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〇二

 やわらかい月の光が辺りを包んでいた。振り返って見上げると、少し赤みを帯びた月が見える。満月に近い月はまだ寒かった一カ月前には荒涼とした光を投げかけていたものだが、今は、ぼんやりと暖かい光を地上に落としていた。どうやら季節が変わったようだなと思った。


 そのためか、光と影の境界線がぼんやり入り乱れ、道の所々にある家や木の影は、行く手に立ちはだかる化け物のようにも見える。道には他に歩いている者の姿は無く、夜気は深夜にも関わらず微かに潤んでいた。


 「すっかり遅くなったな」


 お妙は心配しているだろうかと思う。お妙と云うのは角之進の恋女房だ。結婚して五年になるのだが、今だに……いや、益々と云うべきか、恥ずかしいのだが、お妙を愛おしいと思っている。


 お妙は自分の身分には相応しくない旗本の娘だった。普通同心与力下などという武士の最下層の身分では、町人などの娘を貰うのが一般的なのだが、加東流の皆伝を収めた角之進の腕に惚れ込んだお妙の父親、上田新造にどうしても娘を貰ってくれと頼まれて、三女お妙を嫁に貰ったのだ。


 旗本の娘が二十石取りの吉岡家に嫁いだので、さぞ不自由していることは角之進にも重々承知のことだった。屋敷……一応屋敷の態は保たれている小さな家ではあるが……は、幕府から与えられているので、武家らしい生活は保たれている。花という女中も一人住み込んでいるが、角之進の禄高では汲々の生活だった。


 「!」


 ふと人気を感じて後ろを振り返る。


 だが誰も居なかった。


 周囲の家並みから洩れる微かな明かりが、ぽつり、ぽつりと点在するが、夜も子の三つ時を過ぎると町並みは静まりかえり、周囲は暗闇に包まれる。


 角之進は、微かな明かりの向こう側の闇に目を凝らしたが、深い闇が漂っているだけだった。


 「気のせいか」


 早歩きで歩き出す角之進。


 こんなことなら、料亭で出された提灯を借りてくれば良かったなと思ったが、お妙に要らぬ腹を勘ぐられたくないとの思いから断った。「それでは駕籠でも頼みますか」などと下男はほざいたが、角之進に駕籠など頼むゆとりはなかった。左門にも帰ろうと誘ったが、「山田様に話がある」と断られた。角之進は一人、心細く岐路についたのだ。


 屋敷までは後一町位だった。だが先ほどから、やはり人につけられている気がして堪らない。二度後ろを振り返ったが、振り返ると気配は消えた。段々と不安な気持ちになってきた。


 町人長屋の前まで来た時、突然、足がすくんだ。長屋は静まりかえり、静寂と闇がそこにある。何かを見た訳でも、物音を聞いた訳でもなかった。只、闇の向こうの長屋に何かが潜んでいて、じっとこちらを覗いているような気がした。


 ……夜の長屋とはこんなに不気味なものなのか。と、初めて知った。……いや待て、こんな所に長屋などあっただろうか……頭がよく廻らない……ふと誰かの話が頭を過ぎる。


 「江戸には化け物が多い」……などと、人々は噂しているのだ。――だが角之進は化け物はおろか、幽霊や火の玉だって見たことはない。


 「ばかげているなぁ」


 打ち消そうとすればするほど恐怖は増した。


 ふと、弥吉の姿が脳裏をかすめ、ぶるっと身震いした。


 気が付くと角之進は駆け出していた。もはや歩いて家に向う勇気は無い。町人長屋の門を横切った時にはすっかり、酔いは醒めてしまっていた。


 駆け出すと視線も追いかけて来るようだった。いや、背後に何者かの気配も確かに感じる。


 ……振り向きたい。


 だが、振り向いてはいけない。と心が叫ぶ。振り向いたら今度こそ、人ならざる者が居そうで怖かった。


 「はぁはぁ」


 息も切れ切れに、やっとの思いで屋敷の門をくぐり抜け、戸を開けて帰宅をなした。


 「帰ったぞ」


 息咳き切らして帰宅した亭主を、妻が驚いて迎えた。


 「どうしたのですか、息なんか切らして」


 「いや、なんでもない」


 草履を脱いで家に上がった。


 お妙は戸を出て、周りを見渡し、首をかしげながら室内に戻って戸を閉めた。


 「な、なんだ。どうした」


 訝しげに妻のお妙に問うた。


 「いえね、貴方が誰か共だって帰って来たように感じましてね……」


 「ば、馬鹿を申すな。わしは一人じゃ」


 云った角之進だが、自分の顔が蒼白するのが判った。そんな夫婦のやり取りを、女中の花は不思議そうに眺めている。


 「もう寝る」


 角之進は不機嫌に云うと、寝室に引っ込んだ。そんな亭主を可笑しく思っているのであろう。お妙は首を傾げながらも亭主の後を追って寝室に来て、布団の準備をした。角之進は一言も話さず布団に潜り込んだ。


