子爵夫人クラウディア様は、呪われた指輪を外せない
◇◆◇◆◇
王都の貴族社会というものは、見た目ほど上品にはできておりません。
流行のドレスと香水の香りに包まれ、絹の裾は美しく翻き、銀の食器は曇りなく磨かれ、お茶会に集う貴婦人たちは、優雅に季節の花などを愛でる。
しかしその実、社交界では刺繍の美しい扇の陰では噂が飛び交い、誰がどこの店で仕立てたドレスを着ただの、かのご令息が、かの令嬢へ目配せしただの、他家の内情が勝手気ままに切り刻まれて、実に忙しなく品定めが行われております。
まるでお酒の肴か、お菓子でも摘むかのように。
気品とはまことに好都合なもので、中身が真っ赤な薔薇のように棘まみれでも、外側だけは真っ白い胡蝶蘭の様に、立派に見せてくれるのでございます。
そして王都での身分証にもなる、魔導端末などという便利な代物まで普及してしまった昨今は、そう言った噂話が馬車よりも速く駆け巡る始末でした。
ですから身分ある方ほど、外聞には気を配らねばなりません。
ちょっとした出来心や不祥事が、真冬の暖炉よりも、勢いよく燃え広がる世界でございます。明日は我が身と思うと、まことに恐ろしい話です。
もっとも、この日の私どもは、外聞どころではございませんでした。
毛布にくるまり、忌々しげに左手を睨んでおられる子爵夫人。
その隣で、なぜか優雅に紅茶を飲んでいる老魔導士。
床にこぼれた生クリームを、満足げに舐めている大型犬。
そして帰宅早々、その光景に出くわして困惑する屋敷の主人様。
本当に、何故このようなことになったのでしょう。
そう思いながら、私はこの日の出来事を思い返したのでございます。
◆
その朝のクラウディア様は、たいそうご機嫌でいらっしゃいました。
クラウディア・フォン・ハーベスト子爵夫人。
陽を含んだ蜂蜜のような綺麗な金髪に、澄んだ青い瞳をお持ちの深窓の令嬢。
じっとしてれば春の妖精のようで、微笑めば花が芽吹いたように愛らしい。
誰が見ても、それはそれはもうお可愛らしい若奥様でございます。
しかしひとたび思い込まれれば、その可憐さのまま、全力で絶壁の崖へ向かって駆け出してしまわれる、そういう種類の危うさも持ち合わせているお方です。
「リーザ、今日のわたくし、少し浮き立ちすぎていて?」
「少しでは済んでおられません、クラウディア様」
「まあ、では幸せが隠しきれておりませんのね」
そう申し上げると、クラウディア様は目をぱちりと瞬かれました。
その発想になるあたりが、朝からたいへん平和でいらっしゃいます。
「ええ、既に三度ほど、同じことをおっしゃっています」
「だって、わたくし、今日はとっても幸せなのですもの」
そう答えると、奥様は頬へ手を当てて、ふわりと笑われました。
私はハーベスト子爵家にて、クラウディア様のお側にお仕えしております。
まだ嫁ぐ前、ご実家の頃からご縁があり、幼い頃より親しくしていただき、その後に諸々あり、十四の頃より側仕えのメイドとしてお傍に上がりました。
なのでお輿入れに従事するのも、ごく自然な成り行きでございました。
侍女であり、お世話役であり、時には暴走する主の歯止め役でもございます。
もっとも、その最後の役目は、あまり成功いたしておりませんが。
結婚記念日が近づいており、それに王都主催の社交の集いも控えております。
最近の流行を眺めつつ、旦那様への贈り物を選ぶには良い日でございました。
それだけではなく、クラウディア様には、今日という日に胸を躍らせる別の理由もおありでした。とは言え、ここで軽々しく申し上げるのは野暮でしょう。
「クラウディア様、あまりお疲れになりませんように、本日は少しお加減が揺らぎやすそうですから」
そう注意を添えると、クラウディア様は唇を尖らせられました。
「まあ、わたくしは元気ですわ」
「ええ、元気でいらっしゃることは疑っておりません」
「あまりはしゃぎ過ぎると、後からどっとお疲れになります」
「あら、今日のリーザは、まるで乳母みたいですわね」
私が言うと、奥様はくすりと笑われました。
その評価は、だいたい当たっております。
「ええ、本日ばかりはそのつもりでおります」
「まあ怖い、そんなに心配しなくても大丈夫よ」
「いえ、そうはいきません、王都は危険で溢れていますので」
「ならあなたが、わたくしの護衛騎士様になってくださいな」
「承知いたしました、ですので姫様、どうかご安静に」
「うふふ、あなたはいつも真面目ですね、 リーザ」
元気な時ほど張り切りすぎるのが、このお方のいけないところです。
こちらも自然と、釘を刺す回数が増えます。
そうして馬車に揺られ、私どもは王都の貴族街へ向かいました。
晴れた日の王国管理区は、どの店もたいそう眩しく見えるのでした。
宝飾店の硝子窓は日差しをはね返し、服飾店のショーウインドには新作が並び、香水店の前を通れば甘い花の香りが鼻先をくすぐります。
綺麗に整えられた石畳も、日傘を傾けるご夫人方も、皆そろって自分こそ王都の流行を体現していると信じているような、自信に溢れたお顔です。
そして、そういった大抵の方は、他人の装いの方をよく見ているのです。
格付けするような鋭い視線が交錯し、実に気の休まらぬ場所でございます。
「ご覧になって、リーザ、あの薄青のドレス、裾の落ち方がとても綺麗ですわ」
「たしかに上品でございます」
「でも少し、腰回りが細すぎるかしら」
「お仕立て直せば問題ございません」
「仕立て直しで解決してよいことと、そうでないことが世にはありますのよ」
「では、あまり増やさぬ方向でお願いしたく存じます」
「まあ、まるでわたくしが、いつも何か増やしているみたいではありませんの」
「……時に騒動を」
「リーザ!?」
「大変失礼いたしました」
それに最近は少々、体型に丸みが帯びてきておられましたが、今となってはその理由も察しがつくので黙っておきましょう。
しかし心を読まれたのか、クラウディア様が物申したげに見てきます。
