8 Happy go lucky
ーー4月下旬某日、ある晴れた日曜日のこと。
日も明け切らぬ早朝から教会中に漂う甘い芳香が、目覚まし時計より大分早くハニーを目覚めさせた。
眠い目を擦りながら匂いの元を辿ると、キッチンで忙しなく揺れる柔らかい金髪がドアの隙間に見え隠れしている。
「ふあぁ〜...。こんな朝早くから菓子作りかえ〜...?」
「あれっ?早いね。おはようハニー。」
「ん...はよぅ。」
一際大きな欠伸を漏らし、ハニーはダイニングテーブルに突っ伏した。
「まだ寝てていいのに。」
「こんなに甘ったるい匂いが充満しておったら、砂糖水で溺れ死ぬ夢でも見そうじゃ。......なんじゃ、まーた悩み事か?」
ハニーが村で暮らし始めてそろそろ一月が経つ。
箒と雑巾でする掃除も二層式の洗濯機も、ご近所付き合いのレース編みだって小慣れたものだ。
そんなスローライフの中で知り得たフィリップの悪癖の一つが、ストレスや悩みをお菓子作りで解消する事だった。
黙々と一心不乱にクリームを泡立て、緻密な飴細工を形作り、フルーツを花の様に盛り立て......最終的に拵えられた巨大なホールケーキを胸焼けを堪えながら食べ切った思い出は未だ彼女の脳と胃に新しい。
「違う違う。起きてるなら手伝ってくれる?......今日は、一年で1番賑やかで忙しい日になるからね!」
ーー
生地にバターを挟んで。
伸ばして。
折って。
「さて今日は何の日でしょう?」
伸ばして、折って、また伸ばして。
「......炊き出し?」
ハニーはキッチンをぐるりと見渡して答えた。
「ブブーはずれ!」
「どう見ても炊き出しじゃろコレは。」
ダイニングテーブルは勿論、リビングのテーブルや棚の上にまで進出し所狭しと置かれているトレーの上には、多種多様な焼き菓子が並び粗熱が取れるのを待っている。
フィナンシェ、カヌレ、マドレーヌ...ほかほかと湯気を立てる焼き立ての匂いにハニーの腹の虫が騒ぎだす。
「正解はね、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日......イースターだよ!」
「イースターって菓子パじゃったのか。」
儂の知ってるイースターと違うのう...と口をもぐもぐさせながらハニーはコーヒーを注いだ。
「ちゃんと卵もあるよ。茹でちゃいたいからお湯沸かしてくれる?」
「うぇ〜?儂が料理出来んのは知っとるじゃろ。」
「コーヒーを淹れられるなら卵も茹でられるでしょ。つまみ食い一個につきお手伝い一回だからね!」
「暴論じゃ!」
ぶーぶーと文句を垂れるハニーを尻目にフィリップは着々と本日の準備を進めて行く。
その鮮やかな手際で次々お菓子が出来上がって行くのを眺めるのがハニーは好きだった。決して口には出さないが。
「茹で終わったら、いつも通り礼拝堂の掃除を頼むね。椅子も拭いて...蝋燭をこの間作ってくれた新しいのに変えようか。書斎に今日の式次第があるから、入口に置いて看板も出して洗濯済みのクロスを......」
「そんなに一遍に言われても覚えられんわ。」
「あはは。テーブルにチェックリストがあるから大丈夫だよ。」
見れば確かに米粒の様な文字がびっしり書き付けられた紙束が皿の下敷きになっている。
今日だけで一体どれほど熟さねばならない仕事があるのかとハニーはがっくり肩を落とした。
「こんな事なら寝て居れば良かったかのう。......む?のう若造、卵に絵は描かんのか?」
「イースターエッグの事?描きたいなら描いてもいいけど......ミサの後に子供達がやる分を残しておいてね。」
記憶の中のイースターではとにかくカラフルな卵のイメージがあっただけで別に描きたい訳では無いのだが、とチェックリストを引っ張り出す手がある疑問に止まる。
「......子供達??」
この限界集落のどこに子供が居ると言うのか。
