2 (8)
たった三人のための野営地の真ん中で小さく揺らめく焚き火の明かり。
夜は星。
ラディは聖骸布を膝にかけて、近場の高木に背もたれていた。
今日の仕事は終わった。
…いや、彼女の頭の中では、未だに終わっていなかった。
反省会。
ラディは今日にしでかした失敗の数々や、昨日、一昨日にしでかした失敗の無数を思考の渦巻きにグルグルと漂わせては、沈めてを繰り返していた。
しかし、彼女には学が無く、何かを学習する能力がなかった。
だから、彼女は、いくら失敗を思い出して、反省してみても、改善策を見出すことはおろか、失敗の原因に辿り着くことすら出来ずにいた。
彼女は落ち込んでばかりであった。
「ラディ」
前方から優しい声が聞こえた。
マリエットの声であった。
「晩御飯出来たけど…やっぱり今日も水しか飲まないの?」
彼女はこんがり焼けた猪の肉串を片手に尋ねてきた。
「えぇ…」
「自分のパンは、自分の力で買って手に入れるって決めたんですもの…」
「はぁ…、ったく」
「そんな気負いしなくてもいいのにねぇ?」
マリエットは串を地面に差し戻した後、諦めた顔でラディに水筒を渡した。
…路地裏の件の後から、冒険の初日にかけて、二人は一度、衝突をしていた。
それは、何度となくラディの口に無理やり飲食物を押し込もうとする、新生わがままのマリエットと、何度となく「仕事の対価として受け取るから要らない」と口を閉ざし続ける、元祖わがままのラディの、子供のケンカみたいな衝突であった。
最終的に、ベイが間に入って争いは収まったのだが、その際に二人は、『水だけは飲む。でも、それ以上のことはラディの自由にする』という取り決めを、彼によって無理やり交わされてしまったのであった。
だから、只今のマリエットは、微妙な顔をしてラディに水だけを渡すし、ラディは微妙な顔で受け取った水を飲むのであった。
「…あの時、久々に水を飲めたことに感動してワンワン泣きじゃくったくせに。恥じらいもなく何日分もがぶ飲みしたくせに」
「…なんですの」
恥ずかしい思い出を掘り返されて、ラディは顔を赤くした。
「別に?仕事終わりに何食わせて泣かしてやろうか考えてただけよ?」
マリエットは意地悪にそっぽを向いて小言を言う。
「この…!もう!マリエットはいじわるですわ!」
ラディは彼女にからかわれて、つい笑ってしまいそうになった。
しかし、ラディが肩を震わせたと同時に、手元の水筒から鳴った、チャプンという音が、彼女の先ほどまでの考え事を再起させてしまったために、彼女は途端に悲しい気持ちになった。
ラディは静かになった。そして、手に持った水筒を握りしめながら落ち込む様子をマリエットに見せた。
「…私の働きは、この水ぽっちにも見合っていませんわ」
「またそんなこと言ってるの?」
マリエットは飽きれてため息をついた。
「ねぇー、ベイー。私の代わりにラディのこと褒めてやってよー。私はもう面倒臭いよー」
マリエットの呼びかけに反応して、作成した資料の確認や道具の手入れなどの仕事の後処理を行っていたベイが、二人の方に顔だけを向けた。
「んー?あー?ラディがまた落ち込んでるってか?別に良いじゃねぇか。落ち込みたいときは存分に落ち込むが方がええもんじゃ。むしろ、無理に前を向こうって方が不健康じゃ」
「励ませって言ってるのに、落ち込む人間をよりどん底に落とそうとしないでよ!このダルマ親父!」
「なはは、落ち込んでるってことは成長してるってことじゃ。今日出来なかったことも、落ち込んだ分だけ、明日には出来るようになっとるかもしれん!」
「…私、ここ数日同じミスをしてますわ。こんなにも落ち込んでるのに。あぁ…、それでも何も成長しないラディは本当に大馬鹿者ですわ…」
「なははははは!」
「笑うなベイ!あとラディも落ち込むな!もう!二人とも好き勝手して!」
強気なマリエットはラディの前に力強くズンと立って言った。
「失敗なんて誰にでもあることよ!同じ失敗を何度もすることだって、たまたま歯車が上手く嚙み合っていなかっただけよ!だから、落ち込む必要なんてないわよ!」
「…誰にでもあるってことは、マリエットにも失敗はあるってことですの?」
ラディは純粋な心持ちで尋ねた。
「もちろんよ!私にだって失敗くらい…」
…しかし、マリエットは思い出してしまった。ラディとは違って、仕事を始めたばかりの幼い頃の自分ですら、何事も要領よくテキパキと熟していたことを。
「あー…」
頭によぎってしまった。自分は持ち前の手際の良さと注意深さのおかげで、今まで全く失敗をしたことがなかったことを。…たとえ失敗をしたとしても、即座に効果的な反省と改善をするから、同じ失敗なんて二度としなかったことを。
「まぁ…、その…」
優秀なマリエットは、目の前の無能ガールにどう声をかけて良いか分からなくなってしまった。
「…あぁもう!いいから水飲め!水!」
マリエットはそう言ったかと思えば、ラディに渡した水筒をバッと取り上げた。そして、へこむ彼女の口に飲み口を押し込んで、無理やり水を飲ませた。
食道に強制的に流し込まれる水によって息ができなくなったラディは、マリエットの水筒を持つ手をペシペシと叩いて降参の意を示した。
しかし、『死なないラディ』に対し、現状を有耶無耶にしたいマリエットは一切手加減しなかったのであった。
…その後、死にはしなかったものの、思いっきり嘔吐し散らしたラディの後始末をし終えたマリエットは、そっと、ラディの隣に背もたれた。
