序章 その1
「人間の脳って数%しか使われてないんだってなぁ。ウチで言うとマンションのほとんどが空き家みたいなもんなんだよな。・・・あ、ちなみに、この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。」
とあるマンションの一室、窓際の席で専務がなにやら訳のわからないことを呟いている。
「どうしたんですかいきなり。暑さでやられました?」
ふと、部屋の片隅にかけてある温度計を見ると、27度を指していた。この時期にしてはまぁ、暑い日でもある。
「いや、まぁ、今ちょっと何かの電波を受信したようだ。いやいやいや、そんなことはどうでもいいんだ。ともかく、話は変わるがカエデくん、ちょっと付き合ってくれないか?」
「え?まだ仕事中ですよ?誰か来たらどうするんですか?」
私は席からいきなり立ちあがる専務を止めた。すると彼は笑いながら言った。
「いいんだよ、別に、今日は月中だから誰も来やしないって。ドアんところに『外出中』とか下げとけばいいだろ。電話だって俺の携帯に転送かけてるから大丈夫だよ。」
そう言うと、専務はもう、玄関の所でツッカケを履いていた。私もそれに続く、外に出ると強い日差しが私を照らした。
その間にも彼は、マンションの物置に入っていくのが見えた。少しだけガタイの良い体が開け放たれた扉から見えている。中で何か探しているようだった。
「ちょっと専務、何やってるんですか?」
彼の不思議な行動に声をかける、すると首だけこっちを向いて言った。
「見りゃわかるだろ?探しものだ。・・・っと、確かこの辺に・・・あった!」
喜びの声を上げた専務が両手に持って来て見せてくれたのは、木のバットをゴムボール、少年野球で使われているようなやつだ。
弟が小学校の頃、少年野球をやっていたので見覚えがあったのだ。
「・・・と、話が見えないんですけど。」
「まぁそうだな、俺はまだ何も説明していないから当然だ。とりあえず公園に行こう。」
彼はそう言うと私に手を振る、私は訳がわからないまま、彼についていった。
‐有限会社 ワタセ‐
今、私、浜坂カエデがアルバイトをしている会社。
業務は不動産、とはいっても王手と違い、家族経営なので、あくせく働く必要はない。何でも税金対策のために、ちょっと経費を使っておこう、そういった理由で私を雇ったらしいんだけど。
そして私のやっていることといえば、たまに電話を受けたり、帳簿をつけたりするくらい。
まぁ、月末になると来客が増えて忙しくなるのだけど、たかが知れていた。
そして、私が専務と呼んだ男性、名前は渡瀬健吾、元々は彼の親が何件がマンションを建てたのだが、早々に親が隠居して、経営はほとんど彼に任せてある。
34にして、星の数ほどある会社のしがらみから離れ、悠々自適の生活を手に入れた羨ましい男である。
暇はある、金もある、となれば、普通は女や酒に走りそうなものだけど、彼は違った。
どうも筋金入りの免許マニアで、次々とどこかのスクールに通っては、免許を取っている・・・らしい。
話に聞くところによると、運転免許はカンスト、セスナや船舶、調理師や何かのコーディネーターの資格まであるらしい。
また最近、何かの勉強をしていたようだけど、私にはわからない。
と、彼の背中を見ながら色々と考えていた時突然、話しかけられた。
「カエデくん、着いたぞ。」
驚いて我に帰ると目の前に大きな看板が見えた。
『あけぼの北公園』
近所の人がウオーキングや子供を連れて遊びに来る、比較的大きな公園だ。
草野球やサッカーのグラウンドや、パークゴルフ場まである。
私達は休日にファミリーがボール遊びをする広場に来ていた。さすがに平日の昼下がりだと、人はまばらだった。
