〇三
昼も真ん中辺りまで来ているというのに、太陽は厚い雲で覆われていて、薄暗かった。空は今にも一雨きそうな様相を見せている。
罪人を目の前にし、左門は精神を集中していた。
宇賀木左門は加東流を中目録まで進んだ腕前だ。修行途中で父親を亡くし、家督を次いで出仕することになったので、加東流を極めることは叶わなかったが、当時角之進との木刀での立会いでは、互角の腕前を見せていた。腕は確かだった。
精神統一が終わり、左門は愛刀を抜いて構え上段に構え、息を深く吸った。
「えいっ」
白刃が煌めき左門の刀が振り下ろされた。
「あぎぃがぁぁぐぅ」
振り下ろされた左門の刀は、罪人の首に三分の一ほど食い込んで止まってしまった。罪人はおよそ人間の声とは思えない声をあげて苦しんでいる。
慌てて左門は罪人の肩に右足を掛けて刀を抜くと、
「ざっざっ」
と二度刀を振り落としたが、罪人がもがき苦しむので狙いが定まらず、罪人の首は半分切れ掛かって、頭を垂れさせながらも生を繋ぎ止めていた。
「ぐぅぅあっりゅうがっ」
罪人は取れかかっている頭を振りながら苦しんでいる。左門は返り血を浴び、無残な罪人を見て蒼白な顔で立ちすくんだ。
「どけっ」
山田浅右衛門吉時が左門を突き飛ばし、罪人の切れ掛かった頭を一刀のもとに斬り落とした。
「無様だな」
吉時は左門に怒りを発したが、一瞬笑みを浮かべたのを角之進は確かに見た。その笑みを見て、ふぐりの縮こまる思いをした。
――吉時は左門がしくじるのを知っていたのか……も知れない。人間の首はそんなに容易く斬り落とせないと知っていたのだ。例え剣術を極めた者と云えど……やはり吉時がとても恐ろしい人物に思えて仕方ない。
騒ぎを聞きつけて刑場の待合所から見届け人の上役、佐田次郎座が首切り場に駆けつけて来た。
「何ごとでござる」
ことの顛末を浅右衛門が一々説明した。その間も左門は石像のようにただ立ち尽くしているだけだった。
「なんたる不手際。切腹だっ切腹いたせ」
佐田は憤激して云い放つ。
角之進は慌ててその場を何とか諌め、怒りを静めて貰った。左門は沙汰あるまで自宅謹慎となって、その場は収まった。
左門がおずおずと刑場を後にする後ろ姿を、見守ることしか出来なかった。この時、何か言葉を掛けるべきだと思ったが、言葉が見つからなかった。
この日の処刑は一件だけだったので、後片ずけを終えると仕事は終わった。
山田浅右衛門吉時は、刑場の横にある掘っ立て小屋のような遺体処理場に引っ込んでしまった。
――角之進はこれまで遺体の処理を見たことがなかった。この際、処理場で何が行われているか確かめてやろうと決意して、処理場の引き戸を少し開けて覗き込んでみた。
中では浅右衛門が死体の前でなにやら行っているが、こちら側からでは浅右衛門の後ろ姿しか見えずに、何をやっているかよく判らない。角之進はその場を離れて裏手にある格子窓に向うことにした。
裏手に回り背伸びをして中を覗くと、浅右衛門は死体の胸を開いて内臓を探っていた。やがて何かを探り当てたのか、ぶちっ、と云う音とともに、赤黒い内臓を引きちぎり取った。
角之進は胃から上がってくる胃酸を必死に堪えて凝視する。
次に浅右衛門は罪人の額に小刀の刃を入れてから鉄鋏を入れて、額から後頭部に向けて頭蓋を切り出した。
バリ、バキッ、バビュ
不気味なその音に、角之進は聞くに堪えかねて耳を塞いだが、視線は外せなかった。
額にぐるっと鋏を入れると、頭蓋が兜のように頭から取られて、薄桃色の脳が露わになった。初めて見る脳に不覚にも、綺麗だと感じてしまった。
浅右衛門は脳の下側に鋏を入れた。
バチン
脳を頭から切り離したのだ。
角之進は胃から込み上げるものをとうとう我慢出来なくなり、窓から離れて吐いた。
――なんだったんだ今の光景は……。
初めて見る人体の解体に、頭がぼぅとなり、思考が廻らなくなった。が、続きを覗かなくてはと云う使命感にも似た感情に突き動かされて、再度格子窓に擦り寄った。
中では浅右衛門が真新しい刀を抜いて上段に構えた所であった。
バシュ、バシュ、バシュ
白刃が三度閃き、罪人の足を斬り続け、太ももの輪切りが出来上がる。続き、浅右衛門は新たな刀に持ち替え、胴体を一刀のもとに切断して見せた。人の身体を切り裂く見事な腕前に、角之進は魅入られてしまい、思考が停止した。
