温心不通
一
新宿駅の東口を出て右の交差点渡って少し行った先、店員のほとんどが外国人の安くて汚い居酒屋がある。サワーも薄いし料理も美味しくないけれど、互いに金欠を嘆いている身なので、安さは最も優先される。
「だからね、人肌は恋しいけど、彼氏作んのは面倒くさいの」
向かいに座って話す西沢会長がカルーアミルクを片手に、さっきから訴えかけるような目で熱弁してくる。また突拍子もないことを言い出した。だが言いたいことは分かる。まどろっこしい恋人関係は抜きにして自分の欲望を満たしてくれる相手を欲しているのだ。
「それなら最近は、出会い系アプリとかたくさんありますし、そこで出会い探してみればいいんじゃないですか? 僕はそういうアプリ入れてないので知らないですけど、女の人なら引く手数多だって聞きますよ」僕は、煙草の煙が会長の顔にかからないように、顔を少し右に向けて息を吐き出した。
「違うの! 知らない人じゃ意味ないの。それにアプリって身体目的の人多いし」
「そんな贅沢な。でも身体目的って言えば西沢会長もそうなんじゃないですか?」
「また会長って言った。もう会長じゃないって何回も言ってるのに。それに私が生徒会長だったのってもう二年以上前の話じゃん。もう私たち大学生だよ」
僕が西沢会長と知り合ったのは、高校一年生の秋。指定校推薦で大学受験を早めに切り上げることを目指していた僕にとって、教師陣からの評価を得るために生徒会役員になることは重要な戦略であった。人前に出ることが苦手な僕であるが、その時分は流行病の影響で立候補者演説がリモートで行われることになっていたため、思い切って副会長に立候補したのだ。その時に生徒会長だったのが当時高校二年生だった西沢結衣先輩である。人見知りで根暗な僕とは対照的で明るくよく笑う人だ。茶髪のロング、話している時は常に口の端が少し持ち上がっており、身振り手振りも大きくて、いつも楽しそうにしている。不器用で生徒会の業務も会話も下手くそな僕に対してもいつもフレンドリーに接してくれる。進学した大学は別々であったが、互いのキャンパスが近く、共にJRの総武線を利用しており、今でも大学の終わりに定期的に飲んでいる。初めの内は、他の生徒会の面々もいたが、少しずつ疎遠になっていった結果、今は二人で飲むことが多い。先輩はなぜ僕なんかと今でも縁を保っているのだろうか。
人肌が恋しい、そういう感覚は良く分かる。こういう寒い季節は特に。最近は十月になっても気温が二十五度を超える日が多いが、十一月になってくるといよいよ季節は冬の様相を呈してくる。
僕が借りている古い六畳間のアパートは夜になると、吹き付ける強い風が窓の隙間に冷気とともに入り込んできてヒューヒューと音を立てる。そういう夜、僕は決まって分厚い毛布に頭まで包まって、僕を温めてくれる何か、誰かを心の内に欲している。三月の終わりに大学の入学に際して地元を出て、東京で一人暮らしを始めてからは、電気代が嵩むのが怖くて好きに冷暖房も付けられないし、実家で飼っていた黒猫もいない。孤独との同棲を早くやめたい。
居酒屋特有の酔った男女のうるさい話し声が頭の中で反響している。酔いが回り始めて少し頭が痛い。煙草の火が消えかけている。
「でね、さっきの続きなんだけど、私も身体目的って言っちゃえばそうなのかもしれないけどさ、ハグだけが良くてその先は嫌なの。普通の友達の関係にハグだけ付けたハッピーセット。ハグを三十秒するとストレスが三分の一軽減されるって心理学の講義で教授が言ってたの!」
「なんて贅沢な。知らない人は嫌だけど、人肌は恋しいからハグだけはしたいって、そんな我儘聞いてくれる人なんていないですよ。女友達とかじゃ駄目なんですか?」
「女の子じゃちょっと違うじゃん。まあ確かに我儘だなって自覚はあるんだけどさ。優也くんなら変な心配いらないし、地味に付き合い長いし、マジで私の条件全てに当てはまってることに気付いてしまった訳よ!」
「ごほっ、ぼ、僕ですか?」
喉を通り掛かっていたレモンサワーが気管に入ってむせてしまった。全く予想していなかった言葉に、思考も心拍も血流も、身体の全てが一瞬停止したような気がした。再び動き出したそれらは、アクセルを思い切り踏んだように急速にスピードを上げて、僕の中を暴れ始めた。