じとりと睨まれても、否定しづらいのがつらいところでありますが。
とは言え次の瞬間には、やっぱり薄緑も捨てがたいですわと、楽しげに悩みながら目移りされています。まるで秋空の様に移ろいやすい気性でございます。
まあこういう切り替えの早さも、クラウディア様らしいところでございますが。
「でも旦那様の好みに合わせるなら、やっぱり一緒に決めるのが良いかしら?」
「ええ、そうですね、社交界のドレスは安い買い物ではないので」
「そうですわね、名残惜しいですがまたの機会にしましょう」
「今回は、お祝いのケーキも買いましたからね」
先ほどクラウディア様は、旦那様への贈り物もお選びになりました。
王都の魔導通信局に務めておられる、オズワルド様にふさわしい、上質の万年筆です。銀細工は控えめで、深い紺の装飾が知的で、あの落ち着いたお人柄にはよく似合いそうなお品でした。
「きっと、お喜びになりますよ」
「当然ですわ、わたくしが選びましたもの」
こういう時の奥様は、本当に可愛らしいのです。
このまま何事もなく帰れればよかったのに。
そのように、この時の私は心から思っておりました。
「あら、あれは、旦那様ではなくて?」
クラウディア様が、ぱっとお顔を上げられました。
私もそちらを見て、頷きかけました。
品のよい外套の着こなしも、整えられた髭も、見間違えようがございません。
オズワルド・フォン・ハーベスト子爵様。
普段は落ち着いておられるのに、クラウディア様のことになると妙に張り切ってしまわれる、あの愛妻家の旦那様です。
「まあ、こんなところでお会いするなんて」
「お、お待ちくださいませ」
先ほどまでの幸福が、クラウディア様のお顔でさらに華やぎました。
そのまま駆け出しかけたお袖を、私は慌てて押さえます。
「リーザ、どうしたのです?」
「その、前方をよくご覧ください」
そう促すと、クラウディア様は不思議そうにもう一度、通りの向こうへ目を凝らされました。そして、お顔からさっと色が引きました。
オズワルド様のお隣に、見知らぬ若いご令嬢が立っていたのでございます。
華やかな装いの、若く美しい方でした。
流行をそのまま仕立てたような服に身を包み、細い手袋越しの指先でショーウインドの展示品を眺めながら、親しげに旦那様へ話しかけておられます。
そして旦那様もまた、その方の言葉に頷き、宝飾店のほうへと自然に歩みを向けられました。まるで示し合わせたような自然さで。
「え、わたくしの旦那様が」
「……はい」
次の瞬間、クラウディア様は青い瞳を見開かれます。
「若い女と仲良さげに歩いてますわ!?」
「ええ、確かに、あれは旦那様ですが」
表現は率直でしたが、お気持ちは分かります。
私が慎重に答えると、奥様はぐっと唇を噛まれました。
「なんですの、あの方は!?」
「お仕事のご相談かもしれません」
あの方と言い直されたあたりに、まだ貴婦人の理性が残っておられます。
なので、とっさにそう申し上げました。
ですが我ながら心許ない弁明でした。
旦那様のお顔が、どう見ても仕事中のそれではなかったからです。
柔らかく、親しい相手と過ごす時のお顔でした。
しかもお二人は、そのまま宝飾店へ入っていかれたのです。
「わたくし、声を掛けようと思っていましたのに」
「きっと何かの間違いでございます」
「でも宝飾店に入っていきましてよ?」
「ええ」
「それも若いご令嬢と!」
クラウディア様が怒気を含んだ低く声で呟かれます。
そこを強調されますと、だいぶ苦しいです。
するとクラウディア様は、きっぱりと顎を上げられました。
「リーザ」
「はい」
「尾けますわよ」
「はい?」
「こうなりましたら、真実を確かめるまでですわ」
「貴族のご婦人が主人を尾行なさるのは、あまり品の良い行いではございません」
「不実を見過ごす方が、貴族としての品位や体面に関わりますわ」
「それはそうですが、あまりお歩きになるのは」
「歩きますわ!」
「せめてゆっくり」
「心は疾走しておりますのに?」
「お身体まで付き合わなくてよろしいのです」
勢いとしては満点、理性としては赤点でございました。
こうなったクラウディア様は止まりません。
馬より速く、理性より強く、想像力だけで突き進まれます。
「せめてお顔を伏せてくださいませ」
「ええ、完璧に隠れますわ、ちゃんと日差し避けの帽子も被ってますもの」
「そのキャプリーヌは旦那様からの贈り物なので、見られたら一瞬でばれます」
「そうでしたわ、ではコソコソと見つからないようにいたしましょう」
「先ほどと何が違うのか、私にはさっぱりでございます」
「いいから行きますわよ、リーザもついて来なさいまし」
その自信がもっと別の方向へ育ってくださればよろしいのですが、幸い旦那様はこちらへお気づきになりませんでした。
私どもは雑貨屋のオシャレな街頭、街路樹の幹、香水店の飾り台など、その場にあるものを片端から遮蔽物として活用しつつ、お二人のあとを追いました。
途中、クラウディア様のご指示で、魔導端末での撮影を命じられました。
今後の為に決定的な証拠を押さえるのだそうです。
何の証拠になるのかは、今の段階では深く考えないことにいたします。
宝飾店から出てこられたあと、今度は服飾店の前で足を止められました。
そしてそのまま、ショーウインドに目を通して、店内へ入っていかれます。
私どもも気取られぬよう、少し遅れてそのあとに続きました。店内にはドレスやスーツがずらりと並び、身を隠すにはたいそう都合がよろしゅうございます。
ご令嬢が明るく微笑みながらいくつかのドレスを見比べて、旦那様は腕を組んで悩むように眺め、時折その方へ意見を求めているご様子でした。
その距離の近いこと近いこと。
こちらの寿命が縮みそうな近さでございます。
「あの方、ご覧になって、あの細い腰」
「ええ、とても細うございますね」
おそらく、かなりキツめのコルセットで締め付けているのでしょう。
涼しい顔をしてる辺り、良い身分のご令嬢と言ったところでしょうか。
