折れる私と、諦めない彼
それは、何でもない集まりのはずだった。
この国の王子様の誕生日を祝って、美味しいものを食べて、知り合いの令嬢と話をして……華やかで和やかに終わるパーティーのはずだった。
はずだった、のに。
「クラリッサ! 君は僕の太陽だ! いや、月の女神だ! 君のためなら僕は何だってできる。だから、どうか。どうか……僕と結婚してくださいっ!!」
この国唯一の王子様が片膝ついて言ったこの言葉によって、私は――クラリッサ・フレンは、その後の人生を狂わされることになったのだった。
クラリッサ・フレン十二歳、アーサー・アシュトリ十四歳のことである。
*
ここ、アシュトリ王国は小さな国だ。
小さくて、でも、水に恵まれた豊かな国。
他国との関係を慎重にはかり、婚姻によって同盟を結び極力戦争を避けてきた。
だから、この国の王族の結婚は外に向く。国内の貴族たちはそれを重々承知しているため、王子の妃にと自分の娘を積極的に推すことはまずしない。
実際に、アーサー王子が暴走して私に一回目の求婚をしてきたときも、周囲は騒然となったが、最終的に子供の戯れ言と流された。
だが。
だが、アーサーは、不屈の精神の持ち主であり、かつ、考え無しの人物だった。
「クラリッサ。君以外は考えられないんだ。どうか僕と結婚してください!」
「……はぁ、もう分かりました」
三年。三年もの間、百回の求婚を繰り返した王子に、私は折れた。
「今度こそ君好みの男になるか――え? 今、なんて?」
「分かりましたと言いました。私の……いえ、私達の負けです」
とうに、私以外の者たちの心は折れていた。
父も、母も、王も、王妃も、なんかもうクラリッサ・フレンが妃でいいよ的な雰囲気を半年前ぐらいから出している。
主要な貴族たちもあまり反対していない。最初はあり得ないだろうという反応だったはずなのに、所構わず求婚する王子に心打たれて、王子を応援する者まで出てきたぐらいだ。
「え……え? 本当に? 本当に、いいの?」
「正直、もう断れる理由がありませんから」
そう、ここまで粘ったが、私にはこの王子様の求婚を断れる理由がもうないのだ。
もともとは勉強嫌いで何度も授業を抜け出しては教師を悩ませるぐらいだったのに、私が馬鹿は嫌いだと言えば今までが嘘みたいに机にかじりつくようになり。
国のために妃は国外から娶る慣習だと言えば、使者として隣国に赴き両国土を不可侵とする条約と他国からの侵略の際には互いに手を貸し合うという軍事同盟を最小限の犠牲でもぎ取ってきて。
苦し紛れに、頭が良くても軟弱な人は好みでないと言えば、同盟を結んだ国とは反対隣の国――王子の姉が嫁いだ国だ――に留学して兵法を学び、剣と銃の腕を鍛えて帰ってきた。
――君のためなら僕は何だってできる。
驚くことに、その言葉に嘘はなかったのだ。
本当に王子は私を手に入れるために何だってした。
一人息子のために甘やかされ、正直なところ貴族たちの傀儡になりそうな王子だったのに、今や誰もが憧れる賢く勇ましく頼もしい王子になっていた。
ここまでされる価値が果たして私にあるのか、という話は置いておいて、王子が頑張れば頑張るほど、私が求婚を断る理由も、逃げ道もなくなっていった。
だから、私は折れた。
王子の求婚を受け入れた。
「あ……ありがとう、クラリッサ!」
王子は喜色を浮かべて私の手を取った。
その手の甲にキスを落とそうとして、「あ、でも」と固まる。
「でも、もう少し考えたら、どうかな? 僕はまだ、君好みの男じゃないよね?」
「……は?」
