2 (6)
再びやってきたマリエットの満ち満ちた英気にマルルは眼を見開いた。
「マルル!」
声も、生命力の溢れたものであった。
「アイツは無事だぞ」
マルルは見張りの結果報告を端的に済ませた。
「面倒かけたわね。…ありがとう」
一晩、マリエットの代わりに夜警を続けて疲れてしまったマルルは、嫌な顔は一切せずに、ただ、マリエットの肩をポンと叩いて、その場を後にした。
ゆっくりと歩き去っていく彼の後ろ姿から、彼の無言の温かさがひしひしと伝わった。
マリエットの熱量はますます加速した。
路地裏の方を見ると、⦅彼女⦆はやはり地に倒れたままであった。
腕の一本を動かした痕跡すらなかった。
…いざ、⦅彼女⦆を目の前にすると、マリエットは少し緊張した。今から⦅彼女⦆にしてやろうと考えている自分の暴行の内容に、我ながら辟易した。
しかしマリエットは深呼吸をして、気を内に向けた。
マリエットは、身体が滾っていて、心が強烈な自信の一つで満ち満ちていることを間違いなく確認して、グッと前を向いた。
路地裏に足を踏み出した。
「ねぇ…!アンタ!」
マリエットは遂に宣戦布告をした。
そしてマリエットは、⦅彼女⦆の元に一瞬で近づいて、しゃがみ込み、⦅彼女⦆の両脇に腕を入れて、猫を持ち上げるみたいに⦅彼女⦆を持ち上げた。
この時、マリエットは久々に⦅彼女⦆の顔を見た。案の定、⦅彼女⦆の顔は土埃で汚れていた。それと、ずっと倒れこんでいたせいか、起こされたばかりの⦅彼女⦆には覇気が無かった。意識が朦朧としているようであった。
目はしょぼくれていて、口は半開きであった。情けない様であった。
しかし、そんな⦅彼女⦆が、マリエットには愛おしく見えた。
「…マリエット…?」
⦅彼女⦆はぼんやりと、弱弱しい声で言った。
⦅彼女⦆は、力づくで体勢を起こされたことに全く抵抗しなかった。
そんな⦅彼女⦆を、マリエットは力強く見つめていた。
「私の名前、覚えていてくれたの…」
嬉しさがこみ上げる。
…只今のマリエットは、⦅彼女⦆を好きにすることができた。
手を握ることができた。
抱き着くことができた。
告白することができた。
重い愛を囁くことができた。
深いキスをすることができた。
…それ以上のことだってできた。
それほどまでに⦅彼女⦆は無気力で、無防備であった。
しかし、だからこそ、マリエットは、そういう浅いことをするわけにはいかなかった。
マリエットは、それ以上のことをしなければならなかった。
キスよりも濃厚で、セックスよりも奥深いことこそを、只今の無抵抗な⦅彼女⦆にしなければならなかった。
⦅彼女⦆を手に入れるために。
ただ一つの言動だけが、マリエットのすべきことであった。
そしてマリエットは、ずっと考えていた、⦅彼女⦆についてのたった一つの予想を、⦅彼女⦆の顔面にめがけて言い放った。
「アンタ、"貴族の娘"なんでしょ?…それも、"悪女ラディカ"、なんでしょ?」
途端、⦅彼女⦆の顔が一気にこわばった。
マリエットの予想は余りにも図星過ぎた。
⦅彼女⦆はマリエットを振りほどこうと抵抗を始めた。マリエットから逃げ出すために。
自身を抱えるマリエットの腕を振りほどこうと身じろぎをしたり、手足をジタバタとさせた。
気力も体力も限界で、これ以上なく弱り切っている⦅彼女⦆は、そうであるにも関わらず、これ以上なく力強い抵抗をしようとした。
これに対し、マリエットは⦅彼女⦆を力でねじ伏せた。無理やりに⦅彼女⦆を地面に押さえつけて、更に⦅彼女⦆に馬乗りになった。