「旦那様のお好みは、ああいう」
「いえ、まだ決まっておりません」
「それにお若いわ、 リーザと同い年くらいかしら?」
「クラウディア様もまだ二十歳そこそこではありませんか」
「お肌にも瑞々しさと張りがございます」
「それは、遠目には判断しかねます」
「わたくしには分かりますわ!」
「左様でございますか」
こういう時のクラウディア様の確信には、理屈が入り込む隙がございません。
根拠は薄く、勢いは十分。それがいちばん止めにくいのでございます。
気に入ったドレスが見つかったのか、会計を済ませてお店を出て、やがてお二人は貴族街の外れにある、洒落たオープンテラスのカフェに向かいました。
白い天幕の下にテーブルが並ぶ、上流階級向けの店です。
旦那様はごく自然にそのご令嬢の椅子を引き、向かいに腰を下ろされました。
私たちは少し離れた建物の陰から、その様子を密かに監視しています。
「まあ、椅子を」
「引かれましたね」
「流石はわたくしの旦那様、手慣れておりますわ」
「紳士として当然の振る舞いとも申せますね」
「でもわたくしではなく、他の若い女に!」
「まあ、そこが問題なのではございますが」
ほどなくして、紅茶と美味しそうな料理が運ばれてきました。
正午もそろそろ過ぎた頃合い、昼食も兼ねているのでしょう。
そして旦那様は、宝飾店で購入したと思われる小箱をテーブルへ置き、ご令嬢へ見せられたのです。お相手は口元へ手を当てて楽しげに笑い、オズワルド様もまたどこか照れたように微笑んでおられました。
駄目です、あれはいけません。
あの一連の流れは、誤解してくれと、首に看板を掲げているようなものでした。
「リーザ」
「……はい」
「こ、これはもう」
「嫌な予感しかしませんが」
「不倫ですわ」
「断定なさいましたか」
「間違いありませんわ」
「いえ、まだ間違っている余地は」
「だって宝石ですのよ」
「はい」
「高価なドレスですのよ」
「はい」
「それに、食事までご一緒ですのよ」
「……はい」
「しかも、あんなに楽しそうに」
クラウディア様の青い瞳が、みるみる潤んでまいりました。
疑いたくて疑っておられるのではなく、見てしまったものにお心が耐えられないのでしょう。そう思うと、私も胸が痛みます。
「それに、証拠もございますわ……」
クラウディア様は震える手で魔導端末を取り出され、撮った画像を拡大なさいました。映っていたのは、向かい合って笑う旦那様と、若いご令嬢。宝飾店の小箱。
なんとも申し開きの難しい絵面でございます。
「しっかり撮れましたわね」
「少々ぶれておりますけど」
「心が震えておりますもの」
写真まで動揺に付き合わなくてもよろしいのですが。
それでも人物の顔を特定するには、十分な証拠でした。
「うう、昨日の夜は、わたくしのことを世界で一番可愛いと仰ったのよ」
「そんな赤裸々な告白、この場でしなくても良いですよ」
「朝もお出掛け前に口づけをしてくださったのに」
「甘々でしたね」
もう見慣れた光景ですが、思わず砂糖を吐きそうになりました。
「それなのに、こんな真っ昼間から見知らぬ女とデートして、昼食まで」
「並べると落差が酷くて風邪をひきそうですね」
「リーザ、世界は一晩でずいぶん狭くなりますのね……」
「確かに旦那様の言動が軽率であった可能性もございます」
「やっぱり、若い方がよろしいのですわァァ」
「クラウディア様、どうか冷静に、お声を抑えて」
「ムキィーー、悔しいですわァァ!!」
「ああ、いけません、いけません、クラウディア様、そんなみっともない猿叫、貴婦人が街中で出して良い声ではございません」
けれどクラウディア様のお心は、坂道を転がる暴れ牛のようなものでした。
一度勢いがつけば、止めるにはだいぶ大がかりな柵と人手が要ります。
「だって、だってだってぇ!」
「そんなに癇癪を起こしたら旦那様にも嫌われますよ」
「!!」
そして旦那様の方をもう一度見てみると、何気ない顔を装いながらも、何か異変を感じ取ったのか、周囲を気にするように目を動かされておられました。
あれではまるで、見つかっては困る何かがおありのようではございませんか。
「ふぐぅぅ、きっとやましい事があって、周囲を警戒してるんですわ」
「ちょっと判断が付きかねますね、まだこちらには気がついてない様ですが」
ひとしきり声にもならない感情をさらけ出し、その後にひと息つきました。
その間、私は宥めることしか出来ずに、思わず無力感を感じてしまいました。
「……わ、わたくし、もう駄目ですわ」
「まだお倒れになるには少し早うございます」
「だって、これはもう、不貞行為に違いありませんわ」
「気持ちは分かりますが、飛躍しすぎです」
その時でした。楽しそうに若い令嬢と談笑する旦那様方を見つめ続けたせいか、クラウディア様のお身体がふらりと揺れました。
「リーザ、わたくし……もう、だめ」
「クラウディア様!?」
そう呟かれた次の瞬間、クラウディア様はくらりと傾き、そのまま私の肩へしなだれかかるように崩れ落ちてしまわれたのです。
「クラウディア様! しっかりして下さい」
「うぇぇん、こんなの、酷い裏切り行為ですわぁ」
私は慌ててお支えしました。買い物袋を抱えたままでしたので、いささか無様ではございましたが、そんなことを気にしている場合ではありません。
クラウディア様は子供のように泣きじゃくりました。
長い睫毛を震わせ、呼吸を乱されました。白い頬は痛ましいほど血の気を失い、先ほどまでの幸福そうなお顔が嘘のようでございます。
とても不味い状況ですが、ここで私まで取り乱すわけにはまいりません。
いっその事、旦那様に声を掛けて呼ぼうとも思いましたが、向かい合って楽しそうにしている2人の様子を観ていたら、その気が失せてしまいました。
どんな理由であれ、あれは奥方様を悲しませる行為に相違ないです。
私の見解でも、少なくとも白昼のお忍びデートと言ったところですし。
と言うか、お勤めはどうなされたのですか、旦那様!?