「大学の子で彼女いるとか、普通に嫌とかなら言ってね!」
「いや、嫌ではないですけど。逆に僕みたいなボンクラでいいんですか?」
「全然、むしろ優也くんくらい関係性が安定してないとしんどいし、適任だよー」
僕は平静を装おうとして煙草を口に付けたが、煙草の火は既に消えていた。
居酒屋を出た途端、冷たい風が僕たちを襲った。会長は「寒っ!」と言いながら手を擦っている。近くのコンビニで温かい飲み物を買って、僕たちは駅に向かった。新宿駅の東口駅前広場は、既に十時半を過ぎているが、まだまだ若い男女で賑わっていた。道端には煙草の吸殻や空箱と空き缶が散乱し、時折風に運ばれた空き缶がカタカタと音を立てて転がる。電車の走行音がガタガタと鳴る。巨大ビジョンには依然広告が映し出され眩しく光っている。
僕は、さっき西沢会長が言っていたことが頭から離れずにいた。お酒のノリでなんとなく言っただけで本気ではなかったのだろうか。一応聞くだけ聞いておこうと思い
「さっき話したやつは今日は大丈夫そうですか?」としどろもどろになりながら聞いてみると
「おお、私もタイミング見失ってたわ。じゃあハグするかー」と、じゃんけんをするくらいの簡単な口調でそう言い放ち、両手を広げた。
心臓がまた大きく拍を打つ、指や耳は凍ってしまそうなほど冷たいのに、身体の血が沸騰しているように熱くなっていて気持ちが悪い。急に周りに人がいることが気になり始めて、気恥ずかしさに渋っていると、会長は「はいはい駄々捏ねてないでするよ」というような素振り両手を広げて固まっている。この状態でいると、余計に目立ちそうだと思い、堪忍してハグに応じた。
途端、深海に突き落とされたように呼吸ができなくなった。周りの雑音が再生停止ボタンを押したように聞こえなくなり、ただ僕の鼓動の音のみが頭の中でドッドッと響いている。厚手のコートを着ているのに、体温が伝わってくるような気がする。会長の腕が僕の背中に触れている。会長の後頭部が視界の右端に映る。顔が見えないから何を考えているのか分からない。ただ静かに、何かを確かめるように僕の肩に顔を埋めている。僕は目を閉じて、この時間が終わるのを待った。思えば他人の体温に触れるのはいつぶりだろうか。人間は、一人では簡単に自分と世界との境界を見失ってしまうか弱い存在だ。だからこそ群れを作り社会を作ったのだ。僕たちは他人に観測されて初めてこの世界に留まっていられるのだ。だからきっと、僕と会長は今、自分がここに生きていることを確かめ合っているのだ。次第に鼓動が落ち着いてきて、僕はゆっくりと深呼吸をした。肺から吐き出した空気がいつもより温かい気がする。握った氷が手の中で解けていくように、西沢会長の体温が僕の心の内側にまで到達している。
「二十八、二十九、三十!」
会長は、ぽつりぽつりと数字を声に出し始めたかと思うと、三十を数え終わった瞬間に身体を引いて両手で挟むように僕の二の腕辺りを掴み、僕の顔を見て、
「どう? 良くない?ストレス三分の一減ったくない!?」
と、捕まえたカブトムシを大人に自慢気に見せる子どもみたいな誇らしそうな顔をして元気良く言った。僕はと言えば「もう三十秒経ってしまったのか」という感情が僕の頭を過ったことに、自分で驚いていた。確かに会長の言った通りだ。今なら、会長の我儘な欲望が理解できる気がする。
「じゃあ帰ろっか」
そう言うと、会長はテコテコと駅に向かって歩き出した。
西沢会長が乗る電車のホームまでついていき電車の到着を待った。会長は、到着した電車に乗り込むと「またねー」と手を小さく振った。やがて車掌のアナウンスと共にドアが締まり、会長を乗せた電車は小さくなっていった。
家に帰って、ベッドに入ると、普段は悲しみを呼ぶ隙間風の音も、なぜだかその日は風の鼻歌のように聞こえた。孤独は部屋の隅で息を殺して僕を見ている。
二
「いらっしゃいませー」