…身動きが全く取れなくなって、マリエットの前から消え失せることが出来なくなって、どうしようもなくなった⦅彼女⦆は、堪え切れずにボロボロ泣き始めた。
「知られたくなかった…!知られたくなかった…!私が"ラディカ"だってことは、貴女にだけは絶対に知ってほしくはなかった…!」
「"ラディカ"は皆の嫌われ者だから…、"ラディカ"は貴女にも酷いことをするから…、でも、私は貴女だけには嫌われたくなかった…!」
⦅彼女⦆は泣きじゃくりながら、顔をクシャクシャにしながら、横暴をするマリエットに訴え続ける。
「嬉しかった…、嬉しかったの…!何者でもない、何もない、ボロボロの私相手に、優しくしてくれて…、必死になってくれることが…。すごく嬉しかったの…!」
「だから…、だからこそ、貴女にだけは嫌われたくなかった…!嫌われたくなくて…、だから、私が"ラディカ"であることは隠していたかった…!」
「でも…、ダメだった…!貴女の前でも、私はどうしたって"ラディカ"だった…!ひねくれていて、仕事の一つも嫌がる、バカで傲慢な"ラディカ"だった…!」
「だから、嫌われる前に貴女の前から消えたかった…!消えたかったのに…!それなのに…、それなのに貴女はこんなことを…!」
「酷い…!酷いですわ…!マリエットは酷い人ですわ…!」
マリエットは滅茶苦茶な様子の⦅彼女⦆をジッと見つめていた。
…グチャグチャな心情を必死で紡ごうとする⦅彼女⦆は、マリエットの目にこれ以上なく愛おしく見えていた。
可愛くてしょうがない。
マリエットの心がますます一つになっていく。
マリエットは上半身を押さえつけていた両手を、⦅彼女⦆の両頬に移した。
指の腹を、⦅彼女⦆の可愛いらしい部分を愛撫するかのように、⦅彼女⦆の小さく膨らむ顔の肉に当てた。
そして、ゆっくりと⦅彼女⦆の腫れた体温を感じながら、マリエットは言った。
「それなのに、また私の元に来たの?」
「…!」
⦅彼女⦆は泣き顔をふいと逸らした。
⦅彼女⦆は考えていることがあって、言いたいことがあるけども、恥ずかしいから言えない様子であった。
「別に、言わなくてもいいわよ」
「…分かってるし」
マリエットは、いじらしい⦅彼女⦆を慰めるように、⦅彼女⦆の目頭を拭ってやった。
「…アンタが"貴族の娘"だってことは、見た目で何となく分かるわよ。いくらボロボロだっていっても、肌も容姿も綺麗すぎるもん」
「でも、流石に私の推理だけでは、アンタが貴族の中でも最高位の"悪女ラディカ"だってことには辿り着けなかったわ。だって、"悪女ラディカ"の顔なんて知らなかったし」
「さっき、店を出る前に見た、昨日のシテの新聞にね。処刑されたアンタの絵が載ってたの。…長くて艶やかな銀の髪に、大きくて凛々しい碧の瞳。大都市シテの画家は本当に凄いわね。アメリーの地方紙が載せるふざけた似顔絵なんかとは比べ物にならないくらいに写実的」
「…まぁ、生首の絵だったけどね」
「アンタ、悪い子なのね…?」
マリエットは、顔を⦅彼女⦆に近づけて、脅すような調子で問いかけた。
案の定、問われた⦅彼女⦆はビクッと身体を震わせて、表情を恐怖にひくつかせ始めた。
「顔は知らないって言っても、"悪女ラディカ"の悪名と逸話は有名だからね。ましてや私は冒険者で、色んな土地を旅するし、酒場で知らない人と交流を深めることが多い…。実際の被害者に会ったこともあるわ…」
「ホント、酷いことしてきたのね…」
マリエットは、問い詰めるように、自分が知る限りの"悪女ラディカ"の情報を、⦅彼女⦆に向けて言い尽くした。
