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「そうか、そうじゃったかお前」
突如、部屋の外から朗らかな声が聞こえた。
マリエットには聞きなれた声。
ガチャッと、戸が開いた先にはベイがいた。
「おいベイ!ここは女の空間だよ!きったねぇおっさんのお前が入って良い場所じゃないよ!」
ルニヨンは、肌着だけのマリエットにサッと布団をかけてやりながら、ノックもなくズカズカと部屋に入るベイに怒鳴った。
「なはは、まぁ、ええでないか。マリエットはお前の娘だが、俺の娘でもある。だから、俺は今、お前と同じで単に娘の部屋に入ってるだけじゃ。何も悪かなかろう?」
ベイの穏やかだが、非常に雑で強情な態度に、ルニヨンは額に手を当てて、「頭が痛いよ」と示すポーズを取ってみせた。
ベイはまた、なははと笑った。
そして、笑顔のまま、マリエットの方を向いた。
「マリエット、どうやらお前は準備が出来たようじゃな?」
マリエットはポカンとした。
「…どういうこと?」
「お前にはな、自分と向き合う時間が要ったんじゃ。自分と向き合って、気持ちを整理して、心を一つにする必要があったんじゃ。強い意志で、行動を揺るぎなく貫徹させるためにな」
「マリエット、自分の考えを貫いて、あまつさえ他人にそれを強制するってのはな、随分辛いことなんじゃ。強制する方、されるほう、どちらかは間違いなく喜ばん。…下手すりゃどっちも苦しい思いをしてしまう」
「だからこそな、だからこそな、どっちかはしっかりしてんといかんのじゃ。どっちかは、相手のために辛いこと知らずになって、相手のために絶対的な精神的支柱にならなきゃいかんのじゃ。でなけりゃあ、共に道に迷って、おかしくなって、しまいには全滅してしまう」
…マリエットはベイの話を真剣に聞いていた。
ベイは、ハッキリ言ってあまり知的な話し方をする人間じゃない。
慣れない言語の拙く発声で、言葉を詰まらせながら話すから、彼の話は適当に聞いていると、ただ単に初老の大男がモゴモゴしているだけにしか感じられない。
しかし、ベイの話す一言一言には、凄まじい価値があった。
ベイは、確かに凄まじい経験を無数に積み重ねてきた男であった。
出会った人のこと、冒険のこと、発見のこと、その他諸々、マルルやルニヨンからポツポツと耳にできる彼の話は、全てが驚嘆せざるを得ない内容であった。
そんな経験をもって紡がれる彼の言葉とは如何なるものであろうとも、かけがえなかった。
…少なくとも、マリエットにとっては。
マリエットにとって、尊敬するベイの話は、内容が何であろうとも偉大であった。たまにアメリーから町に来るガロの神父の説教よりも偉大であった。実際、かねてより彼の口から発されてきた全ての知見は、マリエットにとって、最終的には納得のいくもので、正解であった。
だからこそ、只今のマリエットは、ベイの話をしっかりと聞いていた。
しっかりと、心で聞き、脳内で言葉を何度も反芻して、意図と意味をしっかりと汲み取ろうとしていたのであった。
「…あの時、私が止まる必要があったのは、つまり、この気持ちに向き合うためだったの…?」
マリエットは胸に手を当てて、ベイに問いかけた。
⦅彼女⦆のことを考えた後だったために、未だ強く鼓動する心臓の音と熱を感じながら、問いかけた。
「そうじゃなぁ、そうなんじゃろなぁ…」
ベイは、大きな手でマリエットの頭を撫でて言った。
「大きいなったなぁ、お前。…表面の優しいところはお前の母ちゃんにそっくりじゃが、皮の下、本質的な部分は父ちゃんそのものじゃ」
そしてベイは、おもむろに話し始めた。
「…これはまだ話したことなかったかもしれんがな。実はな、お前の父ちゃん…『ギュスト』の奴はな、お前の母ちゃんを力づくで奪い取って結婚したんじゃ」
「…そうなの!?」
マリエットは素直に驚いた。
マリエットは、自分の母が貴族の令嬢であるという話は聞いたことがあった。父がラティアの辺境出身の下級民であるという話は聞いたことがあった。
しかし、まさか、父と母の間にそんな壮絶なドラマがあったなんてことは寝耳に水であった。
「ギュストの奴はな、お前の母ちゃんをシテで見つけて一目ぼれしてな。何度かプロポーズしたんじゃがな。でも、お前の母ちゃんは身持ちの固い女でな、しかも、その上に婚約者がおる女でな、だから上手くいかんかったんじゃ」
「でも、ギュストの奴はな、どうしてもお前の母ちゃんと一緒になりたいって言って。諦めきれんでな。…遂には結婚式に乗り込んで、お前の母ちゃんをかっさらってしてしまったんじゃ」
