優しい小説を書きたい
私はキャラクターが生きている小説が好きだ。
多少話の筋書きが破綻していようが、登場人物が魅力的であれば、それだけで結構楽しく読めてしまう。可愛い女の子が可愛く振る舞い、格好良い男が格好良く生きている。それだけでも十分に読む価値があると思っている。
逆に、物語の都合によってキャラクターが歪められ、読者の願望を満たすためだけに動かされているような作品には、どうにも厳しくなってしまう。
例えば、小説家になろうで長らく人気を博している女性向け異世界恋愛。
婚約破棄された令嬢が、実はとんでもなく優秀な人物で、元婚約者よりも遥かに身分の高い男性から見初められる。一方、彼女を捨てた男や、その男を奪った女は破滅する。
よくある話だ。
ただ、こうした作品を読んでいて私が気になるのは、主人公以外の登場人物が、あまりにも人間として扱われていないことである。
主人公を引き立てるために周囲の人間は愚かになり、主人公を幸福にするために誰かが不幸になる。設定された性格や、それまでの言動との整合性などお構いなしに、物語が求める方向へと動かされていく。
そこにあるのは人間賛美ではなく、主人公賛美だ。
もちろん、これは女性向け異世界恋愛に限った話ではない。男性向けの異世界ファンタジーでも、主人公だけが無条件に称賛され、敵対する人物は知性も尊厳も奪われた挙げ句、惨めな末路を迎える。
作者と読者が気持ちよくなるために、登場人物が揃って知能を下げられる。
まあ、クソだわな。
もっとも、そうした作品の存在自体が悪いとは思っていない。私だって、そういうアニメをニコニコ動画で楽しませてもらっている。
なぜニコニコ動画なのかというと、コメントがないと視聴するのがなかなかしんどいからである。
画面の中で繰り広げられる理不尽な展開に、視聴者たちが好き勝手なツッコミを入れる。それを眺めながら笑っている分には、これが案外楽しいのだ。
しかし、あるとき気がついた。
どうやら、こうした作品を楽しんでいるのは、私のように斜に構えた人間ばかりではないらしい。
コメント欄を見れば、私が思わず目を覆いたくなるような展開にも、称賛や祝福の言葉が溢れている。
バカな。
いや、冗談ではなく、本当に驚いたのである。
私はてっきり、作者も作品の構造を理解した上で、読者が喜ぶ展開を意図的に作っているものだと思っていた。
そこで、ある作者に尋ねてみたことがある。
「これは意図的にこういう構成にしているのでしょうか?」
ところが、返ってきた答えを読む限り、どうもそうではないらしい。
作者自身も、私が疑問に感じていた展開を心から楽しんでいるようだった。
なるほど、天然だったか。
そこで私は、ChatGPTに相談してみることにした。
まず、いくつかの人気作品を自分なりに分析し、その共通点をプロットとしてまとめる。それをChatGPTに読み込ませた上で、こんな質問を投げかけてみた。
「こういう物語を好んで読む人間の人物像を想像してみてほしい」
作品そのものではなく、それを楽しんでいる読者に目を向けてみようと思ったのである。
そうしてChatGPTから返ってきた回答が、以下の通りである。
⸻
私が想像するのは、現実では自立を求められ、その負担に少なからず疲れている女性です。
年齢は30〜50代。仕事や家庭で責任を負い、日々の生活の中で自分の努力や献身が十分に報われていないと感じている。
女性の自立や男女平等には肯定的で、自分の意思で人生を切り開く女性に憧れている。しかし一方で、誰かに守られたい、無条件で愛されたいという願望も抱えている。
だからこそ、自立した女性主人公が最後には権力や財力を持つ男性から見初められ、溺愛される物語に魅力を感じるのではないでしょうか。
また、自分を不当に扱った人間が報いを受ける展開には、現実では得られない公正さや承認を求めている可能性があります。