こんな目に遭わせた張本人が、あの白い天幕の下でまだ優雅に紅茶を召し上がっているのかと思うと、許せない気持ちがムクムクと湧いて来ました。
侍女風情の私でも、罵声のひとつくらい投げたくなったのは否めません。
しかし、そんな淑女にあるまじき端ない事は出来ません。
代わりに証拠をしっかり収めた魔導端末を握りしめて、私は奥様のお身体に負担を掛けないよう、待たせてある御者の元までゆっくりと戻ったのでした。
◇
屋敷へ戻られたクラウディア様は、ひどくお静かでした。
泣き叫んでくだされば、まだ慰めようもございます。
怒ってくだされば、お茶でもお出しして少しは気も紛れましょう。
ですがずっと黙り込まれると、心の中で悲壮感だけが着々と育ってゆくのでございます。侍女としては、たいへん胃に悪い沈黙でした。
私はクラウディア様を、居間のリビングへお連れしました。
午後の光が差し込む、普段なら穏やかな大広間です。
本日に限っては、平和な気配があまりございませんですが。
そんな重い空気の中、トコトコと足音が近づいてまいりました。
姿を現したのは、ハーベスト家の忠犬セバスチャンです。
大きな身体にやさしい垂れ目をした、たいへん賢い子でございます。
セバスチャンは何も言わず、まっすぐクラウディア様のお側へやってきて、そのお膝へ鼻先を寄せました。落ち込んでおられる気配を察したのでしょう。
もっとも、視線の先のテーブルには、夕食後のデザートとしてお出しするつもりだったホールケーキの箱もございましたので、純粋に奥様だけを案じて寄ってきたのかは少々判断に迷うところでございますが。
「まあ、ご覧なさいリーザ、賢い子ですわ」
「……ええ、そうでございますね」
今この場では、余計なことは申しません。
犬の忠義に見せかけた食欲を暴くほど、空気が明るくもございませんので。
「わたくしが落ち込んでいるのを察して、慰めてくれているんですわね」
「ええ、きっと間違いのうございます」
「わふ」
「まあ、お返事まで」
クラウディア様は、ようやく少しだけお顔をほころばせました。
ほんのわずかではございますが、その変化に私も胸を撫で下ろしました。
そしてクラウディア様は長椅子のソファーに腰を下ろされるなり、左手の薬指をじっと見つめられました。そこにあるのは、結婚の証たる指輪です。
かつて旦那様がその手を取ってはめて差し上げた、大切なお品でした。
「わたくし、決めましたわ」
「どうなされました」
「この指輪を外しますわ」
「少々早計な気もいたしますが」
「だって決別ですもの」
「なら私もクラウディア様の意思に従います」
「リーザ」
「私はいつでも奥様の味方ですから」
そうしてクラウディア様は、薬指へ指をかけ、ぐいと引かれました。
旦那様も流石にこれを見たら、自身の行いを顧みる事でしょう。
「……あら?」
「外れないのですか?」
「ええ、おかしいですわね」
「少し回してみてくださいませ」
「くっ、試しておりますわ」
「落ち着いて、ゆっくりと」
「ぬ、抜けませんわ!」
「お貸しくださいませ」
「いいえ、自分でやりますわ」
引いて、回して、また引いて。
けれど指輪は王城の門番のように頑固で、微動だにいたしませんでした。
「……まさか」
「クラウディア様?」
「わたくし、太った?」
「……たいへんお答えしずろうございます」
実に困る問い掛けですが、次の瞬間、奥様はぶんぶんと首を振られました。
その動揺した表情を見るに、どうやら事実をお認めになりたくないご様子。
「いいえ、違いますわ」
「と申しますと」
「これはきっと、別の何かですわ」
「つまり?」
「この指輪には、呪いが掛かっているのですわ!」
現実から目を背けるにも、もう少し段階というものがあるでしょうに。
よく見ると、鬱血こそしていないものの、指輪が隙間なく肉に食い込んでるではないですか。ですがここで正論を述べても余計に感傷的になって、無理やり外そうとするので、侍女である私は賢く口をつぐみます。
「たしかに、少々頑固すぎますね」
「でしょう?」
「滑りをよくすれば抜けるかもしれません、油をお使いになってみては」
「まあ、リーザ、それは名案ですわ」
私はすぐに銀のボールへ植物由来の油をたっぷりと用意いたしました。
クラウディア様は待ちきれぬご様子で薬指へそれをベッタリと塗りつけて、神妙なお顔で指輪をつままれます。
「では、いきますわよ……!」
ぐっと引かれました。
ぬるり。
「……あら?」
ぬるり。
「今度こそ……!」
ぬるり。
「滑って、力が、入りませんわ!」
「ええ、見事なほどに」
「ぐぬぬぬ……」
「少しお力をお抜きになった方が」
「ここで退けませんわ……!」
ですが、どれほど奮闘なさっても、指輪はびくともいたしません。
そのくせお手元ばかりが、ぬらぬらと艶を増してゆきます。
慌てていたからか指の油が跳ねて、とても煌びやかに床に反射しております。
「はあ、はあ……なぜですの」
「指輪が外れたくないと訴えているのかもしれませんね」
「そ、そうなのかしら!?」
その反応を見るに、本心では指輪を外したくないのかもしれません。
「もしくは、本当に呪いの類なのかもしれませんね」
「それはあまり嬉しくないですわ!」
そして今更ですが、石鹸か洗髪用の香油の方が、まだ良かったのではないかと、その時の私はようやく気づきました。
ですが、最初に提案した手前、自ら失策を認めるのも癪でございます。
ここは黙って次善策へ移るのが賢明でしょう。
その時でした。愛犬のセバスチャンが、ふんふんと鼻を鳴らしながら近寄ってまいりました。どうやら指先についた油の匂いが気になるようです。
「あ、そうですわ!」
「とても嫌な予感がいたします」
「セバスチャン、あなたにお願いがありますの」
「わふ?」
「この指輪を咥えて、引っ張ってくださいまし」
「クラウディア様!?」
それはどうでしょうかと申し上げる間もございませんでした。
先程まで泣きそうだった奥様が、真剣なお顔でセバスチャンへ指を差し出すお姿を見ていると、どうにか叶えて差し上げたくなるから困るのです。困るのですが、その方法は如何なものかと思いますよ。
でもクラウディア様は、思い立ったらもう止まりません。
「いい子ですわ、そう、そのまま優しく」
「セバス、指輪だけですよ、指ごとではありませんからね」
「わふ!」
ぐい、ぐいぐい。
次の瞬間。
「痛たたたたぁぁぁぁっ!」
「まあ、そうなりますよね」
クラウディア様の悲鳴が、居間いっぱいに響きました。