お客様の入店を知らせるベルに呼応するように、僕は抑揚のない声で言葉を吐き出した。小さな雑居ビルの一階、床も壁も真っ白で、いつ訪れても同じような景色がそこには広がっている。コンビニは不気味な場所だ。命の匂いがしない。険しい顔で急かすようにスマホのバーコード決済を差し出して足早に去っていくサラリーマンやイヤホンをした若い男。都会のコンビニは田舎よりも明らかに殺伐としている。高校時代に働いていた地元のコンビニでは、お客様に「今日は暑いね」とか「雨が降ってきたね」とか時折話しかけられた。常連さんの顔や買う商品なども自ずと覚えていた。しかし、東京のコンビニで働くようになってからというもの、そういったことは滅多になくなった。より機械的で触れ合いのない接客が望まれている。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」という言葉が、僕の中で挨拶からただの音に不可抗力のように変えられていく。コンビニバイトの最中は、給与を引き換えに身体を売り渡し、コンビニという機械を正常に駆動させる部品として、その役目を忠実にこなしている。
十八時を知らせる時報と共に、僕は同僚に無言で軽い会釈をして、コンビニを後にする。バイトを終えると、解き放たれた身体と心に滝行のように疲労が降り注ぐ。十八時になると日はすっかり落ちきっていて、二月の深い冬の寒さが肌を突き刺す。途中、勤務先とは別のコンビニで、温かい珈琲と夕飯の菓子パンを買った。バレンタイン近いので、至る所で赤いハートの装飾や値段の割に小さいチョコを見かける。そういう浮かれた雰囲気に触れる度に、肌を焼かれる思いがする。僕は何も考えないようにしながら足早で家へと向かった。
僕が借りているアパートは、新小岩駅から十二分ほど歩いた所にある。錆びた階段を上がって、廊下を過ぎ、玄関を開けると、薄闇が僕を出迎える。外で活動をするのは、気が休まらないし疲れるから嫌いだ。だが家にいるのも嫌いだ。むしろ最近は、家にいる方が辛い。ドアを閉めて、冷えたサムターンを摘み、九十度捻ると、カチッという音と共に施錠される。誰もいない空間に響き渡る施錠音を聞く度に、僕は世界と切り離されたような気持ちになる。靴を脱いで部屋に上がると、床の冷たさが靴下を貫通して僕を冷やす。僕は短い廊下を過ぎて、そのままベッドに倒れ込んだ。床やテーブルの上には酒の空き缶や煙草の吸殻が散乱して、約一年前の期待に満ち溢れた新生活の彩りはどこにも見当たらない。雑貨店で買った名前の知らない観葉植物の緑は、以前の生命力は見る影もなく茶色く濁っている。全てがくすんだ空間の中に孤独が充満して、僕を優しく抱いている。鍵を締め切って外界との関わりを遮断したこの狭い六畳間は、世界にとっては中身の見えない大きな箱と同じだ。僕がこの箱の中で生きていようが、死んでいようが、世界がそれを知ることはないし、世界に影響を与えることもない。そんなことを考えている内に、溜まった疲労がだんだん身体中に染み渡ってきて、コートを脱ぐことも忘れたまま僕は眠りに落ちた。
ふと、何かを思い出したように目が覚めた。横たわったまま手をばたつかせてスマホを探り、時刻を確認すると、スマホの画面から放たれた眩い光が眼球をチクリと刺した。時計は深夜の一時半を示していた。僕は重たい身体をベッドから起こし、飲みかけの冷めた珈琲と煙草を持って幅一メートルほどの狭いベランダに出た。
風は落ち着き、しんとした冷気が肌をなぞる。この時間になると、駅から離れたこの場所は既に静まり返っていて、電車の走行音ももう聞こえない。遠くのどこかで車が走る音が空に響いている。月明かりに照らされたベランダには、柵の影が縦縞模様に落ちている。煙草を一本取り出して口に咥え、室外機の上に置いてあるライターを手にとって、左手で優しくライターを囲って煙草に火を灯した。シュワッという小さな燃焼音と共に、甘く芳醇な香りが口の中いっぱいに広がる。息を大きく吸い込むと冷たい空気と温かい煙が肺に満たされる。煙を吐き出すと鼻腔にも香りが行き渡る。煙草の煙が僕の身体を汚してくれるのが心地良かった。