言い終わったとき、⦅彼女⦆はこの上なく絶望した顔をしていた。先ほど拭ってやった涙が再度溢れだしていて、開いた口は虚空しか咥えていなかった。
「かわいい…」
その言葉が、ふと、マリエットの口をついた。
「…!?急に何を言いますの…?」
⦅彼女⦆は、状況に合致しない理外の発言を受けて、困惑しているようであった。
「アンタ…分からないの?」
マリエットの問いに、⦅彼女⦆は小さく頷いた。
⦅彼女⦆は、マリエットの持つ想いについて、本当に分からないという様子であった。
「鈍感…。私は別に、アンタをいじめたいからココに来た訳じゃないのよ?…いや、いじめたいってのは確かだけど…」
「…本当に分からないの?」
問いに、⦅彼女⦆は、また小さく頷いた。その様子は、無垢な小さな子供のようであった。
この時のマリエットの身体は、震えてしょうがなかった。
その、⦅彼女⦆のあまりにも純粋な様子に、マリエットはもう、耐え切れなくなっていた。
「だったら、教えてやるわよ…!私が今、アンタを押し倒している意味を…!」
「…!マリエット!?何…!?何をするの…!!」
「…!」
「…」
……
…
…
しばらくして、マリエットはゆっくり後ずさりをして、⦅彼女⦆の上から降りた。
そして、地面に押し付けていた⦅彼女⦆の上半身を起こして、背を簡単に払った。
マリエットは家屋の壁を背にして座り込んで、レザージャケットの内ポケットをまさぐった。
「…あ、切らしてたっけ」
目的の物が見つからなかったので、マリエットは代わりに口に手を当てて、軽く一呼吸をした。
そして、へたり込む⦅彼女⦆の方に視線を送った。
視線に反応して、⦅彼女⦆はマリエットの方を一瞥した。
一方で、⦅彼女⦆は、マリエットと目線が合った途端に、ふいと背を向けてしまった。
だが、そんな⦅彼女⦆の様子なんて知ったこっちゃないと言わんが如く、マリエットは、普通の態度で⦅彼女⦆に尋ねた。
「ねぇ、もう知った話だけどさ、改めて、アンタの口から教えてくれない?」
「アンタの名前」
⦅彼女⦆は、観念して答えた。
「私の名前は…、"ラディカ"。"フラン・ガロ王国最高位の貴族、フラン家の末裔、当代の…、いえ、末代の長女、ラディカ・ソロリス・セァヴデオス・ド・フラン"ですわ…」
「…そっか」
マリエットは、達成感のこもった顔をして言った。
「やっと、アンタの名前を知れたわね…」
しかし、マリエットの嬉しそうな様子に対して、⦅彼女⦆は未だにモヤモヤしていた。未だ真っ直ぐな心になれずにいた。
⦅彼女⦆は今になっても、どうしてマリエットが自分の前で、"ラディカ"の前で楽しそうにしているのかが分からなかった。
だから⦅彼女⦆は、枯れ木のように細くなった身体を抱きしめて、…まだマリエットの体温が残る身体を抱きしめて、マリエットに問いかけた。
「…マリエットは私のことが嫌いじゃありませんの…?」
「ん?」
「さっき言った通り、私は、"ラディカ"ですわよ…?貴女の親切も、思いやりも、何もかも無碍にする、人の心が分からない"ラディカ"ですわ…」
「私と一緒にいたら、マリエットはきっと嫌な思いをしますわ…。私はわがままで、高飛車だから…、きっと貴女は振り回されて、何にも思い通りにいかなくて、いつしか私のことを憎むようになりますわ…」
「だから…、私のことは、"ラディカ"のことは見捨ててしまっても構いませんのよ…?いや、そうじゃありませんわ…」
「私なんて、ここで見捨ててしまった方が、貴女にとって…」
