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第七話「ハイライフ」(2)


***


「……あのお客様、今夜も来なかったな」


「………」


 二十二時の演奏を終えてカウンターに戻ってきた彩音に、優希の労わるような声がかかる。それに彩音は大丈夫だというように薄く笑って返した。


 彩人がエウテルペに来なくなって四ヶ月ほど。ウィーンでの個人リサイタルは大成功を収めたというニュースは流れたのに、彩人本人は未だ現れずにいた。


「…あの人はもう、一人でピアノが弾けるようになったのかもしれませんね」


「え?」


 彩音の呟きがどういう意味か分からないという顔をする優希。そのとき彩音が思い出していたのは、彩音の存在が自分にもう一度ピアノを弾く力を与えてくれたと言っていた彩人の言葉だった。


 少しピアノが弾けるだけのバーテンダーと世界的ピアニスト。


 束の間だったとしても幸せな夢を見たのだと、彩音は自分に言い聞かせる。そうしないと、今にも泣き出してしまいそうだった。


 そんな痛ましい彩音の姿に、優希はバックヤードで少し休むよう言い付ける。もう取り繕うこともできず言われた通りにバックヤードに入った瞬間、彩音の目から大粒の涙が零れ落ちた。


「……泣いてるじゃないですか」


 彩音を落ち着かせるために優希特製のホットチョコレートを持ってきた司。声も上げずにただ涙を流し続ける彼女の姿を見て悲しそうに少し眉を下げ、司は飲み物を置いて彩音に近づいた。


「つ、かさ…くんっ。これは違…っ」


「違わないでしょう?あの人を想って泣いてるんですね」


「…っ」


「そんなにあの人のことが好きなんですか?」


「――っ、好き」


 例えずっと会っていなくても、彩人の表情を、声を、仕草を、彩音は鮮明に思い出せる。


「自分の心が欲しがってるのが分かるの…!好きでしょうがないの…!」


 止まることを知らない彩音の涙を司がその指で拭おうとしたとき、バックヤードのドアが開かれ、どこか怒ったような表情の彩人が静かに現れた。その顔にはもう、あの不釣合いな黒縁めがねはなく。


「…彩人さん…」


「っ!」


 彩音の涙を見た彩人はその目をかっと見開き、そのまま彼女の涙を拭おうとしていた司の手を払い除ける。そうして司を睨み付け、威嚇するような低い声でこう言った。


「――彩音さんを泣かせないでください」


 的外れな彩人の言葉に、司は呆れたように思わず溜息をつく。そんな司の態度に彩人の眉が怒りで吊り上がった。


「――バカバカしい。どんなに態度で示していても、言葉にしなきゃ伝わらないこともあります」


「…は?」


「相手が自分の気持ちを分かってくれるだろうなんて考えは、ただの甘えですよ。どんなに好き合っていても、所詮は別の人間なんです。全てが伝わり切るわけじゃないんですよ」


「何言って…」


 不愉快さを露わにした司の説教じみた言葉に、彩人の怒りがやや落ち着いていく。


「俺は店に戻ります。あとは二人でお好きなようにしてください」


 彩音と彩人を残して、バックヤードから出て行った司。二人の間には沈黙が流れ、彩人はまだ涙ぐんでいる彩音を座らせて、自分もその隣に座った。


「…もしかして、彩音さんが泣いてたのは僕のせい…?」


「………」


「あー、違う。こんなことが言いたいんじゃなくて、」


 彩人の腕が背に回り、彩音は強く抱きしめられた。


「――遅くなって、すみません。ただいま戻りました」


「…っ、遅い、です…!」


「うん、ごめんね。待たせてごめん。心配かけて、不安にさせて、ごめん」


「ずっと、待ってたんです…っ」


「うん、ありがとう」


 彩音をあやすように、慈しむように彩人の指先が彼女の背を撫でる。


「――彩音さん。僕、またちゃんとピアノが弾けるようになりました。彩音さんのお陰で、弾けるようになったんです」


 今なら少しずつでもクラシックが弾けるようになった彩音と同じくらい頑張ったのだと、胸を張って彩音の隣に立てると彩人は言う。


「だから彩音さん、僕の気持ちを伝えさせてください」


 抱きしめていた彩人の腕が離れ、今度は優しく彩音の両頬を包み込む。そうしてお互いの瞳にお互いの姿が見えるほどの距離で、彩人は愛おしげに微笑んだ。


「好きです、彩音さん。初めて見たあなたのピアノを弾く姿に、聴いた音に、僕は一目惚れをしました」


「私も…っ、彩人さんが好きです」


 会えなかった時間が募らせた孤独が、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。今ただ目の前の人に会えて嬉しいとお互いに喜びを滲ませながら、彩音と彩人は額を合わせて笑い合った。


「ねえ、彩音さん。今夜はハイライフが飲みたいです。久しぶりに作ってくれますか?」


「もちろん。喜んで」


「前に約束した彩音さんのクラシックを聴かせてくれる約束は?」


「…うん。まだまだ拙いけど、彩人さんに聴いてほしいです。リクエストはありますか?」


「じゃあリストの、愛の夢第三番をお願いします」




 第七話「私はあなたにふさわしい」


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