僕はベランダの柵に寄りかかって、コートのポケットからスマホを取り出し、通知マークのないメッセージアプリのアイコンをタップして、漫然と誰からも連絡の来ていないトーク画面を眺めた。思えば最後に人と会って話をしたのはいつだろうか。大学で唯一の知り合いである蓮と一月の終わりに大学で話したのが最後だったような気がする。年が明けてからは、西沢会長と正月休みに飲んだ時と、蓮と話した時くらいだろうか。約二ヶ月間で僕がまともに会話をできたのはこの二人だけだ。コンビニバイトでのやり取りをコミュニケーションと言うのなら昨日だが、僕にはとてもそうは思えない。いや、僕がコンビニという場所に勝手な定義付けをしてコミュニケーションを避けているだけで、本当はそこにも人との繋がりは落ちているかもしれない。一人は好きだ。好きだけれど、一人は寂しい。でも僕はどうやって人と関われば良いのか分からない。人と関わるのが怖い、僕は弱いから、寂しいから、すぐに他人に依存してしまうから。彼や彼女にとって僕は数ある友人の一人に過ぎなくても、僕にとっては、こんな僕と関わりを持ってくれるかけがえのない人だから。失うのが怖くて、傷付きたくなくて、心の扉を締め切って自分が傷付かないようにしている。そして僕は孤独を嘆く。コミュニケーションは、相手の温度に触れることで、人は小さい時から他人と触れ合って、時に火傷をしながら、徐々に大人として成熟していくのだ。幼い僕は賢かった。火傷をしないために、人に心を開くことを片っ端から拒絶してきた。おかげで僕の肌は綺麗なままだ。しかし、僕は愚かだから、その先にある無限の孤独と劣等感を知らなかった。
じわりと心の隙間から孤独がはみ出してくる。
誰か、誰でもいいから誰かと話したい。僕はアプリのトーク画面を当てもなくスクロールした。蓮はこの時間になると寝てしまって朝になるまで滅多に返事が来ない。西沢会長ならまだ起きているだろうか。僕は西沢会長のトークルームを開いた。何度か書いては消してを繰り返した後、『起きてますか?』と一言だけ打ってメッセージを送信した。消えかけていた煙草を室外機の上に置いてある灰皿に捨てて、新しい煙草を箱から一本取り出して口に咥えた所で早くも返事が返ってきた。『起きてるよー』再びスマホの画面に目を落とし『春休みですし、今度飲みに行きませんか?』と返信してから、咥えたままの煙草に火を灯して、空をぼんやりと眺めながら返事を待った。間もなくして返ってきたメッセージを見た時、僕の中でカチッという音が響くのを聞いた。『ごめん!彼氏できた 彼氏が嫌がるから2人は厳しい!』いつの間にか吹き始めた風が僕の顔に吹き付けて、僕は目を細めた。松葉杖を突然蹴飛ばされたみたいに、僕の心は安定感を失って倒れ込み、そのまま奈落の底まで落ちていく。『分かりました!』そう短く返事をして、そのまま西沢会長をブロックした。息を吹き返した孤独が、奈落の底で僕を優しく迎え入れた。繋がりを断ったのは紛れもなく僕の選択だと、頭では分かっていながらも、「世界に拒絶された」という思いが心の内に湧き上がる。ああ、また置いていかれてしまった。また一人になってしまった。胸の真ん中で黒い靄が渦巻いて、息ができなくなりそうだ。西沢会長は悪いことは何もしていないのに、憎悪のような感情が果てしなく湧き上がる。僕はどこまでも独りよがりで愚かだ。世界が僕を拒絶している。違う、拒絶しているのは僕だ。感情と思考が入り混じって、孤独が頭を占拠したと思えば、その責任を世界に押し付けて、また次の瞬間には自業自得だと僕が僕に指摘をしてくる。身体の中で思考と感情の銃撃戦が始まって、巻き上がる粉塵の中で前が見えなくなる。何も分からないけれど、身体が蝕まれていくことだけは確かで、胸の中で渦巻いていた黒い靄が頭頂部から爪先まで行き渡る。脳から狂ったように救難信号が発されて、それを身体が外部に示すために、勝手に視界が滲んでいく。呼吸が短く早くなって、気を抜いたらすぐに過呼吸になって嗚咽してしまいそうなのを、歯を食いしばって、歯と歯の隙間から必死に酸素を肺に取り入れて凌いでいる。立っているのも苦しくなって来て、ベランダの柵に両手を掛けたままその場にしゃがみ込んだ。次第に涙を堪えるのもままならなくなってきて、ポタポタとベランダに大粒の涙が落ちる。僕は一体何度こんなことを繰り返すのだろう。人との繋がりを断っては泣いて、断っては泣いて。一人では生きられない、孤独には耐えられない。そんなことはずっと前から分かり切っているのに、いつだって僕は自らの手で孤独を選び取ってきたのだ。不幸は安寧だ。絶対に幸せを諦めてはいけないはずなのに、これ以上何かに傷付くのが怖くて、何度も自ら不幸を選んだ。みっともなく足掻いて幸せを目指すより、不幸を受け入れる方が簡単で心地が良い。僕は馬鹿だ。僕は愚かだ。僕は可哀想だ。僕は可哀想だ。僕は可哀想だ。消えたい。消えてしまいた。早く限界を迎えて、真っ白な世界に行きたい。痛みのない、不安のない、幸せのない、不幸のない、ただ白く凪いだ世界へ。「死にたい」また口から溢れた。