気が付くと、辺りはすっかり薄暗くなり、浅右衛門の姿は消えていた。
かなりの時が経ったようだな――と思い、誰も居なくなった刑場をおずおずと後にする。
刑場から人家は三町ほど離れている。その間は寺町や手付かずの林が続いているだけだった。辺りは人気がなく、薄暗いせいもあり不気味そのものだ。
角之進は身震いして歩む速度を上げながらも、今日の出来事に思いを馳せた。
左門の不手際……。加東流の中目録の腕を持ってしても、人の首を刎ねることの難しさに驚き、自分なら遣り通せるだろうかと思案する。――が答えは出なかった。
「山田浅右衛門吉時の財力は用命胆にあり」と左門は云っていたが、人の肝と脳が材料なのだと判り、自分にはやれることではないとつくづく思う。が、斬首もそうだが、人体から部位を摂取することを容易くやり遂げる浅右衛門を、凄いと思うより恐ろしいと思えてならない。
角之進は思い出す。刀の試し斬りを笑いながら行っていた浅右衛門を。
ぶるぅぅと身震いしてから走り出した。
寺町を抜けると道は二手に分かれている。
角之進は立ち止まり、思案する。
左へ行けば、町人長屋を抜けて最短距離で武家屋敷が立ち並ぶ自宅に着ける。一方、右へ行けば色町などを抜ける遠回りになってしまうのだ。辺りはすっかり闇を纏っていた。――あの長屋は夜、通りたくはなかった。夜のあの長屋は人の気配がせず、薄気味悪いのだ。
ええい! 迷っても仕方がなかろう。
角之進は勢いよく駆け出した。最短の道を。
遠くで野良犬が、遠吠えを上げているのが辺りに響き渡っていた。
町人長屋の手前まで来て、角之進の体力は限界に達しようとしていた。次第に走る速度は落ちた。少し休もうかと立ち止まり息を整えていると、前方、長屋の入り口に人が立っているのが判った。男だ。とても痩せ扱けた男だった。
その男を見て、背中に、ぞぞぞっ、と、悪寒が走る。
痩せ扱けた男は角之進には気づかずに、長屋の入り口に入って行く。俺は全身なにかぞくぞくしながらも、痩せ扱けた男が気になり、後を追った。何故だか足が勝手に動くのだ。
長屋の門を潜り後を追うと、門から四軒目の突き当たりの長屋に痩せ扱けた男は姿を消した。
なぜあの男が気になるのだろうか?
痩せ扱けた男に気が付かれそうな距離にまで近づいて追っていたのに、痩せた男はつゆぞ角之進の方には視線を向けなかった。近づいて判ったのだが、痩せ扱けた男は骨と皮だけで作られたような顔をしていて、顔色も青白く、屍のようだった。
お近づきになるのはお断りしたいような男なのに、角之進はあの男が気になって仕方がない。
角之進は痩せ男の棲家に近づいて、中の様子を伺う。が、物音一つしなかった。戸を少し開けようとしたが、びくともしない。
「やれやれ。すっかり覗きぐせがついちまったな」と心で独りごち、俺は戸の横にある小窓に移動して少し開いてみた。
中は煌々として明るかった。
何の明かりだ?
目を凝らすと壁一面に置かれた棚の中に、蠟燭が数多揺らめいていた。綺麗に棚に並べられた蠟燭は、短いのやら長いの、又、太いのやら細いのやらで一本一本の様相が違った。所々の蠟燭は消えている。数多の蠟燭の火に照らされた室内は、昼間の如き明るさだった。
骨と皮だけの男が数多の蠟燭から一本手に取り、眺めだした。その蠟燭には墨で何か書かれているみたいだが、読み取れない。
やがて、手にした蠟燭に、骨皮男は息を吹きかけて火を吹き消したのだ。そして此方を見た。角之進は慌てて窓から後ずさる。確かに男と目が合った気がした。
今見た光景に、何か得体の知れない恐怖が沸いてくる。見てはいけないものを見た気分だ。もしや、と、思うところもあるのだが、頭を振って長屋を後にした。
江戸には化け物が多い。人々の噂話を思い出す。
――今見たものはその類のものだったのではないか――と、頭を霞めなくもないが、角之進は狐狸妖怪だの、幽霊、化け物の類を信じなかった。いや、信じたくはなかったと云うほうが正しいか……。
兎に角、今見た男の正体がなんであれ、確かめるつもりはなかった。
只、二度と関わり合いにはなりたくなかった。しかし、骨皮男は山田浅右衛門吉時と、同等の薄気味悪さが漂っている男であるから気になったのだ……と、思えた。
角之進は又駆け出した。
月明かりが道を照らしていた。