はやくにんげんになりたい
ことり、とカップが置かれた音。
ちらりと目線を上げると、いつもの店員さんが微笑んでいた。
やっぱり可愛い女の子は笑顔が良いな、癒される。そう思いつつ表情には億尾も出さず軽く会釈する。
ふと、ここんとこずっとずたずたに千切れたのを無理やり継ぎ接ぎして作り直したまがいものの笑顔ばっか浮かべやがる知人の女の顔が浮かんだが、薄っぺらい胸の奥のほうがじくじくと痛み始めたので排除。
何を、痛がっているのやら。……良心? いやまさか。これはたぶん胸やけと同次元のなにかですよ、はは。
「犬、飼ってらっしゃるんですか?」
爪が綺麗に整えられ、触れたらしっとりと柔らかそうな指が控えめに、俺が持つ雑誌を示している。話しかけるタイミングを窺っていたのだろうか、「いらっしゃいませ」「ご注文は?」「ごゆっくりどうぞ」「ありがとうございました」くらいしか聞いたことのない店員さんの声は、少し緊張気味だった。
「ええ、まぁ。知り合いの犬を預かってるんですけど。こいつが何考えてるのかまったくわからなくて」
参考になればと思って――雑誌の表紙を見せながら苦笑した。
人間が書いていることを思うと、いっそ冗談か皮肉とも取れるタイトルの雑誌に縋っている自分のことを思えば、自然と笑みも苦くなる。
ちがういきもののきもちを汲み取るには、同じにんげんのきもちを完璧に汲み取れてからにしてもらえませんかね。
しかもこれ本屋じゃ買えないしな。わざわざネットで注文したんだよ。はは、なにやってんだか。
「私も犬、飼ってるんです」
店員さんはまた、ふわりと笑う。たしかに貴方の雰囲気は犬系ですね、ゴールデンレトリバーって感じです。
「目をじっと見て語りかければ言葉は通じなくても気持ちは通じる、なんて言いますね」
「なるほど、目をねぇ」目も合わせてもくれない場合はどうしたらいいんですかね。
「あと、スキンシップもけっこう大事で」
「ああ。撫でてやったり、抱きかかえたり」吐かれましたが。
「しっぽの動きひとつひとつにも、ちゃんと意味があるそうですよ」
「そういやそんな特集が。気持ちを代弁してくれるとかで」便利ですねー。でもしっぽは残念ながら無いんですよー。
だって、にんげんだもの。
自分以外の人間を認識できなくて、
触れられるイコール攻撃されるとしか思ってなくて、
暴力以外で他人の気持ちを受け取る術を知らなくて、
自分の気持ちを伝える術を知らなくて、
「伝えよう」と思うことすら忘れてしまって、
それでもちゃんと、人間だから。
「難しいですねぇ」
本当に、と俺たちは笑い合った。
+-+-+-
雑誌一冊読み終えるのに、コーヒー一杯もいらなかった。まぁ実際斜め読みだったし。俺、雑誌は読みたいとこだけ掻い摘んで読むタイプなんで。
短い休憩を終えて施設内に戻り、中庭へ向かう。長かった冬がようやく鳴りを潜めて、春がおずおずと顔を出し始めた陽気といったところか。日差しが優しすぎてあったかすぎて涙が出た。ええ、あくびですがなにか。
探し人はどこかと首を廻らせると、すぐに見つかった。稚那は大きな木(この木なんの木、気にならん木)の下に設えられたベンチに腰掛け読書中。愛読書はおそらく、さっきまで俺が読んでいた雑誌の先月号。こいつはどんな雑誌も最初からじっくり目を通していくタイプだから、紙面をなぞる視線も真剣そのものだ。
敦士は最近の定位置である稚那の膝枕で日向ぼっこアンドお昼寝中。色素の薄い、天然の金髪に指先を埋めればさぞ暖かいだろう。羨ましいな畜生!とハンカチを噛みたくなる衝動は、眉間に深々と刻まれた皺を見れば解消される。せめて寝ている時くらい穏やかな顔をしたらどうだ。あとで眉間ぐりぐりの刑に処す。
歩み寄り、稚那の右隣に腰かける。良い感じで年季の入った木製のベンチには太陽の名残が蓄積していて、接した尻がじわりと温もった。
稚那は現れた俺に対して特にリアクションは取らなかったが、ふとページを捲る指を止め、眼前に晒した。なんとなく見やった指先は少し荒れ、爪が伸びている。
「切らなきゃね」
伸びた爪は人を傷つける。前後不覚に陥って、暴れ狂う成長期の男を押さえつける時なんか、特に。
手荒れは吐瀉物の後始末の副産物だろうな。冬場は水が冷たくて嫌だな本当。これから少しはマシになればいいけど。
力仕事は男の役目、水回りは女の役目、だなんて最初のうちは決めていたけど、頻度が高くなるにつれてそうも言ってられなくなった。稚那は必然的に腕力を上げたし、俺の手も荒れ放題だ。
ちなみに、だらりと投げ出された敦士の手は傷だらけだ。窓ガラスをサンドバッグと勘違いした挙句、割れた破片でジグソーパズルに興じてしまったのは先週の話だったか。さらにびっくりすると自分にも他人にも爪を立てる癖があるので深爪は必須事項であり、毎日のチェックを欠かさない。
「今日は?」
「さっき、また少し吐いた」
短く問えば短い返答。つうと言えばかあの仲、って言えば聞こえは良さそうだけど、タネを明かせばここ数日こんな会話しかしていないってだけで。
パターンが少なければ対策は容易。でも少なすぎるのも駄目なのは、わかるよな?
