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はいそっ  作者: 相野仁
十話
109/114

8

 紅茶を持ち帰って三人に渡した。


「どうもありがとうございます」


 三人ともうれしそうな顔をして受け取ってくれる。

 英陵の子たちはこういう時、「奉仕してもらうのが当然」という反応じゃないのが意外だし好ましい。

 

「たまには教室で食べるのも新鮮でいいね」


「そうですね」

 

 御子柴さんが相槌を打ってくれる。

 

「本当なら気分転換にオーケストラの演奏でも聴きたいところなのですが」


 と言ったのは宮下さんだ。

 四月に聞いたら仰天したかもしれないが、すっかり慣れてしまった現在では


「そうだな」


 と返す余裕がある。

 その気になれば毎日でもオーケストラの演奏を聴けるんだろうなとしか思わなくなった。

 むしろオーケストラくらいなら可愛い方である。


「昼からはオーケストラの演奏を聴きに行くかい?」


 そう提案してみたいところだが、まだ全員分の希望を聞いていない。

 全員の行きたいところに行って、時間的に余裕があれば提案してみようかな。

 昼を食べ終えるとしばらくはのんびりとしていた。

 腹ごしらえが終わったから即行動とは英陵には存在しない文化である。

 慣れてしまえばどうということはないが、最初は俺のギャップに苦しんだものだ。

 当たり前なのだろうけど、「慌てる」「急ぐ」という言葉は普段無縁なのである。

 たっぷり食後四十分くらいはゆるやかに過ごした後、ようやく御子柴さんが口を開く。


「ではそろそろ参りましょうか」


 彼女の声に合わせて他の二人も立ち上がる。


「ああ。じゃあ飲み物は捨てて来ようか」


「それには及びません」


 俺の申し出に対して御子柴さんはそう言った。

 そして外を歩いていたスーツ服の女性にそっと合図すると、彼女が入ってきて後片付けをしてくれる。


「……もしかして飲み物も持ってきてもらえたんじゃ……?」


 まさかと思いながら言うと、三人のお嬢様たちは申し訳なさそうに目を伏せた。


「仰るとおりですけど、はりきっていらしたので止め損ねてしまいました」


「ごめんなさい」


「いや、謝ってもらうほどのことじゃないけど」


 実は空回りしていたというオチだったのか。

 考えてみればお嬢様たちが自分で物を取りに行くというのはこの学校では珍しい。

 どうして思い至らなかったのだと、少し前の自分を恨んでこの話は終わりだ。

 誰かのためにできることがあるっていいよな。

 そう言いたいところだが、口には出さなかった。

 お嬢様たちは共感してくれるだろうし、うなずいてくれるだろうけど、「できること」の定義が俺とはあまりにも違いすぎるのだから。

 いつの日か交わる時が来るんだろうか。

 来ない方がいい気はするなぁ。

 

「昼からどうしようか? 宮下さんは行きたいところはあるかい?」


 何となく彼女に聞いてみる。

 さっきは淵野辺さんの希望を聞いたからな。

 残りは宮下さんと御子柴さんだ。

 今気づいたけど、二人とも「み」から始まる名前だな。

 

「そうね。職員室エリアに行ってみたいです」


「職員室に?」


「はい」

 

 そこに何があるのかはやっぱり行ってみてのお楽しみだという。

 彼女たちはきっと俺でも知っているようなものを選んでくれるのだろうなという予感はある。

 だから素直に行ってみようと思えた。

 彼女たちに合わせたゆったりとした足取りで到着すれば、先に何着かの班が来ていた。

 すでにお昼はすませたか、それともここに来た後で食べるかのどちらかに違いない。

 歩きながら食べているような子は一人もいないは、改めて言う必要はないだろう。


「どれどれ……これは」

 

 俺が目撃したのは「書道」だった。

 何が書いてあるのかよく分からないが、見事な文字で書かれているということだけは伝わってくる。

 

「赤松さんがご覧になっているのは、王義之の楽毅論ですよ」


「王義之?」


「はい。書聖と呼ばれているすごい方だったのです」


 たぶんすごいの一言ですませていい人物じゃないんだろうなぁ。

 英陵の展示物で出てくるくらいなんだから……。


「その隣は空海、橘逸勢ですね」


「空海ならさすがに知っているよ。弘法大師だろう?」


「はい」


 正解していてちょっと安心する。 

 知らないことばかりなのは仕方ないと諦めてはいるけど、だからと言って何も知らないままでいいとも思えない。

 覚えることが多すぎるから、取捨選択をやらなきゃいけないんだが。

 じっくり三十分くらい鑑賞していると、そこへ翠子さんと高遠先輩と見知らぬ二人がやってくる。

 当たり前だけど上級生は知らない人が大半だ。


「あら、ヒーロー様」


 もっとも向こうの方は俺のことをよく知っているらしい。

 からかうような、それでいた多量に好意のこもった上品な笑みを向けられる。

 

「初めまして」


 ペコリとあいさつをさげておく。


「王義之とはいい趣味ですね。それとも空海か橘逸勢目当てでしょうか?」


 翠子さんはいつものように気さくに声をかけてくる。


「いや、同じ班の人の行きたいところに来たところなんです。恥ずかしながら、空海の名前を知っているくらいというありさまでして」


 頭をかきながら正直に打ち明けた。


「そうでしたか」


 翠子さんは俺の美術方面のダメっぷりを知っているはずだし、高遠先輩も話には聞いているはずである。

 

「よい班のメンバーに恵まれたのですね」


 それなのにも関わらずこういう言い方をしたのは、同じ班のメンバーに言及して褒めるつもりだったからなのか。

 他の三人は翠子さんたちが相手だからか、緊張でガチガチになってしまっている。


「淵野辺さん、宮下さん、御子柴さんですね」


「み、翠子様が私たちの名前をご存じだなんて……?」


 三人は目を見開き、口を手で隠しながら驚愕していた。

 驚愕だけではなく感動の色も濃い。

 ……こういう反応を見ると翠子さんって、この学校のスーパースターなんだなと思い知らされる。

 女性でもスーパースターという呼称が当てはまるのかは別にして。

 

「素敵な縁は大切にしたいものですね」


 とだけ翠子さんは言う。

 長々とした言い方はあまりしない人だけど、これだけだとちょっと何を言っているのか分からないんじゃないだろうか。

 高遠先輩とかは付き合いの長さでカバーできるんだろうけど……なんて思ったのは短い間だけだった。

 淵野辺さんたち三名は真剣な表情でこくりとうなずいたのである。

 あれ、もしかして今の分からなかったのは俺だけなのか?

 翠子さんが分かりにくい言い方をしたんじゃなくて、すぐに分からない俺が鈍いのか……?

 だからと言ってこれは誰かに答えを教えてもらいにくい雰囲気があるな。

 どうしようかと思っていたら、翠子さんはこちらを向いてにこりと笑う。


「では私たちは失礼しますね。ごきげんよう」


 彼女たちはあっさりと去っていく。

 拍子抜けしなかったと言えば嘘になってしまうが、三人の様子を見るかぎりありがたい判断だったと言える。

 

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