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とめどない痛みと、いずれ終わる喜びを繰り返して、彼女は成長する。
…強烈な日差しが、うずくまる彼女の背を痛いほどに照り付ける。
街が消し飛んでから、彼女が蘇ってから、朝日が昇ってから、もう随分の時間が過ぎ去っていた。
その間、彼女はずっと悲しみ続けていたわけではない。苦しみに悶え続けていたわけではない。
ただ、動けなかった。
フラン家としての力を失って、何でも言うことを聞いてくれる従者も、全ての横暴が許される権威も消えて無くなったどころか、何も持たず、何も身に着けていない彼女は、世界にただ無力であった。
彼女は、海流にさらわれるクラゲのように、世界を自由に動き回る力を持ち合わせていないだけであった。
彼女はおもむろに膝を伸ばした。顔を地にうずめたまま、足だけで起き上がろうとした。何もないけど、自分から動く努力をしてみた。
しかし、ダメだった。
ふんばろうとした足が滑って、転んでしまって、彼女はただ、うずくまる姿勢から、うつ伏せの姿勢に変わっただけに終わった。そして彼女はまたクラゲになった。
誰か、私を起こしてほしい。助けてほしい。
地面は、もうとっくに冷めていた。
街を焼き尽くした魔法の熱はどこかに発散して消えていた。
灰も全て風に流されてしまって、既に世界の一部に溶けていた。
彼女も、そうなってしまいたかった。
誰も助けてくれないのなら、もはや私に何もないのならば。
明確な言葉でそう考えていたわけではないけれども、熱や灰のように、自然の流転の中に消えていきたいと考えていた。
このまま、うつ伏せのまま、微生物か何かに細胞の欠片まで分解されたなら、どれだけ心地良いだろう?
彼女は、人間であることを諦めていた。
気持ちは完全に自己放棄に傾いていた。
…彼女が自分を諦めてしまってから、少しの時間が経った。
彼女の周りには、どこからか、野犬が二匹ほど集まってきていた。
彼女はうつ伏せのまま、それらの動きを眺めていた。
街の周囲を徘徊し、人や家畜を襲うことが習慣であったのだろう、野犬の慣れた風なうろつきを、ぼんやりした目で追っていた。
私を食べようとしているのかな…。
野犬の鼻息が腹に当たった。
毒味か味見か、舌でペロッと舐められた。
私が食べられるかどうか確かめているのかな…。
いいや。
食べられて、そのままいなくなっても別にいいや。
私はもう、何者でもないのだから。
私はもう、この世に存在しない人間なのだから。
いなくなってしまおう…。
彼女は脱力しきり、目を閉ざしてしまった。
…野犬の牙が彼女の肌に当たった。
いよいよ食べられる。
その瞬間、彼女の脳に電流が走った。
思い出したのだ。
暴漢たちに襲われた際の出来事を。顔を潰され、腹を刺されて、全てを諦めて死のうとしたとき、それでも理不尽に再生した身体のことを。
そして気がついたのだ。
自分が、たとえ野犬に食べられても消えてなくなることがないことを。
そうだ。
私は食べられても死なない。
食べられても再生するだけ。
復活するだけ。
だから私は食べ尽くされることがない。
私は食べられて、痛くて、苦しくても、絶対に死ねない。
肉を千切られて
咀嚼されて
血が飛び散って
痛くて
苦くて
きっと私は死にたいと思う。
けど死ねない。
だから、このまま食べられたら私は一生痛い。一生苦しい。
痛いのがずっと続くのは嫌。
苦しいのがずっと続くのは嫌。
でも食べられたらそうなる。
食べられたくない。
食べられたくない。
食べられたくない。
食べられたくない。
私は逃げなきゃいけない。
「ぁ…、ァッ…!ァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
彼女は情けなく叫びながら必死に身体を起き上がらせて、よろめく足で野犬から逃げようとした。
しかし、ダメだった。
さっきからずっと動かずにいた彼女の足は、立ち上がった瞬間に痺れてしまって、上手く走ることなんて出来なかった。
結局、逃げようとする彼女を思いっきり躓かせて、転ばせただけに終わった。
逆に、事態は悪い方向に加速してしまった。
突然の獲物の抵抗に刺激された野犬は、獲物を捕まえるべく、彼女が転んだその瞬間に鋭い牙に彼女のふくらはぎを噛みついて、そのまま筋肉を引き千切ってしまった。
歯型の奥には、剥き出しにされた神経と骨が見えた。
彼女は叫んだ。
抉られた肉の痺れるような激痛に、よだれと鼻水を垂らして泣き叫んだ。
頭の中は、誰でもいいから助けてほしい気持ちでいっぱいであった。
…そのとき、彼女は視線の先にたなびく何かを見つけた。
よく見ると、砂に埋もれた聖骸布が、地面から少しだけ頭を出して、ひらひらとしていた。
…それが、彼女には、誰かが手を振ってくれているように見えた。
彼女は、腕を懸命に使って身体を前に進ませた。距離は数十センチ。食い千切られた足を引きずって、何とか聖骸布の下に辿り着いた。
そして、ひらひらしている聖骸布の頭を掴み取り、全部を露出させるべく、これを引っこ抜いた。彼女は聖骸布を手にすることに成功したのであった。
…しかし、そうして、だからといって、彼女がこの野犬共に逆転勝利できたとか、そんなことは決してなかった。
聖骸布は、異常な耐久力を持つこと以外に特殊な能力を持ち合わせていなかった。