次第に涙は落ちきって、凍えた身体を再び疲れと眠気が襲った。僕は重たい身体を引きずるようにして部屋に戻り、無心で部屋着に着替え、買ってきた菓子パンを無理やり胃に押し込んだ。毛布の中で小さく縮こまって、祈るように、固く目を閉じた。
三
苦しくとも、泣こうとも、必ず朝はやってきて、僕は生きていかなければならない。翌朝十一時に目が覚めると身体や頭は何事もなかったかのように落ち着いていて、昨日の自分との連続性が感じられずどこか気味が悪い。蓮に「飲みに行こう」という旨のメッセージを送ってみると、すぐに返事が返ってきて、今日の午後十時から会うことになった。蓮は新宿の居酒屋でバイトをしているらしく、場所を新宿駅に指定された時は、一瞬行くことを躊躇ったが、余計な迷惑は掛けたくないので僕は大人しく新宿駅へ向かうことにした。
「で、結局お前はその先輩のことが好きだったの?」
「いや、そういう訳ではないんだけど」
「じゃあなんで、そんなさっきから落ち込んでんだよ」
「そもそも、好きかどうかは一旦置いておいたとしても、それだけのことでブロックして縁切るのは勿体ないだろ」
彼は正しいことを言っている。僕には返す言葉もなかった。
「あれか? リセット癖って奴?ちょっとしたことですぐ人間関係切っちゃうみたいな」
聞き慣れない言葉だが、確かに的を射ているような気がする。「そんな感じかもね」そう僕は、自嘲的な笑みを顔に浮かべながら相槌をした。僕の悩みなど、身長も高くて顔も整っている蓮には分かるまい、と心のどこかで思っているが、意外にも蓮は僕自身も気付いていない僕を、鋭い言葉でポンポンと指摘してくる。指摘こそすれど、その言葉に悪意はなく、そういう蓮の嫌味のない性格が少し羨ましいし、助けられている。
「人生とか人付き合いってのは色々あるんだからさ、もっと不味いもんも食べた方が良いと思うけどな。ほら清濁併せ呑んで、とか酸いも甘いも噛み分けてとかって良く言うだろ」
「んーまあ蓮の言う通りだとは思うし、自分でも潔癖を求めすぎる所があるのは多少自覚してるけどさ、そう思い通りにもいかないものだよね」
傷のない柔すぎる僕の肌は、少しでも汚れを感じとると、すぐに拒否反応を示してしまう。そうなった原因はもちろん僕にある。荷物入れに押し込んだコートのポケットを弄って煙草とライターを取り出し、火を灯した。
「お前煙草吸うんだ。大人だねー」蓮は薄っすらと笑いを浮かべながら言う。
「違うよ。子どもだから吸うんだよ。子どもだから吸わなくちゃいけないの」
清濁の「濁」の部分、酸いと甘いの「酸い」の部分、そういう所を受け入れる強さがないから、煙草と酒にそれらを委ねている。そうしていないと蓮にも敬語を使ってしまいそうだ。
「まあ良く分かんねえけど、辛いことがあった時は酒飲んで忘れんのが一番だわ。せっかく飲み放題なんだからジャンジャン飲んで全部忘れちまえ」と言いながら、蓮は勢いよくビールを飲み干した。「すみませーん!」と大きい声で店員さんを呼ぶと、「日本酒二つ、熱燗で!」と注文した。
「二つって?僕の分も頼んだ?」
「サワーなんて弱い酒飲んでても仕方ねえから強めの酒飲んでとっとと酔っ払っちまえ。あ、もしかして日本酒嫌いだった?」
「嫌いではないけどさ、……まあいいか」
気にするべきは僕が日本酒が嫌いか否かではないし、やっていることが完全にアルコールハラスメントな気がするが、全てを忘れてしまいたい気持ちはあったので文句は胸の内に仕舞って、それ以上は何も言わなかった。忘れられるなら、全てを忘れてしまいたいくらいだ。
