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「なっ!?」
間一髪で反射神経を利かせて、衛兵の攻撃を寸でのところで回避した彼女は、次に迫ってきたパン屋の店主の麺棒攻撃も機敏な動きで躱した。
…とても貴族の娘とは思えないほど軽快なバックステップを決めて、パン屋の店主と衛兵から距離を取った。
そしてラディカは、動揺しながらも、目の前の男たちに向かって言おうとした。
「何をしますの!?私はフラン家の長女、ラディカ・ソロリス・セァヴデオ…」
「「知るか!」」
しかし、彼女の口上は遮られた。
実際、彼女は口上なんかしている場合ではなかった。パン屋の店主と衛兵は、もうすぐそばまで襲い掛かってきていた。
彼女は急いで両足を回転させて、脅威からの逃走を始めた。
…ラディカは、自分のために何でもしてくれるフラン家の甘い環境に胡坐をかいて、これまで何の努力も苦労もしてこなかった。だから、彼女の知力や精神年齢は未だに低次元そのもので、彼女には成長らしい成長の一切が備わっていなかった。
しかし、『身体能力』に限って言えば、彼女は生まれつき誰よりも優れていた。何故か、彼女の『肉体』は、見た目の女性らしい柔らかな体つきからは想像つかない程の筋力や持久力、俊敏性を備えていた。
だから彼女は、裸足で、しかも屈強な男二人が相手であるにも関わらず、追手に対し、グングンと距離を伸ばしていった。
また、偶然にも、街の中でも非常に入り組んだ道をしている街外れに逃げ込めたことが、彼女の逃走に功を奏した。曲がり角の多さや道の狭さは、彼女を追手から撒く手助けをしたのであった。
そして彼女は、パン屋の店主からも衛兵からも逃げ切ることに成功したのであった。
「はぁ…はぁ…」
…ラディカは結構な距離を走ったために、息を切らしてしまった。
動悸が荒くなっていた。
いや、それよりも、彼女は焦っていたから、動悸が荒くなっていた。
彼女はパン屋の店主や衛兵に襲われた理由を考える必要があった。
現状を受け止めないようにするために、現状から目を背けるために、物事を"都合良く"解釈する必要が必要であった。
墓標が脳裏にチラつく。
早く別のこと考えなければならなかった。
"思い出さないために"
嫌なことから逃げるために。
しかし、酸欠の頭では、何事も上手く考えられなかった。
彼女には時間が必要であった。
息を整える時間が必要であった。
しかし、今日に彼女が為そうとした物事のほぼ全てがまるで叶わずに終わったように、只今の彼女の願いもまた、叶わなかった。
「おっ、女じゃん」
…不意に声が聞こえた。
しかし、息切れしながらも振り返ろうとしたラディカの顔面は、突如として現れた大きな手の平に掴まれた。
次の瞬間、彼女は強烈な勢いで後頭部を壁に叩きつけられた。
「!??」
顔を掴む指の隙間から目の前を覗いてみると、そこには明らかにガラの悪いチンピラの男たちが三人、壁を背にしたラディカを囲うようにして居た。
…ラディカが逃走の末に辿り着いたここは、治安の悪い街外れの中でも、特に治安の悪い路地裏であった。
「…っ痛」
壁にぶつけられた後頭部がガンガン鳴る。震える脳に目がぐわんぐわんする。視界もまた、ぐわんぐわんする。
「…ぁ、何…?」
と、問いかける前に、ラディカの顔面を掴む先頭の男は、彼女のみぞおちめがけて思い切り拳を振るった。
水中で爆弾が破裂したような音が彼女の身体の奥に響いた。
腹に伝えられた外圧に、全身の力が体外に押し出される。ラディカの足はガクガクし始めて、立っていられなくなった。
その場に倒れると同時に、胃酸が口から飛び出る。
腸が無理やり身体の奥に押し込まれたようで、息が出来なくなる。
潰された内臓。
熱くて苦しくて仕方がない。
実際、彼女の柔らかい胃や腸は、この一撃で破裂してしまって、酷い内出血を起こしていた。
耐え切れず、彼女は血をいっぱい吐いてしまった。
「おい、許可なく倒れんな。顔見せろ」
男の一人に髪をグッと掴みあげられる。
「おー、美人じゃん。変な格好してるくせに」
「つか何でそんなアクセサリーまみれなの?」
「えへへ、やったじゃん。女捕まえたと思ったら金まで手に入ったじゃん?」
「つかこれ盗品じゃね?どこで盗ったよ?」
「別に売れれば何でもいいだろ?何にしても儲けモンだ」
「それはまぁ、違いねぇか」
付けていた髪飾りやネックレス、指輪の全てが、ラディカから無理やり引き剝がされた。
そうして彼女から金目の物を全て奪った男たちは、次に彼女の身体を奪うべく、彼女の身を包むボロ服と聖骸布を引っぺがそうとした。
彼女は必死で男たちに抵抗した。
だから、ラディカの顔面は叩き潰された。
彼女を襲う男の一人が、自分から手を離してくれたのを見て、諦めてくれたと安堵した次の瞬間
男の、太くて、頑強な、戦車砲のような腕が彼女の顔を貫いた。
ラディカの顔は、男の拳と背後の壁でサンドイッチにされてしまった。
抵抗したおかげで、ボロ服はまだそんなに破かれていなかった。聖骸布もまだラディカの身を包んでいた。