『身に着ければ防御力が上がる』とか、『振れば魔法攻撃が放てる』とか、そういう特典があるわけではなかった。
この状況において、それはただの丈夫な布であった。それだけでしかなかった。
だから、彼女が聖骸布を手に掴んだからって、現状は何も変わらなかった。
だが、彼女は、握りしめた聖骸布を必死に抱き寄せた。
大事そうに大事そうに、それを抱きしめた。
「あぁ…、良かった…!良かった…!良かった…!」
「助かった…!助かった…!助かった…!」
…別に、彼女は、聖骸布に事態の好転を依頼したいわけではなかった。
聖骸布に、野犬を倒したり、近くの町にテレポートしてもらったり、そんな大層なことを望んでいるわけではなかった。
ただ、自分の傍に居てほしかった。
彼女はただ、大切な人にハグするように、聖骸布を抱きしめたかった。
彼女はただ、無機物の布に対し、存在しないはずの体温を感じたかった。
何もない、何者でもない、存在が無でしかない自分の肌に触れて、存在を確認してほしかった。
只今の彼女は、聖骸布を抱きしめるほどに、聖骸布も自分を抱きしめ返してくれていると感じていた。それに腕なんてあるわけがないのに。
…十中八九、彼女は錯乱していた。
ただ、実際問題、誰との繋がりもなく、何も持っていない只今の彼女にとって、聖骸布とは唯一のすがれる相手であった。
そして、それ以外にすがれる相手がいないという時に、すがることができたという感動と安心は、彼女にとって極めて膨大なものであった。
だから、彼女は無我夢中で聖骸布を愛したのであった。『繋がり』にも似る勢いで抱きしめたのであった。
…その後、彼女は、抱きしめた聖骸布と共に、彼女の足を銜えた野犬の力により、ずるずると、街から少し離れた荒野にある奴らの巣穴に引きずり込まれていった。
彼女は、十数日もの間、巣穴の奥で、奴らや、奴らの子供たちに、全身を食われ続けたのであった。
食べられても、食べられても、何度だって再生する身体を、ずっと貪り食われ、彼女はずっと、痛みと苦しみに飲み込まれ続けたのであった。
ただし、この間の彼女に苦悶の表情はなかった。
聖骸布を抱いて離さなかったからであった。
彼女が"ラディカ"で無くなる以前からずっと傍にいてくれた聖骸布を、まるで自分の愛する夫でも抱くかのように、とても大切な気持ちで腕の中に仕舞い続けてからであった。
だから、彼女は永遠とも思える苦痛の中でも、安堵した表情で目を閉じることが出来たのであった。
…同じ味に飽きてしまった野犬のエゴは、最終的に、彼女を、ゴミでも投げ捨てるかの如く巣穴から放り出した。
そうして彼女は久々に陽の光に晒された。しかし彼女は、しばらくの間、ピクリとも身体を動かすことができなかった。
彼女の全身は、野犬のよだれや自分の血でベタベタしていた。
また、獣の強烈な臭いが染み付いていた。
うつろな目をしていた。筋肉は強張ったり緩んだりして、落ち着きがなかった。
彼女のパートナーである聖骸布もまた、ずっと彼女の下にいたばっかりに、血で真っ黒に染め上げられていた。
もう、鮮やかできめ細かい刺繍は見えず、肌触りも、かつてのシルクのような滑らかさとは程遠い、パリパリ、カサカサしたものになっていた。
その汚され模様は、正に彼女と一緒であった。…苦しみの間、聖骸布は、誓って彼女と共にいたのであった。
彼女は、ようやく自由に起き上がることができた。野犬の牙やかぎ爪に怯えることなく、自由に身体を動かすことができるようになった。
彼女は、足を引きずりながら歩き始めた。食われてできた傷は既に全快しているというのに、彼女はよろめきながら歩き始めた。
…その足は、夢や目標を叶えるために進める人間的な足ではなく、原始的欲求を満たすためだけの原始的な足であった。
「お腹…、空いた…」
とどのつまり、彼女は空腹で、口喝であった。
彼女は墓地で目覚めて以後、ずっと飲まず食わずであった。
彼女の腹は、臓器を摘出された遺体よりも凹んでいた。彼女の喉は、亀裂が走る乾いた大地よりも干からびていた。
彼女の身体には、胃液を出すための水すら残っておらず、また、干し肉にもなれないほどに肉厚が失われていた。
少しの血と、少しの筋肉と、骨。
それこそが彼女であった。
彼女はパンと水を求めて、何もない荒野を彷徨っていた。
喉も腹も満たしてくれない聖骸布だけは大事に握って、当てなく彷徨っていた。
そこに"貴族の娘"としての面影は一切なかった。
彼女は浮浪者よりも酷い有様であった。
彼女はこんなになってしまった自分を何度も憂いたが、枯れた眼は涙すら出せなくなっていた。
彼女は、飢えと渇きと、それから疲れのあまり、幾度となく倒れた。
しかし彼女は、倒れても、倒れても、決して死ななかった。死ねなかった。だから、彼女はまた、欲求のために立ち上がることしか出来なかったのであった。
そして彼女は、再度、足を引きずって歩き始めるのであった。
再び倒れるまでの間、必死で足を動かすのであった。
どうしたって絶えることのない生のせいで、彼女はずっとそうすることしか出来なかったのであった。
…そうやって、歩いて、倒れて、歩いて、倒れて、陽が数度昇ったり沈んだりした末に、彼女は遂に、自分のものではない、誰かの痕跡を見つけることができた。
荒い土の上に、人の往来によって出来た道を見つけることができた。
それは、シタニア地区の最南端に位置する小さな小さな町、『ゴルフ』へと続いていたのであった。