「その後のお前の母ちゃんは、連れ去られたことにスンスン泣いとったわ。悲しい、悲しい顔をしとったわ。でも、ギュストの奴は絶対に揺らぐことなくてな、必死に、必死になって、お前の母ちゃんを口説いたんじゃ。もう、何日も何か月もかけてな。そうしたら、お前の母ちゃん、段々とギュストの奴に振り向くようになってな。笑いかけるようになってきてな。楽しそうに会話をするようになってな。…いつのまにか、夫婦になっとったわ」
穏やかな表情で無茶苦茶な話を語るベイに、懐かしい思い出だね、と、ルニヨンが何気なく返していた。
対して、マリエットは閉口していた。
話が壮絶過ぎて言葉が出なかった。
無茶苦茶過ぎる。
話は、最終的に二人愛し合って終わったハッピーエンドのように聞こえるが…、いや、実態は決してそんな煌びやかなものでないハズだ。
賢いマリエットには分かる。母はきっと、家から、婚約者から引き離されてしまって、閉じ込められて、襲われて、精神的にとことん参ってしまって、だから、観念して父を愛するようになったんじゃないかと、容易に推察できる。
いや、普通に考えてそうとしか思えない。
…とても褒められた話じゃない。
生娘の略取なんて、当然に重罪だ。どの世界でもそうに決まっている。
どころか、罪になる云々以前に、自分のエゴイズムのために他者の悲しみを顧みないなんて、人として非難されるべきだ。
狂っている。
私の父は狂っている。
賢いマリエットは、その話が、間違いなく罪深く、軽蔑されるべき話であると理解できていた。
しかし、只今の、恋がるマリエットにとって、その話はただ愚劣なだけで終わる話ではなかった。
…こともあろうに、話を聞き終えたマリエットは、父を羨ましく思っていた。
強烈な、一つの心だけで全てを動かして、最期にはキッチリとハッピーエンドを掴み取ってしまった父の横暴さが、只今の自分にも欲しいと考えていた。
もし、⦅彼女⦆に対して、私もそんなことが出来れば…
⦅彼女⦆に尻込みする、只今の弱っちい自分に、その我が儘が有ればいいなと強く願っていた。
だが、マリエットには蛮勇への第一歩を踏み出す度胸がなかった。
当然だ。マリエットは賢い女性なのだ。
目の前にある美味しいマシュマロに、手が出そうになる本能を、理性でガシッと捕まえる。それは、賢いマリエットにとって至極当然なのだ。
…だからこそ、マリエットは雁字搦めであった。
揺らめく、強い想いは存在するのに、それに対して自分自身が行動にブレーキをかける。脳が、より良く、利口な道を探せと命令をする。賢く在れと命令をする。
マリエットはどうしようもない気持ちでいっぱいになった。
…私は、父とは違う人間なのだ。
マリエットは呟いた。
届かぬ物に諦めを込めた調子で、静かにポツリと呟いた。
「…お父さん、強かったんだね」
「お母さんのことが好きでたまらなくなって、人攫いだってしちゃうくらい心が一個だけの人なんだもんね…」
「そう!その通りじゃ!」
「強い、強かった!何をしようとも芯が一本通っとる男じゃった!」
対して、ベイは興奮気味に答えた。
下を向くマリエットに、興奮気味で答えた。
しかし、マリエットは依然、悲しそうな顔をして、諦めのムードに包まれていた。
…見かねたベイは、躊躇いなくマリエットに言い放った。
本来なら、保護者の立場なら言うべきでない発言を、彼は言い放った。
己の言葉が、目の前の無垢なマリエットにとって如何なる価値を持っているか、その重みを理解した上で、それでも彼は言い放った。
「…そんな父ちゃんにも関わらず、マリエット、お前は一体何だ?…今のお前は一体何をしてるんじゃ?」
「お前は、強くて、狂った男、ギュストの娘なんじゃぞ?それにも関わらず、一体何にビビってあの子に話しかけない?何をかしこぶって、臆病になっている?弱気になっている?」
「どころか、そもそも、本当にあの子を助けたいってなら、つべこべ言わず、無理やりにでもあの子を宿に閉じ込めておけばよかったろうに。あの子の口にパンをぶち込めば良かったろうに。それなのにお前ときたら、あの子の気持ちの尊重?仕事の紹介?馬鹿か?」
「お前はな、そんなことを考えるべき人間じゃねぇ。お前があの子の前で何か取り繕おうとする必要はねぇ。お前って人間は、失敗もクソも無しに、横暴に、暴力的に、破壊的に振る舞えばええんじゃ。特に、お前が恋をしてるってんならな。それこそがお前に似合う」