「お前大丈夫か?」
そう言いながら、膝に手をつき地面とにらめっこしている僕に、いつの間にか買ってきたペットボトルの天然水を手渡した。僕は「お前のせいでこうなったんだろ」という恨み言を吐く余裕もなく、手渡しされた水を一心不乱に飲んだ。世界が歪んで見えるし、裸足で砂山を歩いているみたいに地面が不安定だ。週末の夜に道端や駅で倒れ込んでいる人や吐いている人を見かける度に「自分はああはなるまい」と思っていたが、よもや自分がこうなる日が来るとは思ってもみなかった。蓮も僕と同じかそれ以上に酒を飲んでいたはずなのに、なぜ何事もなさそうに振る舞えるのかがまるで理解できない。居酒屋を出てから途中何度か立ち止まりながら、なんとか新宿駅の入口まで辿り着いたが、今電車に乗れば確実に吐いてしまうと思い、かれこれ二十分くらい駅の前に留まっている。蓮に僕の介抱をさせ続けるのが申し訳なくなってきた。
「蓮、そろそろ帰っていいよ。僕はもう少し休んだら帰るから」
「いや全然大丈夫、お前ヤバそうだし」
それから何度か同じ問答を繰り返した後、蓮は「じゃあ俺明日もバイトだし帰らせてもらうけど、お前マジで色々無理すんなよ。じゃあ」と言い残して駅の中に消えていった。
僕はとりあえず近くの階段に腰掛けて、酔いが覚めるのを待った。話し相手がいなくなると、世界は途端に静かになる。寂しさがちらりと脳内を掠める。アルコールでもこの感情を忘れることはできないらしい。
駅を行き交う人々をしばらく眺めた後、酒が入って火照った身体にも冬の寒さが浸透し始めた頃、僕は寒さに耐えかねて家に帰るべく立ち上がった。最後に酒を口につけてから時間が経っているため、流石に地面がひっくり返るような感覚は抜けてきたが、それでもまだ真っ直ぐに歩くのは難しい。駅に向かって歩みを進めたが、ふと自分の家、暗闇に包まれた寂しい部屋の景色が脳裏に浮かび、僕は足を止めた。世界と断絶されたあの暗く狭い部屋に呑み込まれるのが怖い。僕は、まだ少しだけ世界と繋がった気になっていたくて、回れ右をして夜の街へと溶け込んだ。
時刻は既に十一時を過ぎており、飲み直す元気もなかった僕は、よろめく身体を引きずって近くにあったカラオケへ行き、朝五時までの深夜フリータイムで夜を明かすことにした。案内されたのは三畳程の狭い部屋で、効き過ぎた暖房からはなんだかカビたような臭いがする。凍えて小さくなっていた身体が温められ、急激に血液の巡りが速くなってアルコールが再び身体を支配する。頭の中で何かが弾けたようにガンガンと音が鳴り響いて頭がおかしくなりそうだ。折角カラオケに来たのだから、なにかしら歌いたいと思っていたが、次第に身体を起こしているのもままならなくなってきてスニーカーを投げ出しソファの上で横になっていると、程なくして瞼が重くなり僕の意識は張り詰めた糸をプツンと断ち切ったように途切れた。
プルルルルルルルルルルルル、プルルルルルルルルルルルル、プルルルルルルルルルルルル
カラオケルームに備え付けのインターホンの呼び出し音で目が覚めた。意識は朦朧としたままだが、とりあえず受話器を取ろうと身体を起こし始めた時、僕の頭の中で昨晩とは違う額の内側の脳を握り潰したような痛みが発生していることに気付いた。それに胃から腸にかけて、痛みが広がっていて吐き気がする。典型的な二日酔いだ。僕は一旦全てを押し殺し、受話器へ手を伸ばす。受話器を耳へ当ててみると、それは退出十分前、すなわち四時五十分を知らせるコールだった。生返事をして受話器を元へ戻すと、抑圧されていた頭痛や胃痛、腹痛が解放されたように全身をダンスした。五時間以上も眠っていた計算になるが、身体の疲れは全く取れず、むしろ二日酔いのせいで昨晩よりも体調が悪くなっている。とにかく数分後にはここを出ていなければならないので、頬を叩き、両手を組んで頭上に上げて伸びをした。散らばった荷物をショルダーバッグにしまい込み席を立った。伝票を手にとって、受付に向かおうとドアノブに手をかけたところで、胃の中から何かが押し上がって喉元まで迫ってきている。ピタッと静止して身体の全神経を喉元へ集中させ、どうにか喉元まできたそれを胃へ押し返す。