⦅彼女⦆がそこまで言ったところで、マリエットは少し面倒臭そうに口を開いた。
「だから、"ラディカ"が凄くわがままで悪い人だったってことは、十分知ってるわよ」
「…」
"悪女ラディカ"のことをマリエットに知られている事実を再確認して、改めて、⦅彼女⦆は酷い顔をして俯いていた。
しかし、マリエットは予想外の言葉を続けた。
「で?だから何なのよ」
「…は?」
マリエットがぶっきらぼうにそう言うもんだから、⦅彼女⦆は顔を上げざるを得なかった。
「あの…、えっ…?」
「マリエット、それは一体どういう…」
マリエットの真意が知りたくて、⦅彼女⦆はおずおずと尋ねた。
しかし、マリエットはまるで意に介さず、自分勝手な思索に耽っていた。
「"ラディカ"、"ラディカ"ねぇ。…やっぱり、微妙に発音しにくいわね」
「…フランガロの言葉って、息を吐くみたいで絶妙に言い切りづらいのよねぇ。ベイは逆の問題を抱えてるみたいだけど」
「"ラディカ"、"ラディカ"、"ラディカ"、うーん」
そう、独り言をぶつくさ続けるマリエットに、⦅彼女⦆は耐え切れずに声を張って問い正そうとした。
しかし、それよりも先にマリエットは⦅彼女⦆に声をかけた。
「ねぇ、アンタのこと、『ラディ』って呼んでもいい?」
「…え?」
予想外のオファー、予想外過ぎる話題に、⦅彼女⦆はたまらず聞き返した。
「だから、ラディって呼んでいいかって聞いてんのよ」
マリエットは、さも当たり前のように、⦅彼女⦆に理外を突き付けた。
「で、どうなの?」
「それは…、何というか…」
「ダメなの?」
「いえ…、ダメってことはありませんけども…その…」
⦅彼女⦆が、たかがあだ名を付けられたことに対して、ここまで驚いていたことには理由があった。
…そもそも、あだ名や愛称という概念自体が、⦅彼女⦆にとって極めて例外で、予想外で、革命的であった。
"ラディカ"は誰からも畏れられ、崇拝されてきたから、愛称とか、あだ名なんて、生来一度も貰ったことがなかった。
友達がいなかったわけではない。家族から愛されていなかったわけではない。
友人も、家族も、⦅彼女⦆を"フラン家の長女"として見なしていたから、だから、⦅彼女⦆の尊大な名を決して軽んじなかったのであった。
⦅彼女⦆は、他者からの認識において、"ラディカ"や"フラン家の長女"という記号から、一度も逃れたことがなかった。
⦅彼女⦆のアイデンティティには、いつも、"ラディカ"や"フラン家の長女"という毒が必ず紐づいていたのであった。
…⦅彼女⦆はこの世に存在したその瞬間から、"ラディカ"でしかなかった。
⦅彼女⦆自身も、いつも、いつまでも、自分は"ラディカ"以外の何者でもないと理解していたし、そこから逃れられる機会なんて、万に一つも訪れないと信じていた。
…もっとも、このレッテルから逃れたいと考えるようになったのは、ごく最近のことではあるが。
…だからこそ、⦅彼女⦆にとって、ラディは理外であった。
単純で捻りのない呼び方だが、⦅彼女⦆にとっては初めての呼び方であった。
そう呼ばれると、まるで別人としての自分を呼ばれているような…、"ラディカ"ではない、何の毒もない、純粋な自分だけを呼びかけてくれているような…、とにかく、新鮮で、清々しい、特別な響きを持つように思えたのであった。
…あだ名を付ける、という簡単な行為は、⦅彼女⦆の存在そのものを大きく歪める力を持った行為であった。
それに当てられたから、だから、⦅彼女⦆は非常に驚いていたのであった。
