遠い春のこと
物語は比較的ゆっくりと進みます。
優しいお話を書けたら、と思っています。
高校三年生の僕は、家業の商店を継ぐことに抵抗がある。主に父の作った和雑貨や仕入れてきた菓子を扱う店だ。このまま高校を卒業したら、僕自身の将来の夢など、お構いなしに迫る決められた退屈な未来。息苦しくて、生きづらいとしか思えずにいる。周りに話そうにも、僕にはそこまで親しい友人がいない。だからといって、直接、厳しい両親に話すと、勘当されてしまいかねない。情けないが、そこまでして夢を追う勇気もない。
僕の心の拠り所はもっぱら、後輩である石川くんだ。彼はきれいな人だった。その顔立ちを引き立てる色白の肌に漆黒の髪と瞳。それだけでなく、どこか物悲しい雰囲気を纏っていて、ひとたび見つめられると、気になって仕方がなくなる。それは僕だけではないはずだ。
だけど僕は、彼には思いの丈を話すことができた。石川くんも、卒業後には家業を手伝うことになっていると聞いたから、僕の気持ちもわかってくれる。それが純粋に、嬉しい。
「ああ、何もかもやめてしまえたらなあ……」
木製のバス停は、昨晩の雨で少し湿っている。苔むすベンチに腰掛け、呟く。不快とまではいかずとも、制服のズボンがしっとりと濡れていくのが少し気になる。鞄が濡れるのが嫌なので、それは膝の上に置いておく。
やめてしまいたいのは、家業を継ぐこと。「何もかも」とは言ったが、もちろんそんな勇気も気力もない。しばらく応答がなかった。石川くんが話を聞いてくれるときは、大抵、すぐに返事をくれるから、僕はそれを期待していた。
隣に座る石川くんに目を向ければ、黒い詰襟制服の金釦を細長い指先でいじっていることがわかる。聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか。僕にはわからなかったが、もう一度さっきの台詞を言う気にはなれずに、僕も黙る。
「じゃあ、やめたらいいじゃないですか」
そんな言葉が聞こえたのは、少し経ってからのことだ。すぐに、さっきの呟きに対する返事だと気づく。石川くんとは目は合わない。彼は俯いている。やめたらいいじゃないですか、だなんてよく言えたものだ。同じ立場の石川くんならわかってくれると思い込んでいた僕は、豆鉄砲を喰らったかのような表情になってしまう。
「そんな簡単にやめることができたら、苦労はしないよ」
意外な石川くんの反応に、つい苦笑いを浮かべる。すると「本当は、やめたくなんかないんじゃないですか?」と石川くんは足元に視線を投げたままで続ける。何だか心の中を見透かされているような気がして、眉間に皺を寄せる。
「石川くんは、僕が嘘を吐いていると思うの?」
少し強い口調になった僕を、今度はまっすぐ見据え、石川くんは言う。
「茶堂先輩は、もう少し自分が恵まれていることに気づいてください」
ずきっと、胸が痛む。他の人からならまだしも、信頼している石川くんにそんな風に言われてしまうとは思ってもみなかった。彼なら気持ちをわかってくれると、そう信じ込んでいた。勝手に裏切られたような気分になって、再び口を閉ざす。石川くんも、何も言わない。
沈黙の中、バスが来て、僕はやっと石川くんに声をかけた。
「今日は乗るの?」
石川くんは、よく僕と一緒にバスを待つが、そのバスに乗るのは一週間に一度あるかないかだ。歩くのが好きだからとか、祖母の家に寄ってから帰らなくてはいけないとか、そういう理由があるみたいで、なかなか最後まで一緒に帰ることはない。
石川くんが、首を横に振る。いつもの石川くんだったら、ここでバスに乗らない理由を教えてくれるのに、今日は違った。ああ、今日は乗らないのか。そう思いながらも、内心ほっとする。臆病者の僕は、いつもと違う石川くんが少しだけ怖かったのだ。
「そう……じゃあ、また」
僕は片手を挙げてから、バスに乗り込んだ。椅子に腰かけ、バスが発車したとき、不意に石川くんがどうしているのか気になって、窓からバス停を見やる。いまだにベンチに座っている石川くんが目を擦っているように見えたのは気のせいだろうか……?