「何故って…、お前の本質は、父ちゃん似なんじゃぞ?」
「…!」
ベイの思惑通り、マリエットは彼の言葉を丁寧に反芻した。偉大なる価値を持つ彼の言葉を、その優秀な頭脳で相当な深度まで読み解いた。
そして、マリエットは、身を委ねるべきでない真実を見出した。
マリエットは、ふと、自分の腕を流れる汚れた血を感じた。鳴る愚かな心臓を感じた。父と同じ血脈と、鼓動を持つ事実を知った。そして、真実が、只今の己の内に存在することを確証した。
マリエットは、只今に見えた希望を慎重に掴むようにして呟いた。
「私は、強くて、狂ったお父さんの子供…。一目ぼれした相手を無理やりに手籠めにしちゃう、横暴過ぎる人の子供…」
そんなマリエットに、ベイはとどめの一撃を与えんが如く、不敵に笑ってみせた。
「そうじゃ」
そして、彼はマリエットの背中を更に押した。
本来なら進めてはならない悪性の方向へと、悩める娘を後押しした。
「そんでよ、お前はさっき、自分には大好きでしょうがない人がいるってことを確認したばっかりじゃろ?ギュストの奴みたいに、愛っちゅう凄まじい芯を手に入れたばっかりじゃろ?」
「お前は、あの子にしてやりたいことがあるんじゃろ?…だったら物怖じなんてするんじゃねぇ!何も考えんと、その頑強で無敵な芯一本だけを頼りに嵐のように動き回って、あの子のことなんか、お前のわがまま一つで引きずりまわしてしまえ!」
ベイの言葉が、マリエットの表皮に強い衝撃を与えた。
その衝撃は、マリエットの内なる衝動を抑え込んでいた、あらゆる賢知と道徳を破壊していった。
裂かれた皮膚からグロテスクな肉や血が見えるように、マリエットの破壊された表層から、本当ならば仕舞い込んでいなければならない醜悪な欲動が顔を出した。本来ならば、曲解した方法で伝えられるべき想いが、あまりにも直接的に姿を表した。
それらはやがて、マリエットを支配していった。同時に、賢明が癖のマリエットから、気遣いのマリエットから、本能以外の全てが失われていった。
マリエットは、全身から徐々に沸き上がる力に、暴力極まりない、非道徳的な躍動に震えた。
「私は…、アイツのことが好き…」
「強くて、融通が利かなくて、そそっかしくてほっとけない、横顔が綺麗で、寝顔がかわいい、アイツのことが大好き…!」
「私は…、アイツのことを…、アイツのことを…!」
…途端、マリエットの視界がバッと晴れた。
目の前に大いなる空が見えた。
それは見てはならない空であったろう。
しかし、マリエットは、その先に⦅彼女⦆への極めて純粋な想いを見つけた。
いや、もはやそれしか見えなかった。
マリエットの瞳に黒い炎が宿った。
マリエットは、褒められるものではない、しかし、決して揺るぎない自信を取り戻した。
マリエットは、自分本位に、只今の自分が何をしたいのかを、完全に理解した。
賢さを完全に捨てたマリエットには、もう、迷いはなかった。
マリエットは、自分にかけられていた布団をバッと剥がした後、強い意思をもって行動を始めた。
「ルニヨン!着替えを用意して!これ食べたらすぐに出るから!」
マリエットはそう言って、途端に目の前の食事を胃にかき込み始めた。何の躊躇いもなく、これから活動的に動き回るための燃料補給を始めた。
その後、マリエットは、汚れが落とされてすっかり綺麗になった愛用のレザージャケットに勢いよく腕を通した。ウールパンツに足を通した。そして、すっかり普段の冒険者服に着替えたならば、勢いよく、グンと胸を張って店を出た。
マリエットは、知性の欠片もない、横暴のための第一歩を踏み出したのであった。
…残されたベイとルニヨンの二人は、見合って、顔を綻ばせていた。
「アンタ、マリエットに随分なことを言ったね?」
「なはは…、大マリエットと、あの子には申し訳ねぇがな。でも、俺にとっては、いかなる道徳よりも、マリエットに強くなってもらう方が大事じゃ。強くなって、心が揺らぐことが無くなって、そんで、頑として幸せを気取ってくれる方が大事なんじゃ」
「そうさね…」
「…マリエットには、ギュストのバカみたいに、笑いながら死んでもらいたいね」
そして二人は大笑いした。
賢く育った娘が己の本質に気づき、そして、幸福に向かい行動を起こしたこと。
それと同時に、走り出した愛する娘の背に亡き友人の面影を感じたこと。
悲しみを思い出したこと。
そして、何よりも、マリエットがきっと想いを果たして帰ってくるという確信から、しょうがなくなって、だから、二人は大笑いしたのであった。