僕は左手でお腹をさすりながら、ゆっくりと右手に掴んでいたドアノブを捻り廊下に出ると、できるだけ身体が揺れないように短い歩幅で歩きながら、トイレへ向かった。トイレのドアを開けると幸い誰も入っておらず、僕はもたれ込むように個室へ入った。残った理性を振り絞り、ショルダーバッグをドアの荷物掛けに掛け、便器に両手をついて顔を近づける。胃に押し込めていたそれが勢いよく喉を通り口を通り抜け体外へ排出されていく。トイレの床が汚いことが気になって膝をつかないようにしていたが、そんなことを気にする余裕もなくなり僕はトイレにひれ伏すような体勢で嘔吐した。胃から勢いよく飛び出した吐瀉物は鼻にまで入り込み、鼻先から鼻水と胃液のようなもの混ざった液体が糸を引いて垂れ下がる。口の中には途中で支えた食材の断片が散らばる。吐瀉物特有の酸っぱい異臭とトイレの汚れた臭いが口内と鼻腔全体に広がる。最悪な気分だ。胃が空になるまで、空嘔吐を何度も繰り返した。目から涙が零れ落ちて吐瀉物に染まった便器の水面をピチャリと揺らす。空嘔吐が止んでも涙が止まらなかった。
トイレの床に触れたコートの膝は汚れ、襟には水に跳ねた吐瀉物の後が何ヶ所か見える。トイレの洗面台で顔を洗い鼻や口を濯ぎ、濡らしたペーパータオルで衣服の汚れを拭き取った。一通り洗い終えてトイレを後にしても、落としきれない吐瀉物の臭いが僕に纏わり付いて離れなかった。僕は壁に手を付きながら受付に向かった。
それはとても静かな夜だった。「静か」とは言っても、新宿の朝五時は僕のようにカラオケから放り出された若者や道を行き交う人々、店の明かりで賑わっており、音や光の多さは流石眠らない街といった具合で、まるで朝五時の光景には見えない。しかし首を後ろに倒し、ビルに囲まれて狭くなった夜明け前の真っ暗な空に心を澄ましてみると、星の輝きはあれど、雲がない、風がない、音がない。不気味な程に澄んでいる。うるさくしているのは、地上で人間が生み出した音や光だけで、そこからさらに高い空や宇宙には異様なまでの静寂が満ちていて生気が感じられない。僕はなんだか恐ろしくなって視線を戻した。やはり先ほどと変わらない、行き交う人々に店の明かりで賑わっている。僕は空に意識を向けないようにしながら駅へ歩いた。寒い、頭が痛い、胃が痛い、身体が重い、口や鼻の吐瀉物の残り香が消えない。大量の不具合が歩みを進めるたびに身体に響く。僕はこんなところで何をしているのだろうか。一歩、二歩、足を進めるごとに身体が深く沈んでいき、次第に僕は歩くことをやめその場に蹲ってしまった。僕の人生はこんなはずではなかった。今だって、僕の隣には二日酔いで壊れた身体を笑い飛ばすなり慰めるなりしてくれる友人がいるはずだったのだ。新宿駅に辿り着くことすらできずに路上に一人で蹲るはずではなかったのだ。いや、それらは全て僕の責任だから、被害者面をする話ではない。きっと今は体調不良がメンタルにも支障をきたしているだけだ。家に帰って、シャワーを浴びて、服を洗濯して、ぐっすり眠ればきっと全て良くなる。確か今日はバイトが十二時からだから、七時頃に家に着いたとしても四時間は眠れるはずだ。僕は頬を叩いて立ち上がった。
足早で新宿駅へと向かい、十三番線ホームの端で自販機の背中に寄り添うように体重を預けながら電車を待った。駅前は人の声に満ちていたが、ホーム上はやけに静かで、草臥れたサラリーマンや遊び疲れたような若者が暗い顔で電車を待っている。真っ暗だった空も気付けば徐々に白み始めて、普段は鉄の錆びた赤茶色の線路は、薄暗い夜明け前の青に包まれている。普段は人が全く立ち入らないその空間は、薄暗さと青みが重なって神社のような神聖さを漂わせており、まるで三途の川のようだった。今向こうへ渡りきれば、きっと僕は彼岸へ行けることだろう。そんなことを考えていると、いつか発した呪いのような四文字が息を吹き返した。考え過ぎは毒だ。僕は疲れた身体を休めるべく、腕を組み、自販機に全体重を預けて目を閉じた。
僕は眠れば大丈夫になれるだろうか。不安は募るばかりだけれど、僕は大丈夫だろうか。
目を閉じても、不安の言葉が脳内を舞う。
