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…ラディカが街に辿り着いたとき、そこに人の騒がしさはなかった。
早朝も早朝。
小鳥すらもまだ夢の中。
空はまだ薄暗く、空気中の分子と『マナ』は凝り固まっていた。
今の街並みとは、ソヨソヨと希薄に吹く低血圧な風と、ラディカがただ一人、道のど真ん中をズンズン歩く足音だけであった。
街の構造上、重要施設を探すことは、初めてアメリーに訪れた彼女にも簡単なことであった。
街は、中心を頂点に、なだらかな丘の傾斜の上に段々と構成されていた。
だから、街に入ればすぐに、丘のてっぺんにそびえる、背の一番高い、偉そうな建築物が分かりやすく見えた。そして、誰が見てもこの街の要所なのだろうと察しが付くその建物こそ、この街の領主の『邸宅』であった。
ラディカは、その分かりやすさの通りに、丘のてっぺんの領主の邸宅を目指して歩いていた。
腕を大きく振りながら、うきうき気分で目的地を目指していた。
「あそこにはきっと、さっきの神父みたいに話の分かる良い領主がいるに違いありませんわ~!」
「楽しみですわ~!…あ、帰りの手配をしてもらうついでに、この街で遊ぶためのお金も貰っちゃおうかしら?折角ですし、記念にどこか適当な別荘でも買って帰りたいですわね?ふふっ!」
なんて、身勝手過ぎる妄想を膨らませながら、楽しそうに歩いていた。
…さて
いつもと変わらない夜明けを過ごすはずだった邸宅の門番は混乱していた。
彼にとっての只今とは、本来ならば、門柱にもたれかかって、朝日がいつ登るのか待ちわびる、ちょっとした楽しみの時間であった。
給仕室から持ってきた白湯を片手に、街の起床、一日の始まりをゆっくりと待つ。
彼にとって只今とは、本来ならば、そういう何もない平穏の時間であり、退屈と小さな楽しみを満喫するための時間であった。
彼は今日もそうするつもりであった。
にも関わらず、今日の彼の目の前に見えるのは、邸宅の玄関門を真正面にして、威張り散らすような風体で仁王立ちしている、やけに偉そうな態度の女の子。
ただ、その偉そうな出で立ちが似合うほどに、彼女は美人であった。滅多に見られないほどに整った顔をしていた。美しいのは顔だけでない。腰つきは細くしなやかで、四肢は指先までスラリと長く、程よい肉感で引き締まっていた。下世話な話だが、女性らしい脂肪の豊満さも、彼女の大事な部分には充分にあった。肌が透き通るほどに綺麗であった。鎖骨がクッキリと浮かんでいて誰もをそそる魅力があった。そして、背筋がピンとしていた。
そんな素晴らしい容姿や姿形だけを見れば、彼女は明らかにして、家事や労働の過酷さを知らない、名家の温室育ちのようであった。そうであるならば、威張る理由も理解できるというものだが…。
しかし、彼女は見目に反し、クソみたいな恰好をしていた。ボロ布のような服の上に、やけに神々しい布を巻いて、加えて髪や首や指にアクセサリーを装着しまくるという、落ち着きのない、品性の欠片もない、意味の分からない恰好をしていた。
偶然にお宝物を見つけた浮浪者が、自慢げにそれらを身に着けまくって、調子に乗っているだけのような恰好。そんな恰好をしている奴が名家のお嬢様なわけがない。
もし…、その恰好が、たとえば、ボロッちい浮浪者らしい容姿や姿形と共にあるのならば、ある程度、体裁も整うというものだが…。
しかし、実態はそうではなかった。目の前の彼女は、残念ながら素晴らしい容姿をしていた。それにも関わらず、彼女は不格好で、加えて、血肉らしき赤黒を、髪や肌、服にのせているのだから、門番は混乱せざるを得なかった。
たとえるならば、ボロ小屋に仕舞われた金の延べ棒?宮殿に敷かれたゴザ?読書をする炭鉱夫?慈善活動をする資本家?金歯をつけた餓鬼?やせ細った神様?
とにかく、そんな感じのアンバランスなアンビバレントが、彼の脳内をかき混ぜてしょうがなかった。
「…そこにいるのは門番ね?この私が来たのだから、さっさと門を開けたらどうですの?」
…彼女は顎でクイと邸宅の門を指し示し、混乱する門番に命令をしてきた。
意味不明な命令を。
…よし、とりあえず不審者だな。
そう腹積もりが決まった門番は、それに沿った対応を始めた。
「…おい、変な娘。ここはアメリーの領主たる『バラルダ公』の住まう邸宅である。…領主の命令により、お前に問う。何者だ。そして…その恰好は何だ。何が目的の恰好なんだ?」
彼女は発言を聞いた瞬間、口をあんぐりあけて驚いた。
てっきり自分は丁重にもてなされると考えていたのに、予想に反してけん制されたことに動揺が隠せない、という風であった。
「…えっ、何で門を開けませんの?」
「それに、何でお前、私に敬語を使わないんですの?…この私と、ちっぽけなお前では、二重敬語でも足りないくらいに身分格差がありますのよ?」
本気で困惑しています、という顔をする彼女。
少し悩んだかと思えば、はた、と結論が出たという顔に変わった。
「あぁ、お前も私の名を知りたいんですの?いいですわよ!寛大な私は、無知なお前に慈悲を与え、跪く用意をさせてあげるのですわ!」
鼻を鳴らしながら、彼女は続ける。
「…さぁ、傾聴しなさい!私こそ、フランガロ最高位の貴族、フラン家の一族にして当代の長女!ラディカ・ソロリス・セァヴデオス・ド・フランですわ!!今こそひれ伏して、命を懇願しなさい!!この名も無き門番風情が!!!」
決め台詞でも言ったかのように、彼女は胸に手を当てて、誇らしくしている。
門番はドン引きした。
フラン?何を言っているんだコイツ?
