愛のうた
僕らはあまりにも平和な世界に生き、そのことに感謝することが少ない気がします。
真っ赤に染まった向こうの山々を朝日がさらに燃やしていた。空は抜けるように青く底が知れない。そんな合成写真のような色合いがフロントガラス一面に飛び込んでいた。
今年一番の冷え込みだとラジオは言う。
「結局、昨日は食い溜めしたの?」
「したよ。だって夕方5時ぐらいまで食べれないんだよ、じゃなきゃお腹空きすぎて死んじゃうよ。」
見慣れない助手席の化粧っけのない顔は青白く、幼く見えた。
「そうだね、で何を食べたの?」
「卵焼きに、ごはん、納豆でしょ、アボカドサラダにグラタン…。」
途中から目をつむりながら思い出すように彼女は言う。
「すごい食べたね。」
「あと、あの赤いお肉…なんて言ったっけ?」
「赤いお肉?」
「そう、周りだけ焼けてるんだけれど…。」
「牛たたきのことかな?」
「うーん、違くて、もっと高級な感じの名前。」
「あぁ、ローストビーフ?」
「そう、それそれ、2枚食べたの。おいしかった。」
彼女の口から漏れる息は雪のように白く、声を出すたびに舞い上がる。
「そろそろ暖まったかな、暖房つけないと俺、凍死しちゃうよ。」
「うん、私なんかもう半分固まってるよ。」
エアコンのスイッチを入れ、ついでに最近買ったCDを入れた。前にテレビで見た奴だ。雪の中を裸で歌っていて、歌手の名前を忘れて、店員にそれを言うとTOP10に並んでいた一枚を渡してくれた。James Blunt 28歳。俺と同い年。デビューアルバムが6週連続1位。せっかく買ったのに頭には何ひとつ入ってこなかった。何ひとつだ。今だけかなと思ったけれども、思えばずいぶんと前から音が耳に入ってきていない気がした。いつからだ?いつから俺は音を楽しむことが出来なくなった?
ギターを持ったのは皆とだいたい同じ高校に入ったころ、当時はやっていたCDを朝から晩までかけて、エアーギターで家中を暴れまわっていた俺を見かねて母親が買ってくれた。日本のどこにでもある何不自由のない生活。ありきたりな平和が俺を包んでくれていた。
うん。この頃はまだ音楽を聴いていた。好きなバンドをコピーしたりして、よく理解のできない英語の詩を片手に喉がかれるまで一緒に歌ったりもした。
「そろそろコピーバンド辞めてオリジナルを作らないか?」
ドラムの吉野の言葉だ。ベースの前川も頷きながら俺を見る。そして俺たちは適当なコードを弾いてハミングするところから始まった。ジャンジャカ、ジャンジャカ、フンフンルルル。テープに録った音を再生させながら俺はオリジナルの歌詞を書こうとした。いろいろな歌詞を参考にもした。けれどもノートには一文字も書くことができなかった。理由は簡単。あまりにも俺の生活が平和だったからだ。多くの歌手におかれた不幸な身の上話に同調できなかったし、甘ったるい恋などしたこともなかった。ありきたり、全てがありきたり。不幸な身の上の奴らは俺の胸ぐらをつかみ怒るかもしれないが、俺が思うにロックにとって平和は厳禁。愛と平和の音楽の祭典は裏で戦争があってこそ。ベトナム戦争がなければジミヘンもノイズギターで国家を弾かなかったはずだ。
バンドはすぐに空中解散。吉野は別のバンドに引き抜かれ、前川は今はサッカーだと言ってサッカー部に入った。そして俺は音楽を聴けなくなった。自然とフェンダーのギターは埃をかぶった。
女だらけの病院は2度目であっても慣れず、薄いピンクの深いシートに座っても居心地は悪かった。横の本棚には育児の本とか絵本とかが並んでいる。俺には関係のない本。振り返った先の奥のテレビでは朝のワイドショーみたいなのがやっていた。視聴者の浮気話や別れ話を再現している。その前を大小様々なお腹の妊婦がトイレに行ったりきたり。
別れ話が先だったか、できてしまった話が先だったかなんて、今となってはどうでも良いことだけれども、電話の声はひどく冷たかった。
「できちゃったよ、陽性だった。」
俺はその声を聞きながら、枕もとの窓から陽が沈むのをゆっくりと眺めていた。
一週間前の話だ。
その日の夜、彼女と近所のファミレスで夜食をとった。俺にとっては朝食だったけれど。
俺はいつものようにハンバーグ定食、彼女はパスタのセット。電話の話が引っかかって思うように食事は喉を通らず、味はほとんどしなかった。
「ねぇ、陽性だったよ…どうする?」
落ち着いた声で俺の顔を覗き込む。口の中に残ったひき肉を呑み込んでから言う。
「俺は…俺は生んで欲しい。」