「だって、この間聞いたんだ。君が、男には威厳があった方がいいって、言っていたの。もう少し待っていて、きっと威厳を身に着けてくるから」
「は……え、ちょ」
伸ばした手がひらりと空をかく。
思い込んだら猪突猛進、思い立ったら即行動。
そんな王子様は、私の話をよく聞かず王城へと戻って行ってしまった。
……ようやく、素直な気持ちが話せると、そう思ったのに。
*
私の素直な気持ちなんて、なんてことはない。
私だって、アーサーのことが好きだったのだ。あの日、パーティーで、出会ったときから。
でも、私はこの国に仕える侯爵家の娘。
好きだからと相手を選ぶことはできない。
ましてや、王子様なんて高嶺の花もいいところ。
だから、私は自分の気持ちを殺すことにした。
アーサーに求婚されたときは、もしかしてとほんの少しだけ期待したけれど、周囲はあっさりとなかったことにして。
やはり叶えてはいけない想いだと、私は諦めた。
この国のために、アーサーのために、私は己を律することにした。
普通だったら、私達の恋は、そのまま溶けて流されて消えていってしまうちっぽけで儚いものだった。そのはずだった。
でも、アーサーはそれを許さなかった。
私にも、己自身にも。
周囲に何を言われても、私自身に冷たい言葉をかけられても、アーサーは努力をやめず、折れず、逃げず、活路を開き続けた。
そんなアーサーを皆、最初は呆れたように見ていたけれど。
いつしか彼を支える「臣下」になっていた。
当然のようにアーサーのそばに立ち、支える彼らを私は羨ましく思いながら遠目に眺めていた。
本当は、隣国との同盟を結んだ時点で受けてもいい求婚だった。そうと分かっていて素直にアーサーの手を取れなかったのは、怖かったからだ。
今まで「私と婚約するために」と頑張ってきたアーサーがその目標を達成したあと、どうなってしまうのかが怖かった。
努力をやめてしまうのではないか。
もとの怠惰な王子に戻ってしまうのではないか。
そうして積み上げてきた信頼を、私のせいで失ってしまったらどうしよう。
傲慢な心配だとしても、それほどまでに彼の原動力は「私」だったのだ。
だから、私はぎりぎりまで断れる理由を探した。
彼がずっと努力を続けて、皆が望む王子であり続け、それまで得てきた彼の努力の成果が壊れないように。
……そうして、きたのに。
「どう、クラリッサ? やっぱり威厳は髭に宿ると思って、作らせてみたんだ」
なんだか王子様は明後日の方向へと努力し始めてしまったみたいだ。
アーサーは凛々しく綺麗な顔に全く似合わない髭を貼り付けて、自信たっぷりに笑う。どこからその自信が来るのか私は知りたい。というか何故、彼の従者は、部下は、城の人間は、彼がその見た目で城から我が屋敷まで来ることを許したのか。
こういうちょっと馬鹿っぽいところも――というか、そういうところが割と好きなのだから、困りものである。
「殿下。髭に威厳が宿るのなら、世の中そう苦労はありません」
「僕は、君に苦労はさせない」
無駄にキリッとした顔で言っても、髭をつけてるせいでコメディーだ。しかも、出来の悪い。
「そういう話はしていません。とりあえず、髭、取ってください。威厳の真逆を行っています」
三年鍛えてしまった塩対応で指摘すると、こちらも鍛え上げられてしまったらしいアーサーは、「そう? 君が言うならそうなんだろうな」と大人しく髭を取った。
我が家のメイドがもう少しで吹き出すところだったから、非常に助かる。王子様の前で失態を犯せば、私はメイドたちに罰を与えなくてはならなくなってしまう。それは私も彼女たちも本意ではない。
「じゃあ、次」
「え?」
次があるの?