ええ当然です。犬の顎は精密作業向きではございません。
いや、ちゃんと言いつけを守り、歯の隙間に指輪を挟んではいるのですよ。
ですが大型犬の力で無理やり引っ張ること自体が、このような結果になることを想像するに容易かったですね。なんとも滑稽なご様子です。
おっと、呑気に眺めている場合ではなかったですね。
「ゆ、指がもげてしまいますわァァ!!」
「セバス、ストップ!」
セバスチャンは慌てて口を離し、耳を伏せて一歩下がります。
私は両手で口元を覆い、どうにか笑うのを飲み込みました。
そして勢いよく身を引いた拍子に、クラウディア様の肘が空を切りました。
そしてその軌道上には不運な事にも……
「あっ」
次の瞬間、テーブルに置かれていたホールケーキが箱から飛び出し、ためらいなく床へ落下したのでございます。
それはそれは見事な着地でした。見た目だけは満点です。
白いクリームは床にべちょっと広がり、苺はあらぬ方へ転がり、そしてスポンジは無残に潰れました。セバスチャンは一瞬きょとんとしたあと、これは自分の出番かとでも申したげに、期待の眼差しでこちらへ顔を向けました。
なんと意地汚い忠犬でしょう。
「わふ?」
「待て、待てですよ、セバス」
「わん!」
「伏せ、その場で待機です」
「……わふぅ」
そう言えば、私たち、今日はお昼ご飯を食べ損ねていましたね。
貴族街で外食しようとしたら、旦那様を目撃してしまったので。
もっとも、セバスには屋敷の専属シュフが、しっかり餌を与えたはずですが。
落ちたケーキを物欲しげに見つつも、大人しくソファーの定位置に向かい、待機する賢いセバスを見て、この状況を責めるわけにもいかなくなりました。
「……もう嫌ですわ」
「お気持ちは分かります」
左手を抱えたクラウディア様が、がっくりとうなだれられました。
「旦那様に浮気されたうえに、指輪は抜けませんし、愛犬には指を噛まれかけますし、それにケーキまで……」
「本日は情報量が多うございますね」
「うぅ、わたくしがこんなにぶくぶくと肥えてしまったから、きっと旦那様も愛想を尽かしたんですわァァ……」
「いえ、きっと太ったのではなく、むくみでございます」
私がそう申し上げると、クラウディア様は涙に濡れたお顔のまま、こちらを見上げられました。実際に、見た目的には以前とそこまでお変わりないですし。
「むくみ?」
「ええ、むくみが取れれば、抜けやすくなるかもしれません」
「まあ、ではリーザ、何か良い案がございますのね?」
「そうですね、むくみを取るために、指を冷やしてみてはどうでしょう」
「まあ、その手がありましたわ」
「身が引き締まって、細くなるかもしれません」
「それは素晴らしいですわ、さっそく氷を用意してちょうだい」
そう言われて、私ははたと動きを止めました。
嫌な予感というものは、どうしてこう、当たる時ばかり鮮やかなのでしょう。
「ああ、そういえば」
「どうしたのですか?」
「午前中に保存してあった分は、全部かき氷にして食べてしまいました」
「確かに、そんなことを言っておりましたね」
ええ、そうでした。今日は朝からご機嫌で、果実蜜をたっぷりかけた氷菓子を、たいそう幸せそうなお顔で召し上がっていたのでございます。
余った蜜がもったいないと、魔導冷凍庫の氷を全て削らせておられました。
その時点で止めるべきだったのかもしれません。
まあ、私も一緒に美味しくいただいていましたけど。
「とても美味しかったので、わたくし、つい食べ過ぎてしまいましたわ」
「お腹が冷えるので、今後は程々にしないといけませんね」
「でも、氷なのでお腹には溜まりませんわ」
「そういう意味ではございません」
「ああ、でも氷がないと、指を冷やせませんわ」
氷菓子に満足していただけたのは大変嬉しゅうございますが、困りました。
残念ながら魔法の素養はあっても、奥様も私も氷属性の資質ではないのです。
それこそ旦那様がこの場に居れば、指を冷やす程度なら可能なのですが。
ですが、ここで立ち止まる側使いではございません。
賢い侍女である私は、再び良いアイデアを閃きました。
「それなら、私の知り合いの魔導士を呼んでまいります」
「まあ、それは名案ですわ、リーザ、頼みましたわ」
私は急いで魔導端末を取り出しました。
もっとも、案の定コンタクトにも応じず、通話は繋がりませんでしたが。
この郊外のお屋敷の近くに隠居しておられるアルダス様は、優れた魔導士である一方、魔導端末の扱いにはとことん疎いのです。
以前も着信音がうるさいと言って、端末を戸棚の奥へしまい込み、そのまま二週間ほど気づかなかったことがございました。
氷魔術にはあれほど長けておられるのに、どうして端末ひとつでああも手間取るのか、魔法文明とはまことに不思議なものでございます。
昔は王宮に勤める大魔導士だと自慢しておりましたが、どこまで本当なのか。
しかし連絡がつかない以上、直接迎えに行くしかありません。
「馬車でアルダス様を迎えに行って参ります」
「ええ、私の味方はリーザだけです、頼みましたよ」
「セバスチャン、主人をしっかりお護りなさい」
「わふ!」
本当に返事の勢いだけは良いんですよね。
◇
そうして私がアルダス様に事情を伝えて、馬車に無理やり押し込み連れて戻った頃には、王都の空もすっかり赤く染まり、夕方の頃合いでした。
王都を行き来する際の転移装置がこの近辺に無いのは、本当に不便です。
「クラウディア様、戻りました」
「……おかえりなさい、リーザ」
ソファーに背中を預け、毛布にくるまったクラウディア様のお声は、出がらしのお茶のようにしおれておりました。
大広間に足を踏み入れた瞬間、私はだいたいの事情を察しました。
奥様の薬指の周りは、先ほどよりも更に赤くなっていたのです。
きっとどうにかして外そうと、留守中も懸命に奮闘なさっていたのでしょう。
おいたわしい事です、そう思う一方で、放っておくと本当にろくでもない方向へ努力なさるのだなと、改めて実感いたしました。
しかも足元には、銀のボウルごとひっくり返したらしい、油の名残が床にぬらりと広がっておりました。
先程の惨事の再現プレイでもしたのでしょうか、容易に想像つきますね。
そして潰れたホールケーキの気配が、跡形もなく消えておりました。
代わりにもふもふとした犬の毛だけが、実に雄弁に散らばっております。
床に生クリームの残骸が少し残っていましたが、犯人はほぼ確定です。
もっとも、当のセバスは、たいへん澄ました顔でお座りしておりましたが。
現行犯でなくとも有罪にしたい気分ですが、今はそれどころではありません。