もちろん、あだ名を付けることに深い意味なんて全く持っていなかったマリエットは、⦅彼女⦆の異様な驚きに対して首をひねっていた。
「何よ。そんなに驚いちゃって」
「いえ…、その…」
「私、あだ名とか…、付けられたことがなかったから…」
「そうなの?」
マリエットは素直に納得した。
そして言った。
「じゃあ、なおさらアンタのことはラディって呼ばなきゃね」
「ラディ、ラディ、いいね。アンタは私のラディ。…ふふっ」
「いい気味だわ」
⦅彼女⦆はまたうつむいてしまった。
しかし、そのうつむきは、先ほど何度もに繰り返していた悲嘆のうつむきではなく、嬉しさと、恥ずかしさのこもったうつむきであった。
…出会ってからずっとそうだったけど。
マリエットは、いつも私に強引して、私に恥を晒させてくれる。
以前には、ボロ服を着るよりも酷い恰好の私を捕まえて、宿で面倒を見たり、食事を施そうとして、"貴族の私"としての尊厳を踏みにじってくれた。
あまつさえ、仕事なんか紹介して、私の"プライド"はこれ以上なくズタボロにさせられた。
マリエットはずっと、"ラディカ"としての私を限りなく無碍に扱ってくれた。
…そして、今のマリエットはもっと強引。
私を押し倒して、酷いことを、気にしていることをいっぱい言い放って、私を散々痛めつけてくれた。…そして、その後は、私を優しく慰めながら、私の痴態を貪ってくれた。
でも、そんな酷いことをしたにも関わらず、当の本人は、まるで悪びれる様子もない。今の今だって、私の心と歴史を簡単に弄んで、私の存在を惨めに歪ませた。なのにマリエットはちっとも反省していない。
…マリエットは狂ってる。
狂っていて、狂っていて、そして、私までもを狂わせてくれる。
本当に、本当に貴女って人は…。
…!
あぁ、そうか。
マリエットはきっと、私のことなんてどうでもいいんだ。
私が誰とか、何を持っているとか、そんなことどうでもよくて、ただ単に、私を好き勝手にしたいだけなんだ。
だから、私が何をどうしようが、マリエットはどうでもいいんだ。私がどうあろうとも、マリエットは私を手籠めにするつもりなんだ。飼うつもりなんだ。
…だから私は、『ラディ』なんだ。
「…なんだか、マリエットの考えていることが分かった気がしますわ」
全てを理解した⦅彼女⦆は、充足感に満ちた、穏やかな表情でマリエットに報告をした。
「やっと?遅かったわね」
マリエットは、やれやれと呆れつつ、安堵した。
そして言った。
「関係ないのよ。私にとって、大好きなアンタが"ラディカ"であろうが、何であろうが」
「…たとえアンタが邪教に堕ちたとしても、アンタは私の可愛いラディなのよ」
「だから、私はアンタを離す気はないし。私は自分勝手にアンタを引きずりまわす気だから。たとえアンタが嫌がって、私のことを嫌おうとも、私はアンタを無理やりに好きにする気だから」
「だからもう、諦めることね。諦めて、私の言うことには絶対服従であるがいいわ」
マリエットは、意地悪く笑いながら⦅彼女⦆に宣告した。
「…そのようですわね」
マリエットの笑顔につられて、⦅彼女⦆も頬が緩んだ。
ようやく、⦅彼女⦆を包み込んでいた緊張が解けた。
「…でさ、ラディ。アンタはもう、私の命令には絶対なわけだけどさ」
「今から聞く質問にも、当然、素直に答えてくれるわよね?」
「…もちろんですわ」
「そう」
「じゃあ、聞くけどさ」
そしてマリエットは、口を開いた。
「アンタ、大丈夫…?」
その言葉に、⦅彼女⦆の全ては決壊した。
「マリエット…!マリエット…!!」