皿の上のブロッコリーをフォークで弄ぶ。自分でも聞こえるかどうかの小さな声だったのに、彼女の声は何もかも打ち消すかのように大きかった。
「何言ってるの?勝手なこと言わないでよ。産むのは私なんだよ、これからの私の人生はどうなるの?そういうの考えたことある?やる気もないのに夢ばっかり追いかけてる人に、人生を振り回される私の身にもなって。」
彼女から怒鳴られたのはこれが最初で最後だった。
「それに子供だって嫌いじゃない。」
そうだ、俺は子供が嫌いだ。よく泣いてうるさいし、わがままだし、自分勝手だし、世話がかかるし、まるで、まるで…。
「もう嫌いじゃなくなったから、だから、産んで欲しい。」
嘘だ。消え入りそうな声が口から勝手に漏れる。
「もし産んだとして、どうやって育てていくの、私たちもう別れるんだよ?」
思い出した。別れ話が先立った。『私は結婚したい人と付き合いたいの。そしてこれは最近思ったんだけれど、結婚するなら尊敬できる人と結婚したいの。でもあなたには尊敬できるところがひとつもない。将来性もない。だからもう別れたいの。』
都合の悪いことはすぐ忘れちまう。妊娠話の前日、彼女は確かに電話越しにそう言った。
俺は限りなくニートに近いニート予備軍。将来性について言われると何も言えないけれど、それに関しては多かれ少なかれ世の男の全てに言えるんじゃないの。そうは思ったけれども、俺はこの反論を呑み込んだままにした。
「俺一人じゃ無理かもしれないけれど、家族にも手伝ってもらうことになるかと思うけれども、それども産んで欲しいんだ。」
「産まれてくる子供の気持ちになってみてよ、自分が好きでもなくなった人との子だとわかったときどう思う?」
「それは、すごい不幸だと思うけれども…それでも産んで欲しい。」
なんで俺はこんなに産んで欲しいのかと自問する。
「言っておくけれども、私には産む気は全くないの。これは絶対に変わらない。」
「それでも…。」
答えは既にわかっている。俺には何も創り出すことができないからだ。
「よく泣くのね、いい加減に涙拭けば?」
本当だ、知らないうちにしずくが頬をポタポタと垂れていた。涙は止むことを知らず溢れ出ていく。
そのときの俺には泣くことしかできなかった。まるで、まるで…子供みたいだ。
「料理冷めちゃったよ、食べないの?」
フォークでハンバーグをつつく。口の中で冷めた肉が崩れていく。それをさらにすり潰しながら、少しずつ、少しずつ呑み込んでいった。
「先生、病室で一緒に手術の間まで待つことはできませんか?」
ヘンケルっていう拷問器具みたいなもので子宮を広げるのに5時間はかかるそうだ。俺はその間彼女と一緒にいたかった。
「う~ん、そんなに広くないからね、ちょっと、上の看護婦さんに聞いてみてくれるかな。」
明らかに返答がめんどくさそうな顔。眼鏡越しの目は俺とは目を合わせようとはしなかった。こいつが手術するのか?大丈夫か?
診察室を出ると看護婦のおばさんが階段前で待っていた。さっきの医者とは対称的におばさんからは昔から知っているような、何だか懐かしい温もりを感じた。
「今日はちょっと混んでるからね、一緒にいれる場所はちょっと作れないわ。」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、その存在だけでなぜか安心できる何かがあった。何度も生命の誕生にたずさわったかのようなベテランの風格があった。失礼ないいかたっだけれど、綺麗にしわの入ったおばさんだった。
「多分手術は5時からで、麻酔が切れる個人差があるけれど、会えるのはだいたい6時くらいじゃないかしら。それまで下で待っていてもいいけれど。」
塩ビのピンク色のソファにはもうこれ以上座りたくはなかった。とりあえず帰るというと、6時ごろに電話してみてとやさしい笑顔で言ってくれた。
「じゃあ、あとで電話するよ。がんばって。」
パジャマ姿の彼女はコクンとうなずき、看護婦さんに連れ添ってもらいながらよろよろと2階に上がっていった。
キーを回してエンジンを温める。6時間近くの間何をしようか。賢人たちはその6時間を使って実りあることを考え付くかもしれないが、俺には全くといっていいほど何も考えが浮かばなかった。何ひとつもだ。とりあえず思いついたことはアクセルを踏み、車を走らせること。とにかくこの場所から少しでも逃げたかった。
