塩山、火口湖、大きな魚
雨がしとしとと降る秋の日の午後である。くたびれたソファに座って分譲住宅のチラシを眺める古びた父と、その膝から飛び降りた猫のタマ子。母は縁側で推理小説を読んでいるのだろう、最近ハマっているのだとか。
父が定年退職し、母もパートを辞め、ふたりとも年金を貰いながらの老後生活である。さらに私が大学を卒業して就職することに成功したため、我が家は当面お金の心配がなくなった。そういうわけで父は高祖父より伝来のこのボロ家をついに建て替えることを決意し、あれこれと案を練っているところのはずである。しかし分譲住宅のチラシ(それも山梨県だ)を見ているってことは引っ越しちまうってことかい?
「なあ」
と、父はチラシを見つめたまま言った。この部屋に母はいないし、タマ子もちょうど出ていったところだから私に話しかけたのだと理解した。
「このシオヤマってのはいいところだな。ここに家を買って住むのはどうだろう」
そりゃなんだ? と思い横からチラシを覗き込むと、塩山と書かれている。
「ああ、エンザンね」
と私は言った。
「エンザンって読むのか」と父は顔を上げ、「しかし山梨だと冬はここより寒そうだな。別のところにしようか」と言った。
どうも、父としては建て替えではなくて引っ越したい気分のようである。わりと先祖伝来の土地とかそういうものにこだわるタイプかと思っていたので意外な感じがする。
「箱根とかどう? 温泉であったかいよ」
と、私は提案した。半分くらい冗談である。父はなるほどとうなずいた。
「九州とか南の島とかもいいかもね」
いつの間にか母が来ていて、そんなことを提案した。ずいぶんまた遠くなったな。
母はぽんと手を打った。
「そうだ、それなら大ちゃんに頼んでみたらいいんじゃない?」
大ちゃんは私の兄で、今はテレビ局でニュース番組の企画とかをしている。その兄にいったい何を頼むのやらと訝しく思ったが、まあつまりこういうことである。
その日集まったのは、我が家の三名プラス一匹に、大ちゃんと、カメラマン、音響、アシスタント、さらに現地で魚料理店を営む若手料理人だった。ここは九州にある火山で、山頂の周囲に複数の火口湖がある風景が美しいことで有名である。直径百メートルほどもある火口湖が隣接しており、私たちはその岸辺に集まっている。
「さて、やりますか」
ガタイのいい料理人がそう言うと、カメラが回り始めた。彼は腕ほども太さのある大きな釣り竿を持ち、湖の浅瀬にざぶざぶと入っていった。その大きな竿をぶんと振ると、餌を付けた釣り針は湖の真ん中あたりに着水して飛沫を上げた。そして、それほども待たないうちに魚が食いついた。竿の先が大きくしなる。大物だ。
「こいつはすごいぞ」
と料理人が言った。
「手伝います」
大ちゃんも浅瀬に入り、料理人の横から竿を支えた。さらにアシスタントも反対側から竿を持った。しばらく魚と格闘した後、料理人は安心した様子で竿から手を離した。
「もう大丈夫だ。ふたりとも、頼むよ」
大ちゃんとアシスタントがえっさほいさと獲物を引き寄せ、料理人が素手でそれを捕まえた。腹がでっぷりとした大物の魚だった。まるで太りすぎた巨大ブラックバスといった風情である。
つづいて撮影班一行は彼の経営する料理店に行った。さすが料理人なだけあって、これほどの巨大魚をあっという間にさばいてしまった。さばいている様子を横で見ていると、魚は皮が分厚く、スジや脂身が多くて、また筋肉質でもあり、魚というよりも鹿とか猪などのジビエのほうがイメージは近い。しかしそれでいて、刺し身にしてしまうと淡いピンク色できめ細かな、サーモンのような見た目なのである。
「そっちのやつ、パッキングしといて」
料理人に言われて、私と大ちゃんは刺し身にしなかった残りの身をプラスチックトレイにのせてラップでパックした。これを売ればまあまあの値段にはなるらしい。