なぁ、と内心ひとりごちて敦士の眉間をぐりぐり。反応は稚那にじろりと睨まれただけで、ぐりぐりの刑に処された本人は無反応。
お前の声、もう何年聞いてなかったっけ。
稚那がこの雑誌を真顔で熟読しているのを見かけた時。
目の前が真っ赤になるってああいうことを言うんだろう――気付いたら稚那の頬を張り飛ばしていた。
犬を飼うつもりだった、の可能性に一秒たりとも頭が及ばなかった俺にも問題はあるのかもしれないが。俺と稚那の思考回路は同じだったらしい、残念なことに。
「おまえは、」
ずたずたに千切れたのを無理やり継ぎ接ぎして作り直したまがいものの笑顔を浮かべて、安眠とは程遠い顔で眠る頭を優しく撫でながら。
「敦士を、」
その先は言葉にならなかった。声にできなかった。
稚那も何も言わず。ただ俺をきっと睨んで。
殴る相手も睨む相手も違うってことはお互い口には出さず。
しばらくただ立ち尽くしていた。
食べて、飲んで、呼吸して、笑って、泣いて、怒って。
自分の気持ちを言葉にして、声に乗せて、吐き出して。
それだけなのに。
なんでこんなに難しいんだ。生きるのって。
+-+-+-
視界の端で、金色がもぞりと蠢いて。過去に引き摺られていた思考が現実に戻ってくる。
ゆるりと瞼が開いて、数回の瞬き。敦士の起動が開始されたらしい。
その視界には自分を覗き込む稚那がばっちり納まっている、はずなのだが。薄灰色の眼はそれをあっさり透過する。
「部屋、戻る?」
稚那が声をかけるが反応は無い。正常であるはずの聴覚は、どういうわけだか人間の声だけを綺麗に分別して拒否しているらしい。好き嫌い、いくない。
のろのろと身体を起こして、しばらくお待ちください、の姿勢。稚那は寝返りで縺れた敦士の髪が気になるようだが、手を伸ばすのを躊躇っている様子。こいつ、髪触られるの嫌がるからなぁ。暴れない騒がない画期的な散髪方法が思いつかず、切るタイミングを逃し続けた髪は括れる程度に伸びている。まだしばらくこのままだろう。
時折「まだ眠いです」と主張する目元をぞんざいに擦ったり、閉じる時間が随分長い瞬きを繰り返したり、そんな様子を眺めること数分。ベンチから「転がり落ちる」と「立ち上がる」がごちゃ混ぜになった動作を皮切りにようやく敦士の起動は完了した。
素足で天然芝を踏みしめながら蛇行する敦士に、少し離れてついて行く。……素足?
「おい、なんで素足だ」
「ロビーに行くだけかと思ったら、外にも出たかったみたいで」
「室内でもせめてスリッパくらい履かせてやれよ」
「敦士は野性児なのよ」
「はは、箱庭育ちの野性児ですか。そりゃおもしれぇ……あ、こけた。野性児こけた。なにもないところでこけたぞ野性児。おー自力で立ち上がった。さすが野性児」
「…………」
敦士の足取りは覚束無いが、中庭を突っ切って屋内に、自分の部屋に戻ろうとする意志は感じられる。ひょっとしたら俺の「そうであってほしい」という願いから生まれた甚だしい勘違いなのかもしれないが。
敦士は、与えられたあの個室を「自分の部屋」だときちんと認識しているのだろうか。
認識、ねぇ。
「俺は、敦士に何だと思われてんだろうな」
そう漏らした俺を稚那は一瞥して、「手すりとか、杖とか」素っ気無く答えた。
「ふぅん。その心は?」「支えるもの」……ぐは。なんかまた胸やけ的なアレが。
「私はたぶん、枕かクッションね。敷物よ」
稚那の顔には自嘲めいた笑み。そんな、無理してまで笑わなくても、いいんだけど。
「使い慣れた枕じゃないと眠れなかったりしないか? クッションだって寂しい時にぎゅうっと抱き締めたり……大事なものだろ」
ん、そのちょっと驚いた顔はレアだな。「…………っふ」おぉ、笑った。これまたレアな。けど、
「今の会話に笑う要素あったか?」
「っさみしいと、クッション、抱き締めたり、するんだ、っ、ぎゅう、って?」
あー。あー。あー。あー。
はいはい、きんぐ・くりむぞーん。
+-+-+-
これは、この世から消し去った十数秒間にあったかもしれない会話。
「敦士は、俺たちを物か何かだと思ってるかもしれない。つーか、思ってる。たぶん」
「うん」
「けど、それは俺たちが敦士を物みたいに扱っていい理由にはならないと思うんだ」
「うん」
「そういう負の連鎖っていうか、あいつがしてたから俺も、とか。嫌だろ」
「うん。嫌、だね」
「だから、慣れちゃ駄目だ。物だと思われることに慣れるな。ちゃんと傷付け。あいつも、俺たちも、ちゃんとにんげんだ」
「……うん」
俺たちは今日も、昨日も、去年も、一昨年も。
食べて、飲んで、呼吸して、笑って、泣いて、怒って。
自分の気持ちを言葉にして、声に乗せて、吐き出して。
少しだけ、傷付いて。
生きています。