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第三話「カシスソーダ」(2)


 だからこそクラシックのリクエストがないようにと、ステージの上に立つたびに願っていた。クラシックを拒絶するように、例えそれがどんなアレンジ曲だったとしても、店内のBGMとしてさえも流れないように、優希に了承を得た上で彩音は選曲に気を配っていた。


 それでも稀にクラシックのリクエストはあるし、その度に情けない思いをする。


 そんな本音を隠すように、彩音は笑って見せる。しかし、それが思いの外自虐的な笑いになってしまったのは分かっていた。


「それでも僕は、やっぱりあなたのピアノが好きです」


「………」


 その客の真摯な目に、彩音は言葉を返すことができなくなった。


 そうして、少しの沈黙が続く。彩音は司から告げられたオーダーのカクテルを作り、その客は目を伏せて静かにグラスを傾ける。


 そうして心地良いとも悪いとも言えない沈黙を破ったのは、彩音だった。


「――お名前を、伺っても?」


 それは、二度聞きそびれたことを思い出し、会話の繋ぎにでもなればと思って口にした問いだった。


「…よかった。聞いてもらえるのを、待ってたんです」


「え?」


 予想外の答えに、彩音は思わずカクテルを作る手を止める。


「アヤト。(いろど)(ひと)と書いて、彩人って言います」


「彩る…」


「はい、彩音さんと同じです。彩音さんのお名前を聞いたとき、運命って言葉を少し信じてみたくなりました」


「……!」


 花が開いたような微笑みとやけに耳朶をくすぐった声に、その言葉に。彩音は自分の顔がじわじわと熱を持ったのを感じた。そしてそんな顔を見られなくて済む仄暗い店内に、心の中で感謝をした。


 さらに、その客――彩人の言葉に反応したのは彩音だけではなく。同じカウンター内で二人のやり取りを見守っていた優希は密かに驚きに目を見開きつつ、彩音の作るカクテルを待っていた司はポーカーフェイスを装いながらも僅かにその目は泳いでいた。


「僕のことは、どうぞ彩人と呼んでください」


「あの…いえ、お客様にそのよう呼び方は…」


「出会った形がたまたま客と店員だったというだけで、同じピアノを嗜む者同士としては仲間ということにはなりませんか?」


「ええっと…」


「――彩音、手が止まってるぞ」


「あ、」


 すっかり彩人のペースに呑まれている彩音をフォローするように、優希が声をかける。そこで我に返った彩音は、急いで作りかけのカクテルを仕上げ、それを司に渡した。


 渡された司は意味深な視線を彩人に向け、先程までの動揺はまるでなかったかのようにいつも通りにギャルソンを務めていた。


「………」


 一方の彩人はというと、どこかいつもより機嫌の良さそうな雰囲気で、ただ彩音だけを見つめていた。これでは彩音が居た堪れなくなる気持ちが分からないでもないと、こっそりと彩人を観察していた優希は思った。


「もっと彩音さんのこと、知っていきたいです。もちろん、彩音さんにも僕のことを知ってもらいたいな。少しずつでいいので」


「………」


「今日はこのあたりで帰ります。いろいろ混乱させてしまったようで、すみません。でも…また来ます」


 去り際に笑みを零して、彩人はエウテルペを後にした。カウンターにはきっちり空になったグラスと、おつりは要らないと言って残されたカクテル代が残されていた。


「…な、なんなの、あの人…」


 彩人のピアノの腕前に、名前に、その言動に。今日はずっと驚かされてばかりだったなと、彩音は思う。


 そして、同時に。クラシックが弾けないと認識する度に訪れる、息もできないほどに重苦しい自己嫌悪がないことに気づく。


 意図されたことなのか、はたまた偶然なのか。彩音にはその答えは分からないけれど、それが彩人のお陰であることだけは確かだった。


「――お前、なんかすごいのに惚れられたな」


「惚れ…!?」


 彩人が帰ると恒例のように一言を告げる優希の言葉に、彩音は大袈裟なまでに肩を弾ませる。


「――まあ、かなり重度なファンであることは間違いないですね」


 音もなく会話に入り込む司の言葉にも、彩音はその肩を震わせた。


「あの人、半年くらい前からずっと彩音さんのピアノを隅のテーブルで聴いてたんですよ。俺が気づいたときにはもう、演奏が始まるたびに体を前のめりにして夢中になって聴いてましたよ」


「―――」


 彩音はそっと、彩人が座っていたであろう隅のテーブルへと視線を向ける。


 ――あの人に、私のピアノはどんな風に聴こえるんだろうか。


 隅のテーブルで目を閉じ、耳を澄ましてピアノを聴いている彩人の姿が見えた気がして、彩音は自分の心がじんわりと温かくなるのを感じた。




 第三話「あなたは魅力的」


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