ラディは、中折れ帽を外して膝に置くマリエットを横目で見た後、何も言わず、自身の膝上の聖骸布を隣人の帽子の上にまで伸ばした。
聖骸布の面積は、二人分のひざ掛けになるには充分であった。
「…ねぇラディ、何でそんなに失敗を怖がってるの?」
マリエットはラディの頭に自分の頭を寄せて話しかける。
「…だって、マリエットは誇りをもって仕事をしていますわ」
「…私は、手伝うとか言って、結局のところ、邪魔をしてばっかりですわ」
「…このままずっと、邪魔してばかりだと、誇りを汚してばかりだと、マリエットはいつか、私への愛想を本当に尽かしますわ」
「だから…、それが嫌ですの…」
「だって…」
「だって、私はマリエットのことが好きですから…」
「だから、嫌われたくありませんの…」
ラディは、ぽつり、ぽつりと心境を言葉に還元した。
…マリエットに嫌われたくない。
これこそが、只今のラディにおける思考と言動の根源であった。
実際のところ、彼女が『自分のパンは、自分の力で買って手に入れる』と固く決めていることも、これが理由であった。…自力で物事を解決する自分の姿に、好意をもっと膨らませてほしいという邪まな想いも十分にあったが、何よりも彼女は、マリエットに迷惑をかけて、そして嫌われてしまいたくないから、先の宣言をしていたのであった。
…ただし、この想いは、決して、彼女の悪性が、律儀や率直に変化したことを示すわけではなかった。
ラディは依然、悪女であった。
"悪女"、それは、彼女が意を決して"貴族の娘としてのラディカ"と決別をした只今においても、靴底にへばりついたガムのように付きまとうものであり、中々に消え去ることのない彼女の気質であった。
だから、彼女は依然、他者を思いやる力を持たなかった。
正確に言うと、無条件で他者を思いやる力を持たなかった。
他者がどれだけ苦しんでいようが知ったこっちゃない、という人間性の歪みは、彼女において未だ健在であった。
…そんな、只今にすら非人間的気質を持ち得る彼女だからこそ、マリエットの存在とは、異例中の異例であり、例外中の例外であった。
マリエットのことを大切にしたい、という気持ちは、彼女において極めて貴重で、唯一で、大事で大事でしょうがない気持ちであった。
彼女において、この気持ちは、生まれて初めて出会った気持ちであり、もしかすると、今後出会うであろう自身の初子よりも唯一無二で、かけがえのないものであった。
彼女は奇跡的に出会うことのできた、この気持ちを決して手放したくなかった。
彼女は懸命であった。
マリエットを思いやり、大切にするために、彼女は自らから発される言葉と、行動に慎重であった。また、考えにも十分な注意を払っていた。
頑張っていた。
初めて芽生えた感情なために、これを保護するために彼女が導き出せる言動や思考は、極めて拙く、未熟なものでしかなかったが、彼女はそれらを出力し、また、改善することに必死であった。
…その一環として、彼女はマリエットの誇りを守りたかった。
仕事に熱心なマリエットを精一杯にサポートしたかった。
もしも、マリエットに夢があるのならば、何処までも彼女を支えていきたかった。
逆に、マリエットの誇りを汚したり、夢の実現を妨害することは、売女に堕ちることよりも嫌なことであった。
とにもかくにも、彼女はマリエットに嫌われないよう、そして、可能ならば自分をより好いてもらえるよう、必死であった。
…しかし、現状はどうだ?
仕事は失敗してばかり。それなのに、貰うものはしっかり貰っている。
邪魔をしてばかり。マリエットの誇りに泥を塗ってばかり。…もしかしたら、彼女を夢から遠のかせてばかり。
こんなのもう、ふさぎこむしかなかった。
…先日に、感極まって、勢い余って、冒険の旅のために用意された水をたらふく飲んでしまったのは、ラディにとって最大級の失敗であった。
マリエットがポロッと呟いた話から知った。
どうやら、シタニア地方や、現在地のラティアでは、水は高価なのらしい。
具体的にどれほどの額なのかは、ラディは知らない。
多分、聞いたところで、贅沢三昧だった"ラディカ"の常識のせいで、彼女は何もピンとこなかっただろう。
…額なんて些細な事であった。
重要なことは、自分がマリエットに対し明確に負担をかけてしまったということであった。
彼女が水を飲み尽くした日から、マリエットが水筒に口をつける様子を見かける機会がガツンと減っていた。
学のない彼女にも理由は分かった。
節水をしているのだ。
高価だから、途中で買い足せるものじゃないから。
あの日から、マリエットは仕事中によく小休止を取るようになった。
喉が渇いて身体が怠いことに加えて、体内の水が足りないから、知恵熱で煮える頭を上手く冷やせずにいるのだ。
マリエットは、かけられる必要のなかった迷惑に苦しんでいる。
マリエットの仕事は、誇りは、現状として間違いなく妨害されている。
私のせいで。
私が好き勝手をしてしまったせいで。
…だから、只今の彼女は、水筒から鳴る小さな音程度にも、ビクビクと怖がってしまうのであった。
「…前も言ったけど、私の好意を甘く見ないでよね。私はアンタのことを恋愛対象として死ぬほど好いてるんだから」
「大声では言えないけど、性的にだって見てるんだから」
「だから、嫌いになるわけないわよ」
…そんなマリエットの言葉も、いつか無くなってしまうかもしれない。
そんな不安が、恐怖が、ラディの脳内を支配してしょうがなかった。