どこをどう走ったかなんて覚えていない。いろんな道を、くねくねとした道を、気の向くまま走らせた。気分転換に明るい曲をかけたけれども、ちっとも明るくはならなかった。カーステレオを止めて時計を見る。まだ10分しか経っていなかった。時間は残酷だ。嫌なときほど進みは遅く、必要なときにはもう過ぎ去っている。意識を他へ移さねば。そうだ、昨日からろくなものを食べていないことを思い出した。ポテトチップスと気の抜けたコーラー1缶。覚えているのはそれだけだ。30分くらい車を走らせた後、目に付いたドライブスルーに入り、一番安いセットを頼む。
人気のない道路の脇に車を止め、紙袋の中のハンバーガーをむさぼり食べる。食欲を満たすためだけに俺は食べ続けた。レタスの音が口に広がる。
どこで俺は道を間違えた?どこの曲がり角を曲がったためにこんなことになった?俺はこれからどこに行くんだ?様々な思考が交差したけれども、答えは何ひとつ見つからなかった。そして全て残らず食べつくすと、携帯のアラームをセットし、シートを倒した。
答えなんて見つかるはずもなかった。
なぜなら行くあてもなくさまよっているからだ。そもそも答えなんかあるはずが無い。
目的地がなければ道を間違えたことにすら気づかない。どこにもたどり着けずにさまようまま。けれども逆に言えば確かな目標と、正確な地図、そして体力さえあればやがてはゴールに近づけるかもしれないってことだ。
ひどく疲れていた。せめて俺は体力だけでも残そうとゆっくりと目を閉じた。
Bob MarleyのOne Love がむなしくこだまする。携帯のアラーム音だ。俺はそれを震える手で消す。冷え切った車内で身体は間接が曲がらないぐらい硬直していた。時計は5時半だった。すぐにエンジンを入れ、病院に電話すると手術は5分前に終わったそうだ。そして麻酔が切れるのがそれから1時間ぐらいかかると聞き電話を切った。
車を走らせ、最初に目に付いたコンビニで3個入りのおにぎりと、ホットのお茶を買った。財布の中には512円しか残らなかった。そして銀行には引き出せなかった438円が残っている。予想外の出費のおかげで俺の全財産は千円にも満たなかった。
ここはどこだ?コンビニの店員に病院の近くにあった大型スーパーの場所を聞くと、以外と遠くには来ていなかった。もっとわけのわからないところにいるかと思っていたのに、実際はちょっと裏の路地に迷い込んでいただけだった。
彼女から電話があったのと、車を病院の駐車場に停めたのはほぼ同時だった。
「今、目が覚めたの。どこにいるの?」
「病院の駐車場にいるからすぐに行くよ。」
「ずっと下にいたの?」
麻酔が効いているのかゆったりとした口調で問いかけてくる。
「いや、ずっとさまよっていたんだ。」
携帯を切り、病院の中に入ると2階へ通された。
ピンク色のカーテンで仕切られた一番奥に彼女の名前が書いてあった。
「入るよ。」
「うん。」
半身を起こした彼女がそこにいた。目はとろんとしていて蛍光灯のせいか朝よりも顔が青白く見えた。病院の連中が言うようにカーテンの中は待つには少し狭すぎるかと思われた。せいぜいベッドの横に立っているのがやっとだった。
「今さっき終わったみたいなの。診察台の上に上がったのは覚えているんだけれど…。」
さし伸ばしてきた手はすごく冷たく、俺は両手で暖めようとした。
「どう、調子は?」
振り返ると昼間の看護婦さんがいた。
「歩けるようになったら着替えて下の診察室に来てね。」
それだけ言うと忙しそうに装ってどこかに行ってしまった。
「大丈夫?歩けるか?」
「うん。」
彼女がコクンと頷いたので俺は抱きかかえてベッドから起こしてやる。
「じゃあ、着替えるから外で待っててね。」
波打つカーテンを背にし、廊下を眺めると、来たときには気づかなかったが、たくさんの光を集めた大きなガラスの部屋が廊下の反対側に広がっていた。俺は光に吸いつけられる昆虫のように、そちらに足を運び、よく磨かれたガラスに額をつけて覗き込んだ。小さなカプセルのようなベッドに並んだ6人の赤ちゃんがこちらを向いていた。そこにはプレートがついていて、両親の名前と生まれた日付が書いてある。中には今日の日付の子もいた。泣いている子もいれば、寝ている子もいたし、笑っているように見える子もいた。その小さな顔は薄いピンク色でかわいかった。もぞもぞと動くその小さな手にはこれから始まる大きな夢をつかんでいるかのようだった。その小さな小さな希望は俺に何かを問いかける。
自分が生きた証を残すために人は何かを創り出す。何も創り出すことのできない俺でも最も優れた希望を産み出すことができたのに、俺はそれを無駄にしてしまった。
もし、もう一度授かることができるなら…。
「かわいいね。」
いつの間にか横にいた彼女が俺の腕をつかみながら言う。
「