途端、⦅彼女⦆はガバッとマリエットにすがりついて、今まで溜め込んでいた何もかもを放出し始めた。
感情が決壊した⦅彼女⦆は、辛くてしょうがない、潰れてしまいそうな表情でマリエットに必死に主張した。
「お腹空いた…!喉も乾いた…!ずっと…ずっと…潰れるくらい苦しかった…!」
「死にたかった…!苦しくて、苦しくてしょうがなかったから…、貴女と別れてから、何度も、何度も死のうとした…!でも、死ねなかった…!死にたくても、死にたくても、死ねなかった…!」
「死ねなかったの…!!」
⦅彼女⦆の干からびた瞳から涙が溢れた。ボロボロと零れ落ちる大粒の涙でマリエットの服が濡らした。涙に加え、鼻水まで垂らす⦅彼女⦆は、プライドもへったくれもない、とても情けない顔をしていた。
「大丈夫じゃない…!私は大丈夫じゃない…!」
「苦しい気持ちから抜け出したいけど、今の私には何も出来ない…!今の私には、お金も、頼れる人も、何も無いから…!だから私は、水の一滴だって買えない…!パンの一個だって買えない…!自分の力で何も成し遂げられない…!」
「私はもう、こんなの嫌…!嫌なの…!だから、助けて…、助けて…!」
そして、⦅彼女⦆は、全ての恥じらいを捨てて、今まで抱えていた空虚な何もかもを捨てて、思いっきりに、額を地面にこすりつけた。
「お願いします…、お願いします…!どうか…、どうか…!仕事をさせてください…!水を飲ませてください…!ご飯を食べさせてください…!何でもします…!だから…、どうか私を助けてください…!!」
⦅彼女⦆は膝を屈しながら、身をうつ伏せにしながら、必死に、必死に、マリエットに懇願した。
…その行為が、"貴族の娘"としてあるまじき行為で、"フラン家"の権威を裏切る行為であることは⦅彼女⦆にも分かり切っていた。
"ラディカ"では決して出来ない行為であった。
しかし、只今に、マリエットの眼前に存在する⦅彼女⦆とは、ラディであった。
ただのラディでしかなかった。
だからこそ、"ラディカ"には出来なかったことも、言えなかったことも、全てすることができた。
恥を晒して、全てを受け入れてくれるマリエットの横暴さに、必死に救いを求めることができたのであった。
⦅彼女⦆の決死の懇願に対し、マリエットもはち切れんばかりの想いであった。
マリエットは死ぬ思いで、頭を下げる⦅彼女⦆の身体を持ち上げ、顔を上げさせた。
だが、それでも助けを訴え続ける⦅彼女⦆に応えるために、⦅彼女⦆が晒す恥の全てを受け入れるために、マリエットは⦅彼女⦆を抱き寄せた。
そして答えた。
「だから、そんなこと言われなくたってしてやるわよ…!やるに決まってるじゃない…!アンタは私のラディなのよ…!嫌がったって、助けるに決まってるじゃない…!!」
マリエットは必死に、必死に⦅彼女⦆を抱き締めながら、⦅彼女⦆と同じようなクシャクシャの顔になりながら答えた。
…全てを失った⦅彼女⦆の苦しみは、遂に払拭されたのであった。
それは、"ラディカ"という⦅彼女⦆の内に渦巻いていた膨大な様相と問題を完全に消し去るという、重い対価の伴うものであったが、代わりに⦅彼女⦆は、『ラディ』という、新しい自分を得た。
これが良い結果だと言えるかどうかは、まだ定かではない。
しかし、その、前進とも、後退とも取れる取引は、⦅彼女⦆の内をかつてなく満たし、潤し、そして、大きく成長させたのであった。
陽は未だ、昇って間もなかった。
しかしそれは、以前に見た孤独な熱線とは違って、ずっと明るい、幸せに満ち足りた光なのであった。