いや、僕はきっと大丈夫だ。友達は少なかったし、時たま後ろ指をさされて笑われることもあったけれど、高校は無事卒業できた。楽しくはないけれど、大学生活も今のところはなんとか乗り切れている。友達は少ないし彼女はいないけれど、きっと僕だって親友と呼べる人や人生を共にしてくれる素敵な人と出会えるに違いない。
でも僕は今までずっと一人だった。自分で一人を選び取ってきた軟弱者だ。
いや、それは過去の話で、人と出会うにも運とか相性があるから、仕方のないこともあるはずだ。
一人の人間として扱ってくれて、何度も遊びに誘ってくれて、体温も分けくれた人まで僕の前から居なくなった。
それは、……それは仕方のないことだったよ。
「仕方ない」「仕方ない」って僕はいつもそればかりだ。全て僕の責任だって分かっているのに。振り返れば小学、中学、高校という最も人と関わるのが簡単な時期に十二年以上も学校に通い続けて、まともに人と関わることも友達を作ることもできなかった僕に、今さら人の和の中で築く明るい未来なんてあり得ないことくらい分かっている。
そんなこと、……ない。
違う。僕は本当は分かっているんだ。一人では生きられないことは孤独に打ちのめされて実感した。けれど僕は人と上手に関わることもできなかった。こんな人生に僕はどう折り合いを付ければ良いのか、今でも分からない。孤独に勝てない僕が孤独を受け入れること、それはすなわち緩やかな破滅だ。ああ、全て、全てを辞めてしまいたい。数時間後にはコンビニのレジに立ち、数週間後にはまた大学が始まる。大学を卒業したら、いやできたなら、きっと僕は社会に抗う術もなく、同じ様に延々と繰り返される日々の中で不出来な歯車として機械の一部にならなくてはいけないのだ。
僕の心の天秤がどろどろと悪い方に傾いていく。不幸が幸福に勝る。幸福の器は空っぽなのに、不幸の器には暗い感情や辛い現実、不安がどっさりと積まれている。幼い頃から人と関わることを避け、成長が止まった僕の精神は、目まぐるしく成長していく同世代の男女や変わりゆく世界に置いていかれている。変化に耐えられない。この世は無常と知りながら、不変に祈りを捧げ、今日も刻一刻と変化していく全てに置いていかれる。
僕は人生が下手くそだ。
頭上のスピーカーが鳴った。『間もなく、十三番線に……』顔を左へ向けると、遠くの方から僕を乗せる電車が駅に向かってきているのが見えた。僕はだんだんと大きくなる電車を見ながら、身体を自販機から起こし前へと歩き始めた。『……危ないですから、黄色い点字ブロックまでお下がり下さい。』点字ブロック、点字ブロック。目が見えない人は足の裏のこの感覚を頼りに街を歩くのか。足の裏に伝わるゴツゴツとした感触を思う。いつの間にか電車がもうそこまで来てる、意外とホームへの進入速度って速いんだな。あれ、地面がない。右足を踏み出した途端、ホームがなくなったように足がどこかへ落ちていく。電車はもう二十メートルもないくらいのところまで接近している。右足と一緒に右半身が落下を始めた。転ぶのが怖くなって身体をバタつかせたが、僕は身体が倒れ込むのを止められなかった。何かがおかしいと思ったが、気付いた時にはもう遅く、電車が目の前にあった。ああ、そうか、これは僕の無意識が選択したことなのか、だから認識が遅れてしまったのだ。これで僕はもう大学にもバイトにも行く必要がなくなるし、夜に一人で泣くこともない。そう思うととても幸せな気持ちになった。ただ少し残念なのは、人に見られたくないものを捨てたり、遺書を書いたりできなかったことだ。笑えるくらい僕は人生が下手くそだ。下手くそだった。
四
『優也あの後大丈夫だった?てか観たい映画あるから来週辺りに観に行かね?どうせ暇でしょ笑』
『久しぶり!まだ彼氏が2人は駄目って言うんだけどさ、複数人だったら男の子がいても良いって言ってくれたから、久しぶりに生徒会の石田くんとか西宮さんも誘ってご飯食べ行こ!!』
彼に向けて放たれた言葉は、放たれたきり目的地を絶たれたまま電子の海を彷徨うばかり、温かい繋がりの言葉が彼のスマートフォンを鳴らすことは、もう無い。
もし読んでいただけたのなら、どんな内容でも構いませんので、何か感想を書いていただけると幸甚に存じます。