しかし、代償として、彼女の鼻と前歯は折れてしまった。目も上手く開けられなくなった。
整った顔立ちは、マッシュされたジャガイモみたいになった。
「あっ!短気だなお前!せっかくの美人なのに!」
「短気は損気って言うんだぞ!知らないのか?」
「ムカついたんだ。別に良いだろ?つか、ヤる時に顔がどうとか関係なくね?使えりゃ別になんだって良いだろ」
「あぁ、お前の言いたいこと分かった。むしろ歯とかねぇ方が使いやすい…とか言うつもりなんだろ?」
「そうそう」
「そんなことねぇよぉ~!いいか?物事には情緒ってもんがなぁー…」
「えぇ…?」
男たちは駄弁りながらラディカに迫る。
悲惨なラディカに迫る。
「ぁ…、ぁんで…、ぁたしがこんな目に…」
「私、ぁ…。ぅランへの…、ぅランへの…。」
必死に名乗ろうとする。
しかし、鼻が折れているために発声中に呼吸ができなくて、上手く声が続かない。
前歯が折れているために、吐く空気を上手く発音に使えない。
喋れない。
どうしようもできない。
ラディカは、先ほど彼女を殴った短気な男にボロ服を胸元から掴まれ、左右に思いっきり引っ張られた。
短気な男の強引な力により、ボロ服は上から下にかけて真っ二つに裂かれていった。
また、開かれたカーテンみたいに左右に分けられたボロ服の死骸も、ビリビリと、彼女から剥がされていった。
恥部に近しい肌までもが、男たちの眼に晒された。彼女の何もかもが男たちの眼前に露わになりつつあった。
ただ、通常の布とは違う、聖骸布だけは短気な男の力にも決して引き裂かれず、完全に裸体にされようとする彼女を露呈から守り続けていた。
「邪魔だな、これ」
聖骸布の合間からしか彼女の痴態が見えないことに苛立った短気な男は、これを力一杯に引っ張ってラディカから剥がそうとした。
「邪魔だっつってんだろ。離せよ」
しかしラディカは、手だけには何とか力を入れて、聖骸布を必死に握りしめていた。
「…」
「あー、さっきからムカつくな、お前」
短気な男は懐からナイフを取り出して、彼女の腹にトスッと突き立てた。
一瞬、何が起きたか、彼女には分からなかった。
しかし、次の瞬間には、腹部から、異物感と、肉と内臓が切断された痛みが訪れた。彼女は脳がぐちゃぐちゃになって、悲惨な声で叫んだ。
「うるせぇよ!叫ぶな!」
短気な男は立ち上がって、彼女の顔を踏みつぶした。
口蓋に短気な男の靴の踵がめり込んだ。そして彼女の叫び声は止まった。
代わりに彼女の顔はもっと滅茶苦茶になった。
「おい、マジかよお前…」
「やりすぎじゃね?」
「あぁ?もう別に良くね?ムカつくし。黙らせてやったんだよ。…むしろこのまま死んでくれた方が、抵抗しなくなるから良かったりするんじゃねぇの?」
「あーあ、もったいねぇなぁ」
「俺、死体とヤる趣味はねぇから、今日はパスするわ…」
「俺もパスしようかなー」
「えぇ?お前ら付き合えよ?」
男たちの談笑が聞こえる。
彼女は潰れた目で自分を見つめる。
腹部に突き立てられたナイフを見つめる。
鍔と柄で、ちょうど地面に突き立てられた十字架みたい。
痛い。
血が、見たことない量流れている。地面に血の水たまりができている。背や尻が血に浸かって濡れている。
苦しい。
肺が引き攣る。恐怖で引き攣る。息ができない。
怖い。
眼前にある十字架は、死の十字架。
嫌だ。
血が止まらない。このままだと死ぬ。死にたくない。男たちが迫る。酷いことされたくない。痛いことされたくない。
男たちの談笑が聞こえる。
彼女は心臓に毛が生えた丈夫な女の子。
しかし、その心臓に生えた毛が、只今の彼女が流しているか細い涙のように、ポロポロと弱弱しく抜け落ちていく。
悪い妄想ばかりが頭を支配する。
現実味のある妄想ばかりが頭を支配する。
男たちの談笑が聞こえる。
妄想でなく、これが現実であることに気づく。
私はこのまま、酷いことをされるんだ。
酷いことを散々され尽くして
そのあとに殺されるんだ。
彼女はそんなことを考える。
男たちの談笑が聞こえる。
私は、ラディカなのに、フラン家なのに
どうして、誰も私に良くしてくれないの?
彼女は先ほど出会った門番や守衛や、その他のことを思い出す。
それらが自分に対しどう振る舞っていたかを思い出す。
そこにラディカやフラン家が存在していなかったことを思い出す。
そして、男たちの談笑が聞こえた。
「…ぁ」
彼女は屈した。
…助けは来ない。
フラン家の名も、ラディカの名も、彼女を救わない。
それは、先ほどの門番とのやり取りに同じく、守衛とのやり取りに同じく、パン屋の店主とのやり取りに同じく、衛兵とのやり取りに同じく。
目を背け続けた一点が、彼女をラディカたらしめず、フラン家たらしめない。それ故に、只今の彼女に防御を許さない。
彼女にかつての地位や権力はもはや存在しない。
受け入れるべきなのだ。
現実を。
これこそが彼女の在る現状なのだから。
世界なのだから。
彼女は、ここで嬲られて、嬲られて、恥辱の限りを尽くされて、そして、無様に死ぬしかないのであった。