そこまで来ると、専務は木のバットを私に渡して言った。
「それじゃ早速、カエデくん、バット持ってそこ、立ってくれないか?」
「え!?無理ですって!私運動的なものはもう、壊滅的で・・・。」
慌てて後ずさりする私に専務は続けて言った。
「わかってるって、君がドンくさいのは筋金入りだってことくらい知ってるから。」
いきなりのド直球の失礼な発言にプチっときたその時、既に私から数メートル離れた彼がまた言った。
「それじゃあ今からボール投げるからちゃんと狙って打つんだぞー。」
その言葉と同時に白いボールが放物線を描くように、私めがけてゆっくりと飛んできた。
慌ててバットを振るも、当然当たらない。
何か悔しくなってきたので、地面に落ちたボールを拾い、専務に思い切り投げ返した。
「おー、いい根性だ、今度はちゃんと打つんだぞー。」
彼がゆっくりと構える、そして再び、私の所へ飛んでくるボール、渾身の力を込めてバットを振るも、それは虚しく宙を切った。
それからしばらく、私の一人コントみたいな余興は続き・・・
「はぁ・・・はぁ・・・もう、ダメです。ってゆうかバット重すぎ。」
疲れきって地面にへたり込む私を覗きこんで専務は言った。
「まー、こんなところだろうなぁ、思った通りだ。」
「はぁ・・・はぁ・・・ってゆうか専務はわざわざこんなところまで私を笑いに来たんですか?ホント、暇な会社の重役って何考えてるんだかわからないわ。」
ちょっと嫌味を含む感じで言葉を返すと、彼は困った顔をしながら言った。
「いいじゃないか、暇でも、それで食ってけりゃ問題ないさ。それでだ・・・一つ実験をしよう。」
そう言うと、鞄からロープを取り出し、今まで使っていたボールに十字に巻きつけ、もう片方を枝に縛る。ちょうど、ボールが木にぶら下がった感じになった。
すると彼は私を見て笑いながら言う。
「カエデくん、このボール、バットで打てるかい?」
「・・・バカにしているんですか?このくらいなら私でも打てますよ!」
「そうか、じゃ、ちょっとやってみてくれ。」
まだ悪戯に笑ったままの彼を尻目に、バットを持って立ちあがる。そして、狙いをつけて振りまわしたその時。
【パンッ!】
乾いた音を立てて、ボールが宙を舞った。すると
「おー!さすが、さすがのカエデくんも人並みの運動神経はあったか。いやいや、感心、感心。」
専務は大袈裟に喜んでいる。ってか一体この人は何をやりたかったんだろう。そう思っていると彼は続けた。
「カエデくん、さっき俺の投げたボール、打てなかっただろ?でも、それがもし、止まって見えたらどうだ?」
「え?それなら私だって打てますよ。ってゆうか何か関係があるんですか?」
「大アリだね、さっき事務所で俺が言っただろ?『人間の脳は数%しか使われていない』って、筋肉だってそうさ、実際は半分くらいしか使えてないんだ。ってことはだ、人間の感覚を最大限引き出したらどうなるんだろうなって、思わないか?」
「・・・思いません。」
「何だよ、夢が無いな。まぁいい、これからカエデくんにちょっとした術みたいなものをかける、実験みたいなものだ。何、痛くも痒くもないからリラックスして。」
そう言うと専務はいきなり私の手を握って来た、突然のことに慌てた私の口から『キャッ!』と声が出た。すると
「おいおい、手を握られただけで狼狽えるなんてな、今日び高校生だってそんな声上げないぞ、だから彼氏出来ないんじゃないのか?ガードが固すぎると折角のチャンスを逃がすぞ。」
「・・・放っておいて下さい。」
「まぁいい、それじゃあ仕切りなおすぞ、目をつぶって・・・気分を楽にして・・・」
あれ?何かこのフレーズ、どこかで聞いたことがあるような。うーん、どこだっけなぁ・・・?
