問の意図が分からず、目をぱちくりさせる。
「いや、それは時と場合にもよるんじゃないですか? 何が何でも結果が全てっていうのは違うんじゃないかなって思います」
これは俺の本心だ。
すると先輩は口元を手で隠して、はっきりと笑い声をたてる。
「それなのに自分では結果に結びつかなかったと気にしているのですか?」
ああ、そう言えばそういう事になるのか。
これは笑われても仕方ないな。
きまり悪くなって頬をかいたが、もちろんそれだけでごまかせたりはしない。
「大切なのは川に落ちた生徒達をためらう事なく助ける為に飛び込んだ、あなたのその心ですよ」
笑みを引っ込めて真顔で言われる。
この時初めて、すとんと腑に落ちた気がした。
「分かりました。これ以上は気にしない事にします」
「ええ。あまりうじうじしているのもどうかと思いますし」
え、今何かさらりときつい事を言われたような気がする。
怖くて訊き返す勇気は出せなかった。
この後は、生徒会メンバーが揃うまで会話はなかった。