切り替えたアーサーは、長い脚をゆったりと組み、見たことのない酷薄な笑みを浮かべた。見下すような冷たい目。そんな表情を彼に――いや、他人から向けられたのは初めてで、びくりと肩が震えた。
そうして彼は、冷たい表情のまま、言う。
「――フン、雑魚が」
私は、もう少しで泣き出しそうになった。たぶん、涙は目に溜まっていた。
「わあああぁぁ!? 嘘、嘘、ごめん。ごめんなさい、クラリッサ! 今のは真似だから! ドレンシアの王子の真似!」
慌てながらアーサーが、そう弁解したから。
ちなみに、ドレンシアは、アーサーの姉姫が嫁ぎ、アーサーが一時留学して鍛えていた国だ。軍事力に厚い、なかなか物騒な国とは聞いているが、今の物真似が本当なら王子も物騒な人らしい。もしもアーサーに嫁いだら、いつかは挨拶することになるのだろうか。
「……殿下がそんな顔をできるとは、知りませんでした」
「うん、君の前ではもう一生しない!」
「……私の前では、ですか」
やっぱり、そうなのか。
私の前では若干馬鹿っぽくても、犬っぽくても、今までアーサーは先程のような顔を他の誰かの前ではしてきたのだろう。
他国との交渉を何度もしてきたのだ。
相手方に強く出るようなことも、冷たく表情を繕うことも、平気でしてきたに違いない。
私は、そんなことにたった今気がついて、泣きそうになったのだ。
きっと辛い思いもたくさんしてきたのだろう彼のそばに、その時に居たかった。
そばにいて、どれほどのことができるかなんて分からないけれど。でも、彼が私のことを好いているというのなら、多少の慰めになれただろう。
そばにいる。
大切なのに、大切だからこそ、そんなことすらできなかった自分が不甲斐なくて。
笑顔の彼しか知らない自分が情けなくて、悔しくて。
堪え切るつもりだった涙が、落ちた。
「く、クラリッサ!?」
動揺したアーサーが席を立ち、私の足元に膝をつく。
そうやって、簡単に私に跪くから、威厳なんて消し飛んでしまうと気づかないのだろうか。
でも。
「……威厳なんて、いりません」
落とした涙は一粒きりで堪えることができた。二粒目からは、全部アーサーの指に溶けて消えてしまったから。
「私は、そのままの殿下がいいです」
「ごめん、ごめんね、クラリッサ――……え? 今、なんて……」
私の涙を優しく拭う彼の手が止まり、きょとんと私を見上げてくる。私の言葉を聞き逃したようだ。
「……殿下、聞いてください」
静かに息を吐き出すと、アーサーはこくりと頷いて、まるで「待て」をする犬みたいに、私の足元で膝をついたままこちらを見上げてきた。
――私は、彼のそばに居たい。
嬉しいときも、楽しいときも、辛いときも、苦しいときも、悲しいときも、彼のそばに居たいのだ。
それは、私たちが出会ってばかりの頃はどこまでも厚かましい願いだった。そのはずだった。
でも、今は。
今は、許される願いだ。彼が、諦めを知らないアーサーが、そうした。
だから私はもう、言わなくてはならない。観念して、言わなくてはならない。
「――私は、殿下のことをお慕いしています」
本当は、前回求婚されたときに言うはずだった言葉。それらを、一息に吐き出す。
「明るく笑う殿下のことを、考え無しの殿下のことを、一途で努力家な殿下のことを、行動力はあるけどでもちょっと落ち着きはない殿下のことを……ずっと――ずっと前から、お慕いしておりました」
初めて表に出した私の素直な気持ちに、アーサーはゆっくりと目を見開く。信じられない。彼の表情はそう語っていた。
「本、当……? クラリッサ……本当に?」
私の手を、強く握る。
「僕も……僕も、君が好きだ。クラリッサ」
「……ええ、存じております」
でなければきっと、私の想いはとうに散っていた。他でもない私自身が摘み取って、散らしていた。
「最初は拙い一目惚れだったけれど、今はもう、君のすべてが好きなんだ。君の涼やかな声も、僕を見る冷静な目も、国を思う気持ちも、突き放すようなことを言うのに時に僕を心配してくれる優しさも、ほんのたまに見せてくれる可憐な笑顔も、全部、好きなんだ」
片膝をつくアーサーは、私の手に柔らかく唇を押し付ける。ゆっくりと顔を上げた彼の目は、少し、潤んでいた。
「だから、僕は何だってできた。それはきっと、これからも。君のために、この国の平和を守り豊かにすると誓う。だから、どうか。どうか……僕の隣で支えてください」
私の返事なんて先に言ったようなものなのに、それでも彼の瞳は不安に揺れていた。