そしてそれを放置して掃除するつもりが全くない辺り、クラウディア様もまた、貴族という生き物なのだと、この上なく伝わってきます。
侍女である私が苦言を申せるはずもないですが、掃除のしがいがありますね。
「アルダス様、酷い有様ですが、どうかお力をお貸しください」
「やれやれ、まさかこんな依頼で呼び出されるとはのう……」
私の後ろから現れたのは、つば広の三角帽子に白髪、胸元まで届く長い顎ひげ、細い杖をついた、いかにも絵物語めいた老魔導士でございます。
「報酬ならちゃんと出しますわ、この忌々しい呪いを解いてくださいまし」
毛布から身体を起こして、クラウディア様が左手を差し出されます。
薬指の指輪は、相変わらずぴたりと収まったままでした。
アルダス様はその手を取ると、赤くなった指先をしげしげと眺められます。
「ふむ、別に呪われた装飾品ではないようじゃな、解呪はできぬ」
「そ、そんなはずありませんわ」
「そうは言われてものう」
困り顔の元王宮魔導士というのも、なかなか見られるものではありません。
「取り敢えず、むくみを取るためにお得意の氷魔法で冷やしてみてくださいまし、薬指だけで結構ですので」
私がそう頼むと、アルダス様は私とクラウディア様を見比べられました。
「ふむ、冷やすのも一つの手ではあるが、温めて血行を良くするほうが、むくみが取れることもあるとは思うが」
「!?」
それを聞いて、たいへん静かに目を泳がせて逸らしてしまいました。
どうやら私は、うっかり覚え違いをしていたようです。
頼れる賢い侍女の肩書きが、音を立てて崩れるのを感じました。
そう、私は所詮、おっちょこちょいでドジな側使いだったのです。
「でも、せっかく来ていただいたのですもの、冷やすのも試してみましょう」
「……クラウディア様」
思いがけず、庇うようなお言葉でございました。
とてもお優しいお方です。やはりクラウディア様は貴族の鑑ですわ。
「それに、冷やせば身が引き締まって細くなるかもしれませんわ」
「その理屈を、ずいぶんお気に召しましたね」
今は黙っておくつもりでしたが、つい本音が漏れました。
「リーザ、あなたが言ったのではないですか」
「そうでした、では私は、お湯も用意してまいりますね」
私は急いで湯を支度して、その間にアルダス様へ冷却をお願いいたしました。
アルダス様は、細い杖の先を軽く掲げ、冷気を細く絞られます。
白いモヤがすうっと集まり、左手の薬指だけを包むように施されました。
流石は高名な魔導士、見事な精度です。
ただし、精度と耐性は別問題でした。
「びゃあぁぁ、冷たいですわァァ!?」
「大した威力ではないはずじゃがのう」
クラウディア様はびくりと肩を跳ねさせ、たちまち左手を引っ込められてしまわれました。ちょうどそこへ、私がお湯を持って戻りました。
突然の叫び声には少し驚きましたが、この程度で動じたりはしません。
「それに冷やしても外れないですわ!」
「では、こちらもお試しくださいませ」
クラウディア様は、おそるおそる指先を温められました。
そして、ほうっと息をつかれます。
「ふぅ……こちらは生き返りますわ」
「やはり冷やすより、温める方がお好きでしたか」
「好き嫌いの話ではなくてよ」
そう言いながら暫くしてから手を引き上げて、もう一度そっと指輪を引いてみられましたが、現実はどこまでも冷酷でございました。
「……抜けませんわね」
「ええ、そのようですね」
その一言とともに、肩までしおれてしまわれます。
「そんな、このままずっと外せないのかしら、およよ……」
暖炉の前で嘆くお姿を見ながら、私は胸の内でそっと呟きました。
痩せればよいのですよ、クラウディア様。
もちろん、そんなことを口に出せば火に油です。
侍女らしく慎ましく黙っておりましたとも。
するとアルダス様が、さらりと恐ろしいことを仰いました。
「いっそ指を切り落としてから、再生魔法でくっつける手もあるがの」
「奇策ではありますが、なんでそんな物騒な提案をするのですか」
思わず即答してしまいました。
そしてクラウディア様も真っ青になって、ぶんぶんと首を振られます。
「それは嫌ですわ」
「では、指輪の方を切るかの、繊細な制御は要るが、風の魔法でいけるじゃろ」
その途端、クラウディア様はぴたりと黙り込まれました。
左手の薬指を見下ろし、ほんの少しだけ唇を噛まれます。
「うぐ……それも、だめですわ」
やはり、そうなのです。
どれほど腹を立てておられても、どれほど疑っておられても、本当は旦那様から誓いとして贈られた大切な指輪を、壊したくはないのでしょう。
今日という日をあれほど楽しみにしておられた方が、旦那様との絆まで本気で手放せるはずがありません。
「ふむ、別に無理強いはせんが、しかし奇妙な指輪じゃのう」
「何がですか?」
「冷気の通りが妙に良かった、その指輪の意匠、ただの飾りではあるまい」
「やはり呪いではなくて?」
「便利な言葉じゃな、呪いは」
そう言って眉を下げられましたが、否定しきれぬ不気味さもあるのでしょう。
まあ、私の見解としては、おそらく指輪の素材にミスリル鋼を使っているから、普段よりも魔法の通りが良かったのではないかとも思いましたが。
でも所詮は魔法初心者の意見なので、大人しく黙っていましょう。
そしてアルダス様はそれ以上は追及なさらず、赤くなった薬指へ、軽い回復魔法を施してくださいました。
淡い光が指を癒し、クラウディア様はようやくほっと息をつかれます。
「ありがとうございますわ……」
礼を言われたアルダス様は、顎ひげを撫でながら鼻を鳴らされました。
「なに、大したことではない、じゃが次からは、そこの犬に引っ張らせる前にわしを呼ぶのじゃぞ、回復魔法は怪我をしてから時間が経つと効きが悪いからの」
「ええ、心得ましたわ」
「わふ!?」
足元に居たセバスチャンが、とても心外そうに鳴きました。
ええ、あなたは貴方なりによく働いたのでしょうとも。
でも口元に付いた生クリームが、全てを台無しにしておりますわ。
◆
結局のところ、クラウディア様の指輪は抜けず、事情も晴れず、無駄に消耗した私どもは、ひどく気疲れしたままその時を迎えました。
玄関の扉が開く音がいたしました。
「ただいまー」
聞き慣れた落ち着いた声に、クラウディア様の肩がぴくりと揺れました。
居間へ入ってこられたオズワルド様は、一歩目で立ち尽くされました。
毛布にくるまり、忌々しげに左手を睨んでおられる子爵夫人。
その隣で、なぜか優雅に紅茶を飲んでいる老魔導士。