訝しげに首を傾げ、ジンジャー風味のビスケットを口に放り込む。
「うん。イースターやクリスマスのホリデーには他所で暮らしてる村の人たちのご家族が里帰りするんだ。今日も汽車が着けば賑やかになるよ。」
丁度、丘の向こうから汽笛の音が聞こえた気がした。
ーー
「はあ⁉︎本気かえ⁉︎」
ミントの葉を毟っていたハニーは、フィリップの放った素っ頓狂な言葉に思わず目を剥いた。
「え、何か駄目だった?」
「いやいやいや...淫魔の儂が言えた事では無いが......本気でミサの途中に“コレ”を配れと?」
「そうだよ。今年はハニーが手伝ってくれたおかげで会心の出来なんだ。きっと皆喜んでくれるね!」
視線の先にはフィリップ特製、3種ベリーのカスタードデニッシュ。
さっくりと焼き上がったデニッシュに卵たっぷりカスタード、苺とカシス、ブルーベリーが朝日を受けて艶々と輝く。
「ば、罰当たりな。神の肉体が菓子パンとは...とんだメタボリックじゃ。怒られても知らんぞ。」
ミサの次第に於いて、主の肉と血をパンと葡萄酒で拝領する儀。信者が、ましてや聖職者であるフィリップが、決して穢してはならない筈のそれ。
「主はそんなに狭量じゃあらせられないさ。」
鼻歌混じりに粉砂糖を篩いにかける。
「何とも都合の良い事じゃのう。これだから破戒僧は。」
「楽しんで貰えて里帰りのきっかけにちょっとでもなれるなら嬉しい事じゃないか。...あ、それにほら、ベリーってバラ科なんだよ。バラは重要なシンボルなんだ。」
「取ってつけたように...。騙されんぞ。カシスはスグリ科、ブルーベリーはツツジ科じゃろ!」
ちぎったミントの葉を一つ一つデニッシュに載せて行く。
ゆで卵と葉っぱのせしか手伝っては居ないが、部屋中溢れんばかりの完成した菓子達を眺めていると不思議と達成感が湧いて来るようだ。
ただ、甘いものばかりでは少々辟易してしまう...そんなハニーの心を読んだかの様にタイミング良くオーブンが軽快なベルを鳴らした。
ジューシーな燻製の薫りが鼻腔をくすぐる。
「こっちはベーコンと菜の花のデニッシュ。甘いのが苦手な人用...なんだけど、」
作業の手をすっかり止めて一心にオーブンを見つめるハニーに、つい苦笑が漏れる。
「...朝ごはんにしちゃおうか!」
否定も肯定も返さないが、顔色だけはパアと華やぐ素直さがフィリップにはどうしようも無く愛おしい。
懐かない猫が気紛れに寄って来たような。
時折こうして子供の様に弛んだ表情を覗かせる彼女の、もっと色んな顔が見たい。
ふんわり微笑む整った容貌の下で、フィリップの心中はいつだってハニーに掻き乱されっぱなしなのである。
『あらァ〜。なぁにぃ?これ?』
「あ、クインさん。おはようございます。」
『おはよぉン♪』
蜜につられた蝶の様にページを揺らめかせ、呪いの本・クインが姿を現した。
「ム。この忙しい日にまだ寝ておったのか。呑気な物じゃの〜?」
『なぁ〜によォ!アタシは夜の蝶なんだから朝は寝てて当たり前なの。逆に早寝早起きしてほっこりオシャカフェ風モーニングキメてる淫魔の方がおかしいでしょ。サキュバスが丁寧に暮らしてんじゃないわよ。』
「飯が小洒落ておるのは儂のせいじゃなかろうが。」
肉体を持つハニーと違い、クインは食事を摂らない。しかし、食卓にこそつかないが、見目良く作り上げられた菓子や食事を眺めるだけでお腹が満たされるのだと、教会に住むようになってすぐの頃にクインは告げた。
だが腐ってもクインは呪いの本。...本音を言えば、生きた人間が生命活動を全うする様を見せつけられるのは、肉体を持っていた生前の頃が恋しく思わされ少し妬ましくも感じる。
所狭しと並べられた菓子の合間を縫って、ひらりと窓辺に着地した。
『...アラッ!なァ〜に〜?ちょっと見てよこれ!』
そのまま外をながめていたクインが声を上げた。
「なんじゃ?虫でもおったか?」