もう何度も彼の必死な求婚を断ってきたせいだろう。
何度断っても諦めなかった彼の執念と愛情深さに、私は幸福を感じて目を細める。
「はい」
簡潔な私の返事に、彼は、綺麗な涙を一筋流して、それから私のことを優しく抱きしめた。
*
約一年の婚約期間を経て、私達は結婚した。
国中が祝福にわいた幸福な式だった。
例のドレンシアの王子も祝いに来てくれて、たぶん外交用だろう柔らかな笑みで祝われた。アーサーが真似をしたあの酷薄な笑みを向けられたらどうしようかと思ったので、とてもほっとした。アーサーは気色悪かったとぞっとしていた。
アーサーは私と結婚しても、子供ができても、変わらずこの国のために――いや、私のために周辺国に根回しをして平和を維持し続けた。
もしも他国との関係が悪化して、どこかの王女を迎え入れざるを得なくなったら、私の立場は非常に悪くなってしまうから。もちろん私自身も国のために、アーサーのために、王子妃としての仕事はしっかりとこなした。
――ところで。
「クラリッサ」
「なんですか、あなた?」
「僕、そろそろ威厳が出てきたんじゃないかな。髭、似合いそう?」
「……、いえ、まだ似合わないと思うわ」
たまにこんな質問をしてくるアーサーに、実は私は結構いたたまれない気持ちになっているという話をしてもいいだろうか。
威厳なんていらないと私ははっきり言ったはずなのに、アーサーは実に何年も気にしている。諦めないのは彼の長所であり短所であるらしい。
あの威厳が云々という話。
実は私には全く心当たりがなかった。彼が拾い聞いた話らしいので、たぶん侍女か友人との会話の流れで言ったことだと思う。もしかしたら、相槌を打っただけで勘違いしている可能性もある。
「んー、まだかあ。父親になっても、侵略戦争の援軍で前線を指揮してみても、国際平和議会を立ち上げてみても、威厳って出ないものなんだね。やっぱ、王にならなきゃ駄目なのかな」
それは、王になるために何かしでかすという意味ではないだろうなと私はほんの少しひやりとする。……いや、たぶん大丈夫だろう。私が平和を望んでいる限り、物騒なことはしないはずだ。たった一人の王子なのだから、玉座が転がり込んでくるのは時間の問題であるわけだし。
そうは思いつつも、訂正の言葉を口にする。
「……あのね、アーサー。私は別に威厳がある人が好みってわけじゃ……」
「でもクラリッサ、お義父さんのこと大好きだよね」
「え? ええ、それはまあ」
「君が威厳のある男に憧れていると聞いたとき、僕はお義父さんを思い出してなるほどと思ったんだ」
私の父は、まあ確かに厳つい見た目をしていて、逆らい難い独特の雰囲気があるけれど。
「クラリッサはこんな僕のことでも好きになってくれたけど、でも威厳が出れば、もっと僕のこと好きになると思うよ」
だから楽しみに待っていて、頑張るからとアーサーは笑う。頑張るって、今度は何をするつもりだろう。久しぶりに城に帰ってきたのだからゆっくりすればいいのに。
だって、どんなに頑張ってもそんな日は来ないと私は思っている。
「あ、そうだった、クラリッサ!」
はっとした顔になって、アーサーは膝をつく。
私の手を取って、するりと指輪をはめた。流れるようにそこに口づける。
「結婚十年目のお祝いに、プレゼント。愛してる、クラリッサ。これからも隣に居てください」
ほら、十年経ってもこの人は変わらない。
相変わらず私の前に簡単に膝をついて、甘く笑う。
そんな人が、あと何年経てば、私の前で威厳を見せつけられるというのだろうか。
諦めることを知らない彼は、明後日の方向であれ、正しい方向であれ、努力を続けるのだろうけど。
私はそんなちょっとお馬鹿な彼のことを愛おしく思いながら、「ええ、私も愛してる」と目を細めた。
***
……
…………
………………
立派な棺をのせた馬車が、静かに街中の大通りを行く。
馬車が向かうのは、都はずれにある大きな教会だ。
代々の王や王族たちが還る場所。
――偉大なる王の死に、国中が悲しみの涙を流していた。
外交で辣腕を振るい小国アシュトリの国際的地位を引き上げ、大陸の平和に貢献した偉大なる王。
彼の死を悔やみ、悼まない者は、この国にはもはやいなかった。
……静かに息を引き取ったアシュトリ国王アーサーの寝顔は、その偉業に相応しい威厳を備えていたと伝えられている。
彼が何よりも愛した王妃クラリッサはその威厳に満ちた姿を見て――
「ああ――……また私の、負けね」
そう言って目を細め、美しい涙を一筋、流したそうだ。