床にこぼれた生クリームを、満足げに舐めている大型犬。
そして帰宅早々、その光景に出くわして困惑する屋敷の主人様。
「これは一体、何が起こっているんだい……?」
「……うぇぇん!!」
クラウディア様は毛布を引きずったまま立ち上がり、そのまま旦那様へ飛びつかれました。その瞳にはたくさんの涙を溜めておられます。
「わたくしが、わたくしが、こんな肥えた豚になったから、きっとあなたも愛想を尽かして、若い女性に靡いたのですよね、ブヒィぃ、悔しいですわぁぁ」
「え、一体どうしたんだい、クラウディア!?」
勢いの良すぎる泣きつき方に、旦那様が半歩よろめかれております。
そして私は、ここぞとばかりに魔導端末を取り出しました。
「ご主人様、言い逃れはおやめくださいませ、証拠もございます」
そう申し上げて画面をお見せすると、白い天幕の下、若いご婦人と向かい合って笑う旦那様のお姿が、たいへんくっきり映っております。
卓上には宝飾店の小箱までございますので、申し開きの難しさは満点です。
旦那様は端末の画面を見て、一瞬だけギクリとして言葉を失われました。
それから短く息をつき、逃げずに頷かれました。
「……はあ、まさか君たちに目撃されていたとは、これは僕の失態だな」
弁解よりも先に説明を選ばれるあたり、実にオズワルド様らしいところです。
そして旦那様はクラウディア様の肩を支え、落ち着かせるようにゆっくりと話し始められました。
「結婚記念日が近いだろう、それに毎年恒例の王城主催の社交界の集まりもある、だからクラウディアに流行を取り入れたドレスと、それに合うネックレスを贈ろうと思っていたんだ」
クラウディア様のしゃくり上げが、ぴたりと止まります。
「わたくしへの、プレゼント?」
「ああ、でも僕は女性の装いにあまり詳しくない、そこで同僚である友人に相談したら、彼の奥方が王都の流行に詳しいから、助言してくれることになってね」
旦那様はそこで少しだけ眉を下げられました。
「君に余計な不安を与えたのは、僕の落ち度だ、すまなかった、クラウディア」
「若い……奥方……?」
ようやくそこへ辿り着かれた奥様へ、旦那様は穏やかに答えられます。
「ミア・フォン・エーデル夫人だよ、宝飾店にも服飾店にも、どれにするか選ぶのに一緒に付いて来てもらったんだ、お茶と食事はそのお礼だよ」
暖炉の薪が、ぱちりと弾けました。
つまりあれは浮気でも何でもなく、贈り物選びの相談だったのですね。
クラウディア様の頬が、みるみる赤く染まってまいります。
「えぇ……そう、なのですか……?」
「そうだよ、驚かせたくて黙っていたけれど、どうやら逆効果だったみたいだ」
「まあ、私ったら、とんだ勘違いを、はしたない真似までしてしまって、とっても恥ずかしいですわ」
そのお言葉に、クラウディア様はみるみる耳まで赤くなられました。
そうおっしゃいながらも、旦那様の袖はしっかり握っておられますから、真相を知れて心底安堵なされたのでしょう、たいへん喜ばしいことです。
旦那様はそんな奥様を見つめ、ふっと目元を和らげられました。
このお方は、相手のお気持ちを軽く扱うような言い方はなさいません。
「いや、君がそれだけ傷つくほど、僕を大事に思ってくれていたことを、軽く受け取るつもりはないよ」
その一言で、クラウディア様はますます真っ赤になられました。
「もう……でしたら、これからは私だけを見つめていてくださいまし」
「ああ、もちろんだよ、これからは誤解を招くようなことはしない」
きっぱりと言い切られたのは、とても良い誠実な返答でした。
でも私はそこで、侍女としてひとつ申し上げておくことにいたしました。
「ご主人様、本日は誤解で済みましたが、あの場面を他の方に見られていたなら、そう簡単には済まなかったかもしれません」
旦那様がこちらをご覧になります。
「今は端末ひとつで画像も残りますし、噂や悪評も瞬く間に広まります、下手をしたらクラウディア様の立場まで軽んじられかねない迂闊な振る舞いでした」
少々差し出がましいとは思いましたが、これは言っておくべきことです。
旦那様は黙って私の言葉を真剣に受け止め、それから静かに頷かれました。
「……その通りだ、リーザ、忠告をありがとう」
それから改めて、クラウディア様へ向き直られます。
「たしかに軽率だった、プレゼント選びの謝礼とはいえ、ああして他の女性と二人きりで店を回れば誤解を招いても仕方ない、配慮が足りずに君達にまで非難が及ぶところだった、本当にすまなかった、クラウディア、どうか許して欲しい」
真摯にそう謝られてしまえば、クラウディア様もそれ以上は何も言えません。
ただ小さく「はい」と頷いて、旦那様の腕に寄り添われるばかりです。
私はようやく胸を撫で下ろしました。
もっとも、胸を撫で下ろすと同時に、別のことも思います。
今は魔導端末ひとつで証拠も残れば、噂も飛びます。
悪意ある者の手に渡れば、脅しの種にもなりかねません。
便利になったぶん、油断の代償だけは高くなったものです。
いやな世の中になったものでございます。
「誤解が解けて良かったですね、クラウディア様」
安堵が声に出てしまいましたが、当の奥様はそれどころではありません。
ご自分の早とちりを思い出し、耳まで赤くなっていらっしゃいます。
けれど次の瞬間、クラウディア様は、はっとしたように顔を上げ、旦那様の袖をそっと引かれ、とても真面目なお顔で向き直りました。
「オズワルド様」
「……うん?」
呼ばれた旦那様が、やさしく目を合わせられます。
その返事を受けて、クラウディア様は小さく息をのみました。
「わたくし、あなたにお伝えしたいことがあるんですの」
そう言ってから、ちらりとこちらの方をご覧になりました。
もちろん私は、その内容を知っております。
今日の午前中、懇意にしている診療所に足を運んで、その結果を知り、とてもお喜びになり、浮かれているご様子を朝からずっと見てきたのですから。
クラウディア様は背伸びをして、旦那様の耳元で、そっと囁かれました。
その内容は、聞かずともわかりますが、聞こえないふりをしておきましょう。
それに聞かずとも、旦那様の反応だけで十分でした。
「……それは本当かい?」
「ええ、間違いないですわ」
その目が大きく見開かれて、次の瞬間には、穏やかな方らしからぬ勢いで表情が崩れました。
「クラウディア」
「きゃ」
旦那様が奥様を両手に包み込んで、そのまま抱き上げられました。
薬指から抜けないままの指輪まで、何よりも愛しいもののように。
クラウディア様は頬を赤らめながらも、心から嬉しそうに頷いておられます。