追ってハニーも身を乗り出す。
『ちっがうわよ〜!って言うか食べながら近寄って来ないでよねェ!汚れちゃうじゃない!......ホラ、あっち、駅の方!人がいっぱい来てるのよ。珍しいわネ〜。』
窓辺から首を伸ばせば、小川を1つ越えた辺りに建つ小さな駅舎に汽車が停まり乗客がパラパラと降りてくる様子が見てとれた。
都会と比べれば閑散とも言える光景だが、汽車が停まるのすら2日置きなロベール村にとってはお祭り騒ぎに等しい。
「おお。来たか。これは本当に忙しくなりそうじゃの。」
『なァに〜?その訳知り顔!ムカつくわネ〜。』
ハニーはドヤと胸を張った。
「フ。寝坊助に教えてやろう。あの人間共は...『もしかしてイースターホリデーの帰省?ちっちゃい子も居るわよ可愛いわネ〜!アラごめんなさい何か言いかけてた?』
「.........。」
じっとり半目でクインを睨んだまま、ハニーは残りのコーヒーを飲み干した。
汽車が到着したのなら、ミサが始まるまであと1時間ほど。
準備を再開せねばとフィリップに声を掛けたが、返事は返って来なかった。
「おーい?若造?」
窓の外をぼうと見つめ、考え事でもしているようだ。ばちんと両頬を挟み、瞳を覗き込む。
「わっ⁉︎近い!!」
「目を開けたまま寝ておるのかと思ったぞ。どうかしたか?」
フィリップは窓の向こう、駅舎の方向から視線を逸らしハニー達の方へ向き直る。
「あ...ううん。なんでもないよ。」
「??貴様が指示せんと分からんのじゃからしっかり頼むぞい。...して、次は何をすれば良い?」
「えーっと、じゃあ、アイシングクッキーをラッピングして貰おうかな。」
手渡されたトレーには、器用にアイシングが施された手の平ほどのサイズがあるうさぎ形クッキーが6枚。
『きゃ〜ん!カ〜ワ〜イ〜イ〜!』
「透明な袋に入れて、リボンで口を縛ってね。ミサの間子供達が退屈しないように最初に入口で渡してあげて。...子供の数ぴったりだからつまみ食いしちゃ駄目だよ!」
「せんわ!もう腹いっぱいじゃし!...やい、クインよ、こっちで手伝うのじゃ。」
ハニーは窓辺で浮かんでいたクインにリボンを引っ掛けると、クッキーを手にリビングへ消えた。
『本のアタシが何を手伝えるって〜のヨ!』
後を追ってリビングに向かうクインを見送って、フィリップも残りの作業に取り掛かる。
ふと皿を纏める手を止め窓の外を一瞥すると、遠く駅前の草原で駆け回る子供達の姿が見えた。
きゃあきゃあとはしゃぐ声が微かに届いてくる。
「......。さっ、早く終わらせちゃわないと。」
今日はきっと忙しい日になる。
ーー
教会の鐘の音は、ミサの始まりを告げる合図。
青銅で造られた一抱えはある鐘は古く割れた様な音がするが、カランカランと村の隅々まで響き渡り住人に刻を告げて行く。
礼拝堂の入り口で準備を進めていたハニーの耳にも鐘の音が届いていた。
普段から鐘を鳴らすのはフィリップの担当だが、今日はいつもより音が大きい気がする。気合いが入っているのだろう。
なんと言っても今日は彼にとって春の一大イベント、イースターだ。
空は青く晴れ渡り木立を抜ける風も爽やかな春の陽気に、人々はついつい外出へ誘われるものだ。
奇しくも今日はイースターホリデー。
普段は遠く離れた街で暮らしている者達が、生まれ故郷に住まう祖父母や親類知人を訪ねにやって来るにはもってこいの日。
年若い女性には異常に好かれる質のフィリップとしては振舞いにかなり気を遣う日でもあるのだが、彼は生来の聖人気質。
村人達が久し振りの邂逅に心弾ませる様と自分の苦労となら天秤に掛けるまでも無く前者を選ぶ。
この自然豊かで長閑なロベール村を都会の様に賑わせたい訳では無い。
村人達だって今の暮らしを愛しているし、働き盛りの若者を無理に一処に引き留めようとはしない。
それならせめて、年に一度くらいは里帰りをして欲しい、そんな思いでフィリップが始めたのがこの溢れんばかりに用意された菓子のおもてなしだ。
