1 (5)
…まだ日は昇っていなかったが、辺りは微妙に熱を帯び始めてきた。
朝日が見えるようになるのは、もうすぐだろうか?
しかし道はまだ暗い。
そんな中、漂ってきたのはパンの香り。
「良ぃ香りですわね…?」
ちょうど、大通りをてくてく歩いているラディカの鼻の穴に届いた、生地の焼けた香りは、無条件で彼女の興味関心の全てを掻っ攫っていった。
ラディカは左を向いた。香りは、ちょうど左脇にある小さな店から漂ってきたからだ。
「うぅー…」
彼女は風の上を漂う香りと同じようにフラフラしながら、まだ開店前のパン屋に勝手に入っていった。
彼女はお腹が空いていた。
…目当ての物を探すべくキョロキョロした後、ラディカはカウンターに並んだバケットの何本もを見つけた。
黄金色と、焼きたてが発する心地良い熱。
嗅いでいるだけで気分がふわんとしてくる香ばしさ。
つい、よだれが出る。
手も出てしまった。
バケットの一個を勝手に手に取った彼女は、それを改めて嗅いでみたり、指で押したり、千切ってみたりした。
彼女なりの商品点検であった。
「庶民のパンなんて、家畜の餌か何かみたいなもので、この私には食べられたものじゃないって思ってましたけど…、この様子ならきっと大丈夫ですわね?」
「…うん!」
そして彼女は、わぁ、と口を広げ、喜びと共に、バケットを頬張ろうとした。
その瞬間、腹は最高潮に鳴っていた。
次に訪れる、幸せの味と腹の充填を期待していた。
しかし
「泥棒!!!!」
カウンターの奥から、いわれしかない大声が飛んできた。
これに食前の彼女は驚いてしまい、そして、最初の一口を中断してしまった。
食事の第一歩が遮られた。
そのことに彼女は慄きながらも、ラディカとしての調子を崩さず、大声を返した。
「どっ…、泥棒とは誰のことを仰っているのかしら!?もしもこの私のことを指してそう発言しているのでしたら今すぐ撤回なさい!!さもなくば貴方の身の安全は保証しませんわよ!!」
「…はぁ!?」
奥から現れたパン屋の店主は、予想外に言い返されたことに驚きつつも、ひるむことなく、泥棒をひっ捕らえるために持って来た麺棒をラディカに突き付けた。
「なっ…!」
ラディカはひるんで、後ずさりをした。しかし、逆切れは続けた。
「何ですの!?その棒で何をしようというんですの!?」
「すっ、少しでも私に歯向かうと酷いですわよ!立てついてご覧なさい!そっ、そしたら、たちまちに私の護衛がお前を捕まえて、お前と、ついでにお前の家族には惨たらしい死が…」
彼女がそこまで言い放ったところで、パン屋の店主はカウンターに麺棒をガンと叩きつけて、逆にラディカを脅した。
瞬間、傲慢な彼女はビクッとなって、小動物のように縮こまった。
パン屋の店主はドスの利いた声で彼女に告げる。
「泥棒風情が何調子こいたこと言ってやがる!護衛が俺のことを捕まえる!?やれるもんならやってみろ!!それよりもなぁ、この俺がテメェを衛兵に突き出してやる方が早ぇんだよ!!」
パン屋の店主は自身の内に爆発する怒りを表現すべく、再度、麺棒でカウンターを殴る。
二度目の威嚇に、ラディカは完全に固まってしまった。目をキュッと塞いでしまって、生意気な口がきけなくなってしまった。
…ラディカは生まれてこの方、一度たりとも、危機らしい危機に直面したことがなかった。
たとえば、誰かに唐突に脅されたり、喧嘩になったりしたことがなかった。他に、家族から教育的な暴力を受けたこともまた、一切無かった(そういうのは全て『レジディ』に向けられていたから…)。
家族は、彼女を猫可愛がりしていた。一方で家族以外は、彼女をフラン家の一員として恐怖していた。
誰もが皆、ラディカに優しかった。彼女が膝を少し擦りむいただけでも、皆が彼女を気遣った。彼女は割れやすい水晶玉よりも丁寧に扱われていた。
だからこそ、目の前のパン屋の店主は、彼女の人生経験にとって、余りにも理外であった。
先ほどの守衛のように、宥められる感じの強制力ではなくて、正に自身に危害を加えんがための強制力。
それが今から自分に何をしてくるのか、彼女は答えを導けずにいた。未知で、意味が分からなくてしょうがなかった。
怖い
この男が一体何をしようとしているのか分からない。
あの麺棒で私を殴る?
カウンターみたいに?
なんで?
私はラディカなのに?
他の人みたいに殴られる?
怖い
殴られる?
怖い
なんで?
彼女はあまりの恐怖に手が震えてしまって、持っていたパンを床に落としてしまった。
「あっお前!俺のパンを落としやがったな!?なんてことしやがる!!もう絶対に許さねぇ!!」
とうとう我慢ならず、パン屋の店主はカウンターからラディカに向けて飛び掛かかってきた。
…その瞬間を合図に、ラディカの脳内は全力で走り出した。
危機に本能が反応した。
考えている場合じゃない…!
理性的な恐怖は一瞬にして吹き飛んだ。
…彼女はパン屋の店主が自分に到達するよりも素早く、雷のような速度で店から飛び出した。とにかく逃げるために店から飛び出した。
店を飛び出したところで、ちょうど衛兵が目の前を歩いていたので、彼女は急いで彼に助けを求めた。
「助けて!野蛮なパン屋に殴られそうなの!」
「はぁ…、はぁ?」
突然の事に拍子抜けしている衛兵に、ラディカは必死で助けを求めた。しかし、すぐに追いついたパン屋の店主の一言で形勢は逆転した。
「衛兵!そいつはパン泥棒だ!捕まえてくれ!」
「そうなのか?…いや、そうだろうな」
衛兵は、ラディカの全身を一瞥した後、確信を得たかのように発言した。
「みすぼらしい女。教えてやるが、俺はガロの熱心な信者だ。だから、休日には必ず街の外にある『ガロの聖教会』に祈りに行くんだ。聞いた話によると、あそこはガロの本家本元らしいからな。だから、街の教会じゃなくて、そっちに行くんだ」
「…?だから何なんですの…?」
保護を期待する彼女の目を見て、衛兵は言った。
「…だから分かるんだ。お前が身に巻いている神々しいそれは、祭壇にあった、聖骸布だろう?」
「…だっ、だからなんだって言うんですの!?お前は衛兵なんだから、速く私の命令を聞いて、私を助けることだけしなさいよ!!」
「だから、それも盗んだ物だろって言ってるんだこの野郎!ガロの威光を侮辱する汚らわしい盗人め!」
「今すぐブタ箱にブチ込んでやる!愚かな罪人のお前に相応しい、地獄みたいなブタ箱にな!」
言い終えた瞬間、衛兵は彼女を捕らえるべく、両手をガバッと広げて襲い掛かった。