と、そのうち、彼の囁くような声を聞いているうちに、ちょっと気が遠くなってきた。
気がつくと、どこか真っ白な空間に私は立っている、懐かしいような、そしてどこか心地いいような、すると再び、彼の声が聞こえる。
「あなたは目が覚めると、フロー状態(※)になります。飛んでくるボールが止まって見えちゃったりするかもね。そして筋力も飛躍的に上がります、当社比ですが。ちなみに金利手数料はジャパネッ・・・ゲフンゲフンが全額負担します。」
ん?何だこれ。今私、何かの暗示をかけられているのだろうか?するとその時、声のトーンが一段階ほど上がった専務の声がした。
「ハイ!それじゃあ起きて!」
その声に目を開ける、するとさっきよりも明るく感じた公園が目に映った。
「じゃ、もう一回、俺が投げるボールを打ってみよう。じゃカエデくん、バット持ってね。」
と、彼の声に従うようにバットを持つ、何だろう・・・このバット、凄く軽い。あたかも何も持っていないように感じるのはなぜだろう。
ゆっくりと立ち上がりバットを構える。すると専務もボールを持ってゆっくりと私から離れて行った。
そしてさっきと同じような距離を取ったその時、彼はボールに何やら書いている素振りを見せ、少しすると
「そんじゃ、さっきより速いボールを投げよう。ちゃんと見て打つんだぞー。」
声と同時に専務は振りかぶり私に向かって投げた。
どうせ打てっこない、そう思ったその時、私に向かって投げられたボールがゆっくり、ゆっくりと近づいてきたのだ。
あれ?どうしてこんなにゆっくりなんだろ?さっき専務は『速いボールを投げる』って言ったはずなのにな。
少し驚いていると、スローモーションで飛んできたボールがとうとう目の前で止まる。ゴムボールに書かれた縫い目まではっきり見えた。
ゆっくりと回転しながら迫ってくるボールの表面に何か文字らしきものが見えた。それを目で追う。そこには
『カエデは貧乳、しかも幼児体型。』
と、黒マジックで書かれていた。
・・・。
・・・。
【プツン。】
「もーっ!あったまきたぁ!どぉうりゃっ!」
怒りに任せ振りぬいたバットがボールを捉えた。するとそれは、【パンっ!】と弾けたような音を立て、場外へと消えていった。
「おーっ!実験は成功だ!いやー、ホント上手くいったなぁ!」
私が場外ホームランを打ったのがよほど嬉しかったのか、専務は仁王立ちで笑っていた。そして彼は続ける。
「そういえばボールに文字を書いておいたんだけど、アレ、読めた?」
茶化すように言う彼に、私の怒りはピークに達した。
「・・・専務、アレ、どういう意味ですか?」
「いや、どういう意味も何も、事実じゃないか。上がった筋力に怒りの感情がプラスされるとどこまで力が出るかなーなんて、ハハハ・・・。」
と、言葉の最後の方、彼の笑いが渇いていた。
そう、私がことのほか怒っていることに気付いたようだ。そしてそのまま上がった筋力で彼に向って走る。
上がったのは腕力だけじゃなく、脚力もだったようで、いつも以上に軽くなった体は、運動不足の彼の体を捉えることに苦労は無かった。そして、彼の腕を掴むと、私は低い声でゆっくりと言った。
「専務、乙女に体の話はタブーですよぉ・・・クスクスクス。」
すると、彼は私から出るドス黒いオーラに恐れをなしたのか、怯えるように言った。
「はっ・・・浜坂・・・く・・・ん?わ、あの、ちょっと、話しあおうか、ねっ!」
「問答無用っ!」
掴んだ腕をそのままに、以前、オリンピックで一度だけ見たことのある一本背負いを力任せに彼にぶちかました。
【ずどーん!】
声もなく芝生に伸びる彼。その時気付いた、もう夕方になっていたことを。
さぁ、さっさと事務所に戻ってタイムカード押して帰ろう。
(※)フロー状態
ややざっくり言うと、精神が研ぎ澄まされている状態のことらしいです。
例えば、世界のホームラン王・王貞治氏(ソフトバンク名誉監督)は、現役時代、絶好調のときは、ボールが止まって見えたり、150Kmで飛んでくるボールの縫い目が見えた的な事を指します。すごいですね。
くどいようですが、この物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係ありません。
そして、作中に専務がかけた暗示のようなものは、催眠術とは大きく違います。違いますよ。大事な事なので二回言いました。
まぁ、事の発端は『人間の脳を100%近く使えたら凄いことになるんじゃないか?』みたいなことを思いついてみたので、ちょっとだけ、ノリで物語風にしてみました。
なので、物語の中のお話ですので、間違っても・・・
良 い 子 の み ん な は マ ネ し ち ゃ イ ヤ ン 。
そんなこんなで工場長でした。
かしこ。