ミサの後には教会前に机を並べ、食べきれない程の菓子や軽食を盛り上げてパーティーを開き、余れば土産に持たせて。
ついつい聴き入ってしまう様なウィットに富んだ説教を用意する程の学は無いが、食事を用意し、花を植え、壊れた柵を修繕し...彼なりに村人の為を思って出来る事を精一杯やっている。
得意分野に傾倒するあまり少しばかり行き過ぎではあるが。
さて、教会の鐘が鳴らされれば程なくしてミサが始まる。
ハニーが入り口の扉を開けると、参拝者が老若男女連れ立って続々とやって来た。
フィリップに指示された通り、訪れた人々に式次第や聖歌集を配り小さな子供にはアイシングクッキーを渡す。にっこりと笑顔を添えるのも忘れずに。
余談ながら、ハニーは演技という物に関しては一家言ある。過去を多くは語りたがらないが、彼女の『仕事』上必須技能だった。フィリップやクインに対しては必要が無いからしないだけで、愛想笑いや猫被りは大得意なのである。
普段なら半分も使われない礼拝堂のベンチだが、今日に限ってはすっかり埋まりわいわいと談笑する声が溢れている。
村に住むようになって一月、参拝者ゼロの日すらあったこの教会でこれ程活気が満ちた光景を見るのは初めてだ。
「おや、ここは神父様1人しかいらっしゃらないと思っていたが...」
「ええ。丁度今月からこちらで奉仕しております、シスター・ハニウェルですわ。」
このやりとりをこの数十分だけで何度繰り返しただろうか。村にやってきて直ぐの頃を思い出す。
きっとミサ後のパーティーでも質問攻めに遭うだろう事は容易に予想がつく。
一月前の経験がそう言っている。
「シスターシスター!ぼくにもクッキーちょうだい!」
参拝者を粗方案内し終え、壁際で一息ついていたハニーの修道服の裾を、小さな手が引っ張った。
「クッキー?」
「うん!うさぎのやつ!みんな食べてるのにぼくだけもらってなーい!」
足元でクッキーをねだる子供は、よくよく見れば先程まで礼拝堂内ではしゃぎ父親に追いかけ回されていた少しばかりやんちゃな少年だ。
入り口で配ってはいたが、気付かず素通りしてしまったのだろう。
ハニーは子供用のアイシングクッキーを入れていた籠を取り、しゃがんで少年と目線を合わせた。
「...んん?若造め、数を間違えたか?」
だが、籠は既に空になっていた。
装飾に手間がかかる分、子供の人数ぴったりしか用意できていないからつまみ食いするなと言い聞かされていた品だ。勿論食べていないので、フィリップの間違いか或いは子供が増えたか。
何にせよ盗み食いの汚名だけは避けたいものだ。
「えー!!クッキーないのー⁉︎なんでぇ⁉︎やだ!」
「ぅうん...やだと言われてものう...」
聖堂で走り回る程のやんちゃな少年だ。駄々を捏ねる声も一際大きい。
「ハニー?どうかした?」
声を聞きつけたフィリップがひょっこり顔を出す。
「あれ、クッキー足りなかった?そっかぁごめんね。後でみんなよりもっと凄いやつをあげるから、お父さんとお母さんの所で待っていてくれる?」
ハニーには地団駄を踏んでいた少年もフィリップのあしらいにかかれば大人しいものだ。
促されるまま両親の元へ向かう。
わんぱくな息子に翻弄され汗だくの父親が少年を抱き上げた。
「こらピート!...すみませんねぇ神父様。」
「ああ、あなたはカーターさんのお孫さんの!じゃあこの元気な子はピーター君だったんですね。」
フィリップは少年ににっこりと微笑み掛ける。
「去年よりすっごく背が伸びたんだね!ピーター君だって気付かなかったよ!...お兄さんになったんだし、ミサの間は僕のお話聞けるよね?」
「聞いてあげてもいいよ!」
「偉いね!ありがとう!」
ポンポンと少年の頭を撫ぜ、フィリップは説教台へと向かった。
Happy go lucky
暢気な祭日、春の祝宴