人目も憚らず抱きついて、旦那様はしばらく言葉もなく奥様を見つめ、それからようやく、噛みしめるように仰いました。
「こんなに嬉しいことはないよ、クラウディア」
低く落ちたその声には、作り物でない喜びがはっきりと滲んでおりました。
「ありがとう、愛しているよ、君は本当に最高の女性だ」
「わたくしも、旦那様のことが大好きですわ」
そこでアルダス様が、紅茶を飲み干してからしみじみと仰いました。
「ふむ、どうやら呪いの指輪ではなくて、祝いの指輪だったようじゃな」
その一言で、部屋の空気がふっとほどけました。
「ええ、もう外さなくて良いみたいですね、だってお二人とも、とても幸せそうなお顔をしているんですもの」
「まあ、リーザったら、うふふ、でもそうですわね」
私がそう申し上げると、クラウディア様は満更でもなさそうに笑われました。
それにしても、先ほどクラウディア様が、こちらをちらりとご覧になったのは、きっとあの報せをこの場で口にするのを、躊躇われたからでしょう。
たとえ半分棺桶に足を突っ込んだ、少々ぼんやりしたご老人であろうとも、旦那様以外の殿方がいる手前では言いづらいこともございます。
そう思えば、耳打ちになさったのも、ごく自然なことでございました。
「さて、お役目御免のようじゃし、それじゃ、わしはそろそろ帰るとするかの」
アルダス様は満足げに腰を上げかけました。
しかし私は、そこで思い出したように声をかけました。
「あ、そうでした、帰るのならその前に、キッチンの魔導冷蔵庫に氷のストックを作っていってくださいませんか」
「やれやれ、年寄りをこき使ってくれるわい」
「立っている者は親でも使え、が私の家の家訓なのです」
「嫌な家訓じゃのう、それよりお主、わしを見てさっきだいぶ失礼なことを考えてはおらなんだか?」
「……なんのことでしょう?」
「まあええが、心の中で毒づくのも程々にせんと、いつか痛い目に遭うぞい」
勘の鋭いお方ですこと。
というより、もしかしたら魔法の類なのでしょうか。まあ、年の功から来る教訓として聞き入れておくことにいたします。
何がきっかけで炎上するか分からないのが、貴族社会でございますからね。
◇
その日の夜。
専属のシェフが用意した豪華な夕食を終えたあと、クラウディア様は旦那様から改めて贈り物を受け取られました。
箱を開けた奥様は、ほうっと甘いため息を漏らされます。
「まあ、とっても素敵なドレスですわ」
そこに収められていたのは、クラウディア様の好みに寄り添いながらも、王都の流行も上品に取り入れたエレガントな一着でした。
添えられたネックレスもまた、奥様の瞳によく映えそうな繊細な輝きです。
「結婚記念日はまだ先ですが、ちょっと着てみてもいいかしら」
「もちろん」
そうお伺い立てる声色は、もうすっかり朝のご機嫌な奥様に戻っております。
旦那様が快く頷かれると、クラウディア様はたちまち上機嫌になって、新品のドレスを抱えて寝室のドレッサーへと向かわれました。
私も当然のようにその後を追い、お着替えをお手伝いいたします。
そして。
「あ゙あ゙あぁぁァァ!」
寝室に、聞き覚えのありすぎる悲鳴が響きました。
私はクラウディア様の背後で、ドレスの背を留めようと奮闘しておりました。
仕立てに問題はありません。流行を取り入れた意匠も完璧です。
問題があるとすれば、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ以前より豊かになった、奥様のお身体の方でしょう。
「ぐぬぬ……せっかくこんなに素敵なドレスなのに、なんて事ですのォォ」
あと少しなのです。
本当にあと少し。ですが、ドレスの背中のファスナーが、そのあと少しが閉まらないのですから、現実とはどこまでも残酷でございます。
絶叫するビーバーのような悲鳴を聞きつけた旦那様が、扉のところまでいらして事情を察すると、苦笑まじりにそうっと声をかけられました。
「無理に着なくても大丈夫だよ、仕立て直しを頼もう、今のクラウディアの身体に合うように、きちんと調整してもらえばいい」
そのお気遣いは実に優しく、奥様を責める色など欠片もございません。
けれどクラウディア様は、ふとご自身の左手を見下ろされました。
そこには、今も薬指にすっぽりと収まっている指輪が光っております。
奥様はきっぱりと顔を上げられます。
「いいえ、折角あなたが選んでくださったドレスなんですもの、わたくし、きっと着こなしてみせますわ」
その目には、先ほどまでの恥ずかしさとは別の熱が宿っておりました。
私は背後から、力強く申し上げました。
「その意気です、クラウディア様、王城主催の社交界まではまだ時間があります、頑張りましょう」
「ええ、ドレスも指輪も、好きな時に着て外せてこその宝物なのですわ!」
その言葉を聞いて、旦那様も目元をやわらげて頷かれている事でしょう。
「そうか、なら僕も応援するとしよう」
「ええ、見ていてくださいまし」
クラウディア様はドア越しに旦那様の声に応え、それから小さく、けれど確かな声で頷かれます、その青い瞳には、新しい決意の光が宿っておりました。
「わたくし、この素敵なドレスをエレガントに着こなしてみせますわ」
こうしてハーベスト家には、新たな目標が生まれたのです。
そんなお幸せそうな二人の様子を、愛犬のセバスが見上げて、良かった良かったと、すべて理解しているかのように、ぺろりと舌を出しておりました。
もっとも、あれはただ食後のおやつを要求しているだけかもしれませんが。
「セバスチャン、あなたはケーキ消失事件の最重要容疑者なので、クラウディア様と一緒に、しばらくは散歩の距離を追加です」
「わふぅ!?」
「なんです、その不服そうなお顔は、飼い主に似るとはよく言ったものです」
「ちょっと、聞こえてますわよ、リーザ」
おっと、これは大変失礼いたしました。
ともあれ、今回のドタバタ騒動は、どうにか無事に幕を閉じたのでした。
了
セバスは魔犬なのでお腹が丈夫です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
もし面白いと感じたら☆★★★★評価してもらえたら、大変嬉しゅうございます。
侍女語りシリーズ第一弾になります。
新作エーデルワイスの横恋慕とのクロスオーバー要素も少しあります。
興味があれば是非是非読んで下さい(宣伝)
エーデルワイスの横恋慕
https://ncode.syosetu.com/n1664mt/




