プロローグ
その時代、珍しかった大きな洋館は、最も栄えた時を忘れたかのように、ひっそりと終わりを待っていた。
洋館の日当たりの良い一室。庭を一望出来る窓辺に置かれたベッドに、渉は横になり外を眺めていた。
――忘れられた華族の一人、久世渉は18歳。
彼は柔らかな黒髪にすっきりとした凛々しい顔立ちの美しい男性だった。
だが、渉は体が弱く、跡取りを持つのは絶望的。この御家の最後の一人だろう事は疑う余地もなかった。
「美亜、悪いが少し起こしてくれないか?外が見たい」
いつでも散歩に行けるようにと、部屋は階段のない1階。しかし渉がすぐそこに見える芝生に足を下ろす事は、この数年出来ていない。
渉はそれでも目を細めると、その上を歩く自分に思いを馳せる。最近では体調もすこぶる良くなったから、きっともうすぐの事に違いないと。
「はい、渉様。今日はお天気がとても良いので、お洗濯物しか見えませんが、とても気持ちの良い景色ですのよ!あら?珍しい。黒猫さんも日向ぼっこです!」
すぐに可愛らしい声がし、小柄な娘がパタパタと小さな体で大きなクッションを運んで来る。
――美亜はそんな渉さまにお仕えする下働きの一人だった。
13歳で奉公に出された美亜が、小さな体で一生懸命に働く姿を見た当主の渉さまが、どうしてもと、自分の側仕えとして御屋敷に置いたのだった。
背は小さく、栗色のサラサラの髪に真っ白な小さな顔。クリクリとした大きな瞳は、日本人にしては色素の薄い茶色。淡い色の愛らしい唇といい、年齢よりもかなり幼く見える15歳の少女。
そんな、美亜だから、側仕えに置くことに反対する者は誰もいなかった。
今までは……。
外に張り出した窓。その窓辺に張り付き室内を覗く黒猫がいた。その猫はまるで人間の様に、2人の様子を見て眉を顰めていた。
――この黒猫の正体は魔女。
時空の魔女は嫁ぎ先を探していた。
時間旅行の滞在場所としてこの地を選び、繁栄華族の娘に成り代わったはいいが、周囲から結婚を迫られる毎日にうんざりしていた。
子供なんて作りたくもない。
でも、次にトリップするには、まだ魔力が足りない。
たまたま耳にした没落寸前の病弱華族の噂。良物件の予感に小さな黒猫に化けると、この洋館へと様子を伺いに来ていた。
「美亜、うちの家系も私で最後だ。だから、私は自由に生きようと思う。お前さえ良ければ、私と一緒に、この家を守ってはくれないか?」
渉はその日、体を起こすのを支えてくれた美亜に、真剣に告白した……つもりだった。
美亜も、もう15歳だ。愛らしさに磨きをかけた彼女が、他の男に取られるのではないかと怖くなり、一大決心をしたのだ。この病気だって美亜がいれば気合いで治してみせる!渉は本気だった。
「はい。渉さま。美亜はいつでも渉さまのお側におります!」
ニコリと微笑んだ美亜の返事は、とても嬉しいものだった。だが、渉には心配な事があり、確認せざるを得なかった。
「美亜、ちゃんと私の言っている意味は分かってる?」
「はい。ずっとお仕え致します」
「いや、そうじゃなくて……」
「御家をお守り致しま……す?」
「うーん……」
何か間違えたのだろうか。と首を傾げる美亜に、どう説明するか頭を抱える渉。
美亜は、かなりふわっとした性格だった。
真面目で素直なのだが……鈍い。そこが可愛いのだが、今はその鈍さがあだとなった。
「美亜、私はお前の事を好いているんだ」
渉は美亜の小さな手を取る。
「はい。美亜もでございます」
ニコリと微笑む美亜。天使の様だ。
渉は顔がニヤけるのを止められない。だが、ここで挫けてはいけない。
しっかりと言質を取らなければ安心は出来ない。
「美亜、身分が違っても結婚はできるのだよ。私たちがこの家を温かくし、幸せを呼ぶと信じて、私と一緒になっ……ゴホッゴホッ」
「渉さま!!」
この体が憎い。
渉はこの日、これ以上の追求を諦めた。
まだ時間はある。そう思っていたから。
(決めたわ。この人にする!!)
時空の魔女は渉をロックオンした。
子作りしなくて良さそうだし、すぐに死にそうなのもイイ!!
(あの娘、邪魔ね。いつもの、やっちゃいましょう!!)
時空の魔女はトリップ以外の魔法は得意ではなかった。だが、行く先々の場所に馴染めるよう、必要に迫られ変身魔法だけはどうにか習得していた。
しかし、他人にかけられる変身魔法は、超初級の猫のみ。
時空の魔女はこっそり洋館に降り立つと、美亜が廊下で一人になるのを狙い、魔法をかけた。
「ニャ?」
(あら?)
「ニャーニャー」
(あらあら)
美亜は廊下に佇み、フルフルと体を震わせると、手足を見て、すぐに自分が白猫になった事を悟った。
元より自分自身に全く興味はなかった美亜が、猫の姿に馴染むのは意外に早かった。
でも……。
「あ!野良猫よ!!」
「追い出して!」
「ニャ――!!」
屋敷の人間に追いかけられ、外に放り出されてしまっては渉さまの近くには戻れない。
日が傾くと外は寒くなるから、窓はもう開かないだろう。夜は屋敷の使用人も自分の家へと帰ってしまうし。
それに、猫になった美亜ではもう、渉様のお世話は愚か、何のお役にも立てないのだ。
「寒いですわ……私は猫だから平気ですけど……」
美亜は渉さまが体を壊さないだろうか、と心配しながら、窓の外の軒下で寒い夜を過ごしたのだった。
――美亜が猫になってから、数週間。
渉は起き上がる事もままならなくなり、食事も取れなくなるほど衰弱していた。
美亜は、毎日、渉さまの見える窓の出っ張りに座り、渉様の様子を見ながら祈った。
月の綺麗な夜は、少しだけ人の姿に戻れる様になったけど、美亜は渉様に心配をかけたくなくて、屋敷の扉を叩く事なく、軒下で丸くなって寝る事にしていた。
「ニャ――」
(渉さまが元気になりますように)
毎日いい香りのするお花や葉っぱを摘んできては、軒先に置いて祈る。
だけど……。
渉さまはそれから間もなく、息を引き取った。
美亜は悲しくて悲しくて泣き続けた。
――それから数日の後、美亜の頭の上に、突然、びかーっと光の柱が落ちて来た。
「ニャ?」
寒い夜だった。
とても暖かそうな光が美亜を包み、美亜はその光に溶けていきたいと思った。
でも、美亜にはやらなきゃいけない事があった。
(渉さまの御家を守らなきゃ。そして渉様の代わりにみんなを幸せにしなきゃなのです!)
美亜は光に背を向け、いつまでもその御屋敷の窓が開くのを待ったのだった。