煤の福音
バッドエンドの話を書いてみたかったので書いてみました。
世界から極彩色の輝きが失われて久しい。
かつて空にあったはずの太陽は、幾層にも重なり合った鈍色の煤に遮られ、今や地上の住人たちにとっては、色褪せた古い絵画の中にのみ存在する寓話に過ぎなかった。街を飲み込んだ「黒い霧」は、呼吸をするたびに肺の奥を焼き、人々の記憶から「青」という色の概念を、鑢で削り取るように消し去っていった。
騎士エズラは、重く湿った沈黙の中を歩んでいた。
彼が纏っているのは、かつての栄光を物語る白銀の鎧ではない。霧の深部、神に見捨てられた王城へと辿り着くために、彼は自らの人としての生を教会の祭壇に捧げた。禁忌とされる「灰化」の儀式。その代償として、エズラの血管を流れるのは赤い血ではなく、どろりと重い煤の澱みだ。
一歩踏み出すたびに、石炭のように硬質化した皮膚が軋み、その亀裂からは鈍い橙色の燐光が漏れ出す。喉の奥からは常に乾いた砂が溢れ、無理に言葉を発そうとすれば、壊れた鉄の歯車が噛み合うような、不快な音が周囲の静寂を乱した。
それでも、彼を突き動かしていたのは、教会の聖典に記された唯一の救い――「予言」という名の呪縛だった。
『灰を纏いし騎士、最果ての玉座にて、聖女の唇に最後の一息を捧げん。さすれば空は掃き清められ、永遠の平穏が訪れる』
エズラは、崩れ落ちた王都の廃墟を進む。かつて市場の活気に溢れていた大通りには、霧に耐えきれず灰となって立ち往生した人々の成れの果てが、無数の彫像のように並んでいる。風が吹けば、母親を求めて手を伸ばしたままの子供の腕が脆く崩れ、灰色の粉塵となって虚空へと霧散していった。エズラはその情景に何の感慨も抱かない。抱くための感情さえ、すでに煤の熱で焼き尽くされていた。
王城の最上階。神聖なる浄化室の扉は、外界の喧騒を拒むようにして聳え立っていた。
扉を押し開けた先、その場所だけが異様なほどに静まり返っていた。そこには、数百年もの間、世界の毒をその身一つに吸着し続けてきた「器」が横たわっている。
王女であり、この国の「聖女」として祀り上げられた娘。
彼女は、この救いようのない灰色に沈んだ世界において、唯一の「白」として存在していた。
寝室の中央に配された寝台。横たわる彼女の肌は、透き通るように白く、皮下を走る血管の一筋さえ見えない。それは生命の清らかさゆえではなく、内側に蓄積された煤の圧力が、彼女から「赤」をすべて追い出した結果だった。彼女は呼吸をしていない。膨大な呪いを封じ込めるための、生ける真空容器。それが彼女の真実の姿だった。
エズラは、ひび割れた指先を彼女の頬に伸ばした。
指先が触れた箇所が、自身の肉体が放つ異常な熱によって、ジリリと黒く焦げる。彼は、自分の存在がいかにこの清浄を汚しているかを自覚し、胸の奥で煤が鳴くのを聞いた。だが、この汚れきった自分が、彼女に「最後の一息」を捧げることこそが、予言の成就であり、世界の再誕なのだと、彼は自身に言い聞かせた。
「……ようやく、約束の時だ」
エズラは、道中の死地で、肺という名の炉に詰め込んできた濃縮された霧を意識の底で練り上げた。それは彼の命の残滓であり、同時に彼という存在を支える最後の一片でもあった。
彼はゆっくりと顔を近づけ、彼女の冷徹な、石膏のような唇に、自身の口を重ねた。
重なり合った唇の隙間から、黒い澱みが、音もなく彼女の喉奥へと流れ込んでいく。
その瞬間、王女の身体が、まるで強烈な電流を浴びたかのように大きく跳ねた。
閉ざされていた彼女の目が、カッと見開かれる。だが、そこに聖女としての慈愛も、王女としての意志も宿ってはいなかった。あったのは、限界まで詰め込まれた呪いが臨界点を超え、肉体が一個の装置として悲鳴を上げている絶望的な覚醒だった。