つまり、こうした作品は単なる恋愛小説ではなく、「もう頑張らなくてもいい人生」への憧れを描いた物語とも解釈できます。
ただし、これは読者の実態を調査した結果ではなく、作品の傾向から想像した一つの人物像です。
⸻
なるほど。
もっとも、読み込ませたプロンプトには多少の偏りがあったかもしれないし、そもそもAIが想像した人物像に過ぎない。これが正解なのかどうかは分からない。
ただ、近からずとも遠からず、といった印象ではあった。
そして、ここで一つ気づいたことがある。
キャラクターに優しい小説と、読者に優しい小説は、全くの別物なのではないか。
ここでいうキャラクターに優しい小説とは、登場人物が作者の都合で歪められることなく、一人の人間として尊重されている作品のことだ。逆に、先ほど挙げたような願望充足型の作品では、キャラクターが作者の操り人形となり、その人格や尊厳が犠牲にされることも珍しくない。
しかし、読者の立場から見ればどうだろう。
現実の生活で自分が引き受けている、あるいは引き受けていると感じている理不尽や苦痛を、主人公が代わりに背負ってくれる。そして最後には、その苦痛を『ざまぁ』という形で作中のサンドバッグ達に押しつけ、主人公は幸福を手に入れる。
現実では到底できない仕返しを、物語の中で代行してもらえるわけだ。
そりゃあ、「ん"気持ちい"ぃ"~~~!」となるのも当然だろう。
つまり、私がキャラクターに対して残酷だと感じていた作品が、読者にとっては非常に優しい作品だったのかもしれない。
ちなみに、今回の検証ではもう一つ、興味深い傾向が見えてきた。
男性向けなろうでは、主人公がチート能力などを駆使して自ら権力者の座に上り詰めるのに対し、女性向けなろうでは、権力者に見初められ、溺愛されることで幸福を手に入れる作品が多いという点である。
まあ、これは以前から分かっていたことではあるが。
このあたりは本日のメインテーマではないので割愛するものの、男女の願望の違いが物語の構造に表れているというのは、なかなか興味深い話だと思う。
また、女性向け作品では自立した主人公像が好まれる一方で、最終的には男性の権力や財力に庇護されることが幸福として描かれる場合も多い。
精神的な自立を称賛しながら、幸福の到達点には経済的・社会的な依存が待っている。ある意味では時代に逆行しているようにも見える、この奇妙な矛盾についても思うところはあるのだが、それはまた別の機会に語りたいと思う。
このあたりも、現代社会特有のパラドックスというか、個人に求められる役割と、その人自身が望む生き方との間に、構造的な捩れが生じているのかもしれない。
自立した人間であることを求められながら、誰かに守られたいと願うこともある。強くあることを期待されながら、時には何もかも放り出して甘えたくなることだってあるだろう。
そりゃ疲れるわ。
お疲れ様です。
でも、人生ってそういうものだからね。
自立したいと思いながら誰かに甘えたくなることもあれば、自由でいたいと願いながら、誰かに自分の人生を委ねたくなることもある。
そして、その矛盾を都合よく解消できないのが現実というものだ。誰かに守られたいと願ったところで、明日から仕事に行かなくてよくなるわけでもないし、嫌な人間が突然不幸になってくれるわけでもない。
結局、私たちはそういう苦しさを抱えたまま生きていくしかないのだろう。
そんな中で、疲れた人がほんのひととき羽を休められる、止まり木のような役割を、願望充足型のなろう小説は担っているのかもしれない。
現実の理不尽を忘れ、誰かが自分の代わりに報われる姿を眺める。それだけで、明日もまた頑張ろうと思える人がいるのなら、そういう物語にも確かな価値があるのだろう。
そんな優しい小説を書きたいような、書きたくないような。
そんなことを思いながら、今、駅前のカフェでこのエッセイを書いている。
営業をサボりながら飲むコーヒーは、今日も美味い。