 

   ※


 

 暗闇の中を必死に走っていた。前方に微かに光る明かりに向って、只ひたすらに。


 ちら、と後ろに目をやると、女が追いかけて来ていた。白い顔で手を前方に突き出し、角之進を捕まえようと追いかけて来る。女は白い肌着姿で、髪を振り乱し、必死の形相をしていた。


 ふと、女と視線がぶつかる。


 女の目は白い部分は欠落していて、黒一色に染め抜かれている。その目に睨まれて、全身恐怖に包まれたが、一層走る速度を上げた。


 ――捕まってはいけない。決して捕まってはならない、と心の声が訴えていた。


 角之進はひた走る。だが、一向に光には近づけなかった。


 どれ位走っただろう? 


 体力は限界を超えていた。後ろを確かめると、女は後一寸で、角之進の裾に手が届きそうだった。


 角之進は慌てる。


 逃げろ。逃げなくては……。


 必死に走る。


 が、心に身体は付いて行かず、足が縺れてつんのめりに倒れてしまう。


 「しまった」


 地面に突き刺さるように倒れた角之進は、身体を捻って仰向いた。


 女は黒目で角之進の双眸を見つめていた。驚いたことに女の傍らに弥吉が佇んでいる。――中空を眺めて。


 女は角之進に圧し掛かってきて、首を絞めた。


 「うっうぁぁぁぁ」


 

 

 ……なた……貴方。


 目を開けると妻のお妙が身体を揺すっていた。


 角之進は安堵する。……夢だったのか。


 「貴方、悪い夢でも見てたんですか? うなされていましたよ」


 「……ああ」


 妻の言葉に平静を取り戻したが、体中汗だくだった。


 「宇賀木様がお見えですよ」


 「なに、左門……何用だ」


 「存じませんわ」


 「判った。客間に通せ」


 角之進の屋敷(屋敷と呼べる代物ではないのだが)は、居間と客間に、寝室と花の部屋に台所、と、五つからの作りに成っている。急いで着替えを済ませて客間に向う。太陽はとっくに姿を現し、天高い所で光を大地に降り注いでいた。角之進は良く寝たなと思った。


 客間に入ると左門が神妙な面持ちで座っている。角之進は左門の対面に腰をおろした。


 「何用だ、非番の日に」


 角之進と左門は幼少の頃からの付き合いだった。お互い下級武士として育ち、悔しさも喜びも分かち合ってきた仲である。


 「いやな、ここだけの話なのだが、妻が浮気しているふしがあるんだ……」


 左門が声を低く落として云った。


 「なにっ、真由さんがか」


 驚きを隠せずに大声を発したが、左門に声を落とせと諭される。


 「現場を見たのか?」


 「いや、現場を見た訳ではない。だが、最近わしが非番の日も外出が多くなったし、箪笥の奥に高そうな反物が隠されていた」左門は肩を落とした。


 「それだけか? それだけでは浮気をしてるとは云えないだろうに。心配しすぎだ」


 角之進は半ば呆れ気味に云う。事実左門は心配しいと云うか、物事を悪く考える癖があった。


 「いや……決定的なのが、真由らしき者が男と連れ立って、待合茶屋から出て来るのを見たと云う者がいるのだ」


 「誰が見た」


 「月島だ」


 「月島馬輔か」


 うむと左門は頷いた。


 月島馬輔は同僚の首切同心だ。月島は火の無い所に火を付けるような男で、同僚からは煙たがられている。一度など村中と山井という同僚間で根も葉もない悪口を吹き込み、決闘騒ぎまで起こしている男だった。その時は皆で止めに入って事なきを得たが、村中と山井は今だに口も聞かん。互いの話を聞くと、どうも月島が絡んでいることだけは突き止めたが、それ以上どうすることも出来なかった。


 「月島の話などは信用ならんわ」


 角之進は怒りを露わに、不機嫌に云った。


 「ふぅ」と溜息をついて左門は、


 「月島が遊郭狂いなのは知っているだろう。やつは女好きで、一度見た女は忘れんと豪語している。その月島が遊郭帰りに、真由が待合茶屋から出て来るのを見たとわしに知らせてくれたのだ。……たぶん間違いなかろう」


 云って左門は目を伏せた。


 一拍おいてから角之進は、

 「相手は誰だ?」

 と問うた。


 左門は角之進に目を向けて云う。


 「呉服屋吉川の倅だ……そうだ」


 ――姦通罪は死罪だ。


 頭に過ぎる。


 角之進は腕組みし、深く息を吐いた。


 沈黙が客間を支配する。


 月島の云うことなど信じないが、左門に嘘を云ってどうなるのだろう。月島に何か得はあるだろうか? ……否、この話は真実かも知れない、と、思えなくもない。


 「……で、おぬしどうするつもりだ」


 沈黙を破り問うてみた。


 すると左門は、素っ頓狂な言葉を返してきた。


 「角之進は山田様のお屋敷が立派なのを知っているか?」


 「ん、ああ知っているが……」


 左門の的を射ない言葉に一応は答えたが、今、山田浅右衛門は関係なかろうにと思った。


 「山田様は一説によると、その財力は三万石とも四万石とも云われているのを知っているか?」


 初耳だった。山田様が金に困ってないのは知っていたが、親の財産を食いつぶしてでもいるのだろうと思い、あまり深く考えたことなど無い。


 「角之進は山田様が何故に金持ちだか判るか」左門は更に問うた。


 判る筈もない。山田浅右衛門が、三、四万石もの小大名にも匹敵する財力があることを、今知らされたのだから。確か、大名だとか家老だとかに刀の試し切りを依頼されて、罪人の死体を使っている、と云うことは知っていたが……。


 「用命胆なる薬を角之進は知っているか?」


 左門は云うが、左門の問いには一貫性が無いなと思う。真由さんのことで心を病んでいるのかもしれないと思った。


 「用命胆とは命が延びるとか云う薬だろう。ずいぶん高い薬だそうだな」


 云ってはみたが、用命胆などと云う薬は角之進には関係ない物だし、一生縁がない薬だなと思う。まして興味は皆無と云ってよい。


 「用命胆の材料が何か知っているか」


 「……」


 「あれは、人の肝だとか脳髄などで出来ていると云うことだ。で、江戸でそんな材料が手に入る人物は誰だと思う?」


 「……山田様か」


 角之進は山田浅右衛門の財力の訳を理解した気がした。


 「そうだ。山田様が一手に用命胆の材料を独占しているのだよ」


 左門は云うが、角之進にはどうも合点がいかない。


 「そんなことを御上がゆるすのか?」


 意気込んで問うたが、左門は冷静に、

 「罪人から採取しているんだよ。罪人の死体がどうなろうが、御上が気にする筈もない」


 左門の言は一々正しい気がした。


 「で、わしは考えた。真由がなぜ他の男に気を移したか」


 左門の言葉に首をかしげる角之進。


 「判らんか。金だよ。我が宇賀木家は貧乏で、出世の見込みなど露もない。そんなわしに真由は嫌気を差し、他の男に走ったのだと思う。……そこでおれは金を稼ぐことにした」


 「どうやって」

 左門の真剣さに咄嗟に問うと、

 「山田様が独占している用命胆の材料を、わしも手に入れることにした」


 左門の決意に驚いたが、自分一人の気持ちで世の中旨く行く訳はないのだ。角之進は心配な表情を左門に向けた。


 「山田様には話したのか」


 「ああ、昨日話して許可も得た。自分で斬首した死体は、さばいて良いとな。取引先も紹介してくれるそうだ」


 そうか、と思った。だから昨晩、帰る時に左門は残ったのかと理解した。だがある言葉が引っ掛かった。


 「自分で斬首した死体っておぬし、罪人の首を刎ねるのか」


 「そうだ! わしはやる」


 左門の目はぎらぎらと燃える炎のように輝いている。


 「死体を処理して用命胆の元を卸して金を得る。そして真由の気持ちも取り戻すよ」


 左門の決心は固そうだった。


 「そうしたら、真由さんのことには目をつぶるのだな」


 「……ああ」


 左門は云った。だが、それで旨く行くのだろうかとも思う。金があれば一度離れた女の気持ちも取り戻せるのだろうか、と疑問にも思うが、三十路手前にもなろうとしている角之進にも、女の気持ちなどは甚だ理解などは出来ていなかった。

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