彼女の胸腔が、生物の限界を超えて歪に膨れ上がる。
エズラは、彼女の瞳に映る己の異形を見つめながら、理解した。彼女は救世主などではなかった。この城も、彼女という血統も、すべては霧を一時的に留めておくための、巨大な排気弁の部品に過ぎなかったのだ。エズラの接吻は、愛の証明などではなく、パンパンに膨れ上がった毒の袋を、内側から引き裂く最後の一刺しとなった。
聖女の肉体が、内側から激しく弾けた。
そこから溢れ出したのは、浄化の光などではない。これまでの霧とは比較にならないほど重く、光さえも吸着して地に沈める、粘りつくような「原初の黒」だった。
「あ、が……っ、あああああああ!」
噴出した黒い奔流は、至近距離にいたエズラを飲み込んだ。
この黒は空へと舞い上がることはなかった。それはあまりにも質量が大きく、磁石が砂鉄を引き寄せるように、大気中に漂うあらゆる煤、塵、湿気、そして光の欠片さえも道連れにして、地表へと猛烈な勢いで沈殿していった。
霧はエズラの毛穴から、ひび割れた皮膚の隙間から、飢えた寄生虫のように体内へと滑り込んでいく。すでに灰化していた彼の肉体は、その高純度の呪いを媒介として、瞬く間に「完成」へと向かった。
骨は鉛のように重くなり、肌は冷たく黒い石炭へと変質していく。脳を直接焼かれるような激痛が走り、視神経は一度、完全な暗黒に塗りつぶされた。
そして、変容は城という檻を越え、怒涛の勢いで世界へと伝播していった。
王女という源泉から解き放たれた黒い泥は、波となって街を、森を、海を飲み込んでいった。
その黒が通り過ぎた後には、何も残らない。大気を濁らせていたすべての不純物は、原初の黒に絡め取られて地表へと叩きつけられ、鏡のように滑らかで硬質な「死の地殻」へと塗り固められていった。
逃げ惑う人々は、叫び声を上げる暇もなく、その地殻の一部へと取り込まれた。彼らの肉体は、走り出した姿勢のまま黒い結晶の中に封じ込められ、その胸の奥に、エズラと同じ不気味な橙色の燐光を宿していく。
空を飛んでいた鳥は、突如として消失した浮力に戸惑う間もなく墜落し、川はもはや流れることをやめ、重い墨のような液体となって沈黙した。大気からは塵ひとつ、水滴ひとつが失われ、光を屈折させるものさえ存在しなくなった。
やがて、聖女という名の器が完全に枯れ果てたとき。
空には、恐ろしいほどの透明度を持った、深淵のような藍色が広がっていた。
それは、エズラがかつて夢に見た青空とは似て非なるものだった。
空気そのものが死に絶え、光を乱反射させる媒体を失った世界。そこにあるのは、底の知れない宇宙の深淵をそのまま覗き込んでいるかのような、冷徹なまでの蒼穹。
地上に広がるのは、あらゆる生命の残骸を黒く塗りつぶし、均一に固定した沈黙の墓標だ。
永遠の平穏とは、世界の呼吸を止め、すべてを地に沈めて固定し、物語を永劫に停止させることだったのだ。
エズラは、今はもう形を留めぬ煤の塊となった聖女の亡骸の横で、膝を折った。
彼だけが、人間としての意識を呪わしく残したまま、この死に絶えた景色の唯一の観客として取り残された。
空を仰いでも、まぶたを閉じても、そこにあるのは光の温もりを一切失った、虚無の藍色と、足元に広がる黒い静寂だけだ。
彼は、音の出ない喉で、笑おうとした。
せめてこの美しい喜劇の結末に、相応しい手向けの花を。
だが、彼の煤けた唇からこぼれたのは、かすかな灰の塵と、救いのない喘鳴だけだった。
世界は救われた。
大気は掃き清められ、もう誰も苦しむことはない。
ただ、この永遠に続く沈黙の中で、エズラという名の怪物が、消えることのない赤黒い心臓の熱に焼かれながら、二度と生命の芽吹くことのない真空の蒼穹を見上げ続けるだけだった。
よかったら反応もらえると次回の創作意欲がたぎるかもしれません。