それに、自分をラディカと言ったか?
自分のことを本気で『悪女ラディカ』だと思い込んでいるのか?
怖い。冗談でなく、本気の本気でそう言っているようだから怖い。
どうしよ。
…しかし、奇妙な彼女を見ているうちに、門番はなんだか哀れな気持ちになってきた。
「あぁ…。多分、お前はきっと可哀想な奴なのだろうな…」
きっとコイツにはコイツなりの悲しい事情があるのだろう…。何かとんでもない事件に巻き込まれて、頭がおかしくなったのだろう。それは、彼女のイカレた恰好が物語っている…。
彼女に見舞われたであろう不幸に同情した門番は、彼女の元に寄り、そして、ズボンのポッケから数枚の『スー』を取り出してみせた。
「すまんな…。今、手持ちには小銭しかないから、これだけしか渡せない…。あぁ、それと、スープくらいなら給仕室から持ってこれるが…」
そう言って、門番は少し申し訳なさそうにしながら、彼女の手に小銭を握らせた。
彼女は手渡された小銭を眺めて、しばらくぽかんとしていた。
そして次の瞬間には、何故かキレ出して、小銭を地面に投げつけ、門番のスネを思い切り蹴った。
しかし、門番のしっかりと鍛えられた筋骨隆々なスネは、彼女のやわいつま先からすれば鋼鉄にも等しかった。そのために、彼女はつま先をグキッと捻ってしまった。
彼女は、痛みのあまり地べたで転げ回り、腫れる患部を両手で押さえながら悶絶した。
「またこの痛み…!」
彼女は泣きそうになっていた。
「お、おい…大丈夫か…?」
なんと優しい門番だろう。彼は親切を攻撃で返されたにも関わらず、怒ることなく、むしろ、彼女の泣き顔を見て、心配をますます強めていたのであった。
門番はしゃがみ込む彼女に手を差し伸べようとした。
しかし、彼女は彼の手を叩くように払って、涙目になりながら叫んだ。
「なんですのお前!?お前にはこの私が何者か分からないんですの!?『フランガロ』に住まうにも関わらず、偉大なるフラン家の存在を知らないと言うんですの!?」
彼の優しさがまるで届いていない、ただひたすらに自分勝手を叫び散らす彼女に、門番は困惑しながらも丁寧に答えた。
「いやぁ、フラン家のことは当然知っているが…。しかし、お前は別にフラン家でも何でもないだろう…?」
「いや顔!私の顔を御覧なさい!どこからどう見てもフラン家のラディカそのものでしょう!?分からないの!?」
「えっ…そうなのか?それはすまない…。俺はアレを『新聞』の似顔絵とかでしか見たことがないから…」
「今私のことをアレ呼ばわりした!?愚か者!愚か者!バーカ!バーカ!もう良いからさっさと門を開けなさいよ!命令を聞きなさいよ!もう!」
「いや、それは流石に出来ないが…。せめて、時間を改めて、出直して来てくれないか?…寛大なバラルダ公がお目覚めになっているときなら、俺から頼めばきっと何とか面会の機会を設けられるはずだから…」
しかし、彼女は提案にまるで満足せず、起き上がっては地団太を踏み始めた。
門番はどうして良いか分からず、困り果ててしまった。
目の前でヒステリーを起こす彼女を、気狂いとして追い払うか、それとも望む通りにしてやるか、優しい彼は決めかねていた。
こんな奴、腰元の剣でさっさと切り伏せてしまえば良いのに、彼は決してそうしなかった。
…果て。
用事を終えた守衛が、門番に文句を言った。
「そういう情け深いところだぞ。お前が門番に向かないってのは。…前に話しただろう?どうしてあんな気狂い相手に親切していた?あんなの、一目した瞬間に追い払ってしまえば良かっただろうに」
「いや…、どうも混乱してしまってな。すまない、また手間をかけた。…しかし、あの子、おかしなことに自分のことを悪女ラディカだと言い張っていたんだよ。…なぁ、唐突にそんなおかしなを話されたら、お前だって混乱するだろう?」
「だから、そんなトンチキなこと言われたとしてもだな、お前が門番である限り、相手を尊重してやる必要はないってことを俺は言ってるんだ。お前の仕事は、そういうトンチキな奴の相手をしないことなんだから…」
「それに…、たとえばアレが本当に悪女ラディカだったとして、しかしフラン家はこの前滅ぼされたんだから、もう、理不尽な暴力にも『呪い』にも怯える必要は無いだろう?」
…あの後、困惑している彼にいよいよ掴みかかった彼女は、最終的に、騒ぎを聞きつけ邸宅から駆け付けてきた応援の守衛の一人によって取り押さえられた。
その後彼女は、守衛に担がれて、強制的に邸宅から追い払われたのであった。
取り押さえられるときも、担がれて連れて行かれるときも、彼女はずっと騒ぎ続けていた。暴言を吐き、悪態をつき、辺りに唾をまき散らしていた。
しかし、その耳障りな騒ぎ声も、彼女が邸宅から遠のいていくほどに、遠く、小さくなっていったのであった。
…そして、平穏な朝は戻ってきた。
台風みたいな彼女のおかげで、なんだかいつもよりずっと平穏に思える朝が彼の下に戻ってきたのであった。