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第八話「マルガリータ」(1)


 彩音と彩人が再会してから数か月後。ある穏やかな日の午後に、二人は彩音の実家の前に立っていた。


「き、緊張する…」


「ふふ、彩音さんの実家でしょ」


「だって…三年ぶりなんだもん」


 大学を卒業後、エウテルペで働くことが決まってすぐ。逃げるように実家を出て一人暮らしを始めたことを彩音は思い出す。


「大丈夫。僕が傍にいるよ」


「…うん」


 緊張で少し震えた彩音の指がインターホンを鳴らす。そうして玄関の扉を開けて出てきたのは、全体の雰囲気が彩音に似た女性だった。


 彩音の姿を見た女性の表情が驚きに変わる。彩音はそんな彼女の顔を見て、少しぎこちなく、そして照れくさそうに微笑んでみせた。


「……ただいま、お母さん」


「彩音…っ」


 その女性――彩音の母は室内履きのまま玄関を飛び出し、そのまま彩音を抱きしめる。


「ああ…!彩音…!」


「…うん。心配かけてごめんなさい、お母さん」


「彩音…!」


 華奢な身体を震わせて、大粒の涙を零す母。彩音は抱きしめた母親の小ささに驚きながらも、母親が落ち着くまでその身体を抱きしめ続けた。


「――お恥ずかしいところをお見せしたわ。ごめんなさいね」


 幾分か落ち着いた様子で彩音と彩人にお茶を出した母。そして彼女は家のリビングで、隣り合って座った二人と向かい合った席に座った。


「初めまして、彩音さんのお母さん。僕は彩音さんとお付き合いさせていただいています、永瀬 彩人と言います」


「永瀬…」


 その名前を聞いて、驚いた表情で彩人を見る母。そうして彼の穏やかな雰囲気とその隣で安心したように寄り添う彩音を見て、母は頬を緩ませた。


「貴方が彩音を支えてくれたのね。ありがとう、永瀬くん」


 そう微笑んだ母の顔は彩音とよく似ていて。彩人は改めてこの二人が親子であることを実感した。


「――あのね、お母さん」


 意を決した様子で彩音が口を開く。彩音が実家へと戻ってきた理由。それは、自分を縛る過去と決別するためだった。


「今日はお母さんに話したいことがあって、」


 自分の心の内を話すのは、とても緊張することだ。今でもあのコンクールの日に見た母親の顔を鮮明に思い出すことができる。今さらあの日の話をしたところで、果たして何かが変わるのだろうか?いや、それよりも娘の話を聞いた母親は一体どんな反応をするのだろうか?


 話したい気持ちはあるのに、思考が先走ってうまく言葉が出てこない。そのとき、膝の上で強く握りしめていた彩音の手を、彩人の大きな手が包み込んだ。


「――!」


 思わず俯きかけていた顔を上げ、彩人の方を見た彩音。けれど彩人は何も言わない。それでもその瞳が、表情が、態度が。彩人が全身で彩音を安心させ励まそうとしているのが、彼女には分かった。


「――あのコンクールの日、ちゃんとピアノが弾けなくてごめんなさい。あんなに応援してくれたお母さんをがっかりさせて…ごめんなさい」


 どんなに練習をしても聴こえてこない自分の音。焦りと不安と恐怖と戦う日々。自分のためにも、母親のためにも本当に頑張りたい気持ちがあったのに、結局は何もできずに終わってしまった本番。


 そんな自分が惨めで、恥ずかしくて、悔しくて、腹立たしくて。そんな荒ぶる感情たちの中に小さく紛れていた安堵感と諦念感。これで自分はもう期待に応えようと頑張らなくてもいい。そもそも大した腕もないのに分不相応に頑張ろうとしていたのが悪かったのだ。そんな『ピアノを弾かなくていい理由』を無意識に探し続けた。


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