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第五話「アプリコットフィズ」(1)


 週に一度のエウテルペの休店日。静かに黄昏てゆく時の中で、彩音は一人、ひっそりとした店内でピアノと向かい合っていた。


「………」


 彩音は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。そうして鍵盤の上に手を乗せて息を吸えば、その指であの夜に弾くことのできなかったショパンのノクターンを奏で出した。


 甘く優雅な旋律が、誰もいない店内に響く。


 しかし、ワンフレーズを終えたあたりで、その旋律は徐々に乱れ始めた。


「…っ」


 彩音が乱暴に両手を振り下ろす。そして、ただ感情のままに叩き付けられただけの歪な音が響き、ノクターンの余韻を全て打ち消した。


「―――」


 ドクドクと心臓が脈打つ音がやけに耳に響く。鍵盤を無造作に押し付けているその手は、小さく震えていた。


 ――やっぱり弾けない。


 自己嫌悪にも似た暗い感情が、彩音の心を蝕む。その痛みを我慢するように、瞼をきつく閉じたときだった。


 ――カラン、


「っ、」


 今日は静かなはずのドアベルの音が鳴り、誰もいないエウテルペに来客を告げた。振り向いて、『CLOSED』の看板が出ているはずのドアを潜り抜けた人物を目にした瞬間、彩音は大きく目を見開いた。


「たまたまお店の前を通ったら、彩音さんのピアノが聴こえてきたから…」


 その人物は、まさかの彩人で。


「すごく耳がいいんです、僕」


 驚きを隠せないままの彩音に、彩人は微笑みながら歩み寄った。


「今日、お店はお休みですよね?彩音さんはどうしてここに?」


「あ…えっと、ピアノの練習、に…」


「そっか。彩音さんは、努力家なんですね」


「……そう、でしょうか」


「――練習、聴いていてもいいですか?」


「あ、はい。どうぞ…」


 彩人が礼を言い、ステージに一番近い席に座る。


 練習中の曲を弾き始める彩音だったが、彩人の視線が気になって、何度も手を止めては弾き直すことを繰り返していた。


「…集中、できませんか?」


 そんな様子を見かねたのか、困ったように笑ってみせた彩人の言葉に彩音は無言で頷いた。


「でしたら…すみません。邪魔ついでにと言ってはなんですが、少し僕と話しませんか?」


「…お話、ですか…」


「ね?少しだけ」


「………」


 正直、彩音はこのまま彩人と一緒にいることに対して気が進まなかった。クラシックが弾けない自分への暗い感情を切り替えることができていないまま、彩人と話したくなかった。


 ――彩人の不思議な魅力に惹かれるままに、隠しておきたい自分をさらけ出してしまうのが怖いのだ。


「―――、」


 ピアノの前から動く気配のない彩音に痺れを切らしてか、彩人が静かに立ち上がる。その衣擦れ音にさえ、彩音の肩が弾む。


 彩音が何かに怯えていることに気づきながらも、彩人はその目の前で立ち止まり、そっと彩音の手をとった。


「――彩音さんと、話したい」


「………」


 優しく手を引かれ、導かれるように彩音は立ち上がる。


 これ以上は客と親しくなるわけにはいかないと思いながらも、彩音は彩人の手を拒否することができず、促されるままにテーブル席に座って向かい合った。


「――笑われるかもしれないけど、僕、今日はここに来れば彩音さんに会える気がしたんです」


「…え?」


「その勘を信じて、用事もないのにここまで来て…そしたら本当に彩音さんに会えた」


「―――、」


「前よりもっと、運命って言葉を信じてみたくなりました」


「…そんなこと、」


 ない、と言い切るには、目の前の彩人の微笑みが確信的に見えて。彩音は思わず、続けようとした言葉を呑み込んだ。


「今日はお店がお休みだから、僕は彩音さんの客ではないですよね?」


 彩人の言葉の真意を掴みかねて、彩音は首を傾げる。


「僕、本当はいつも彩音さんともっと話したいって思ってたんです。でも、やっぱり客だから迷惑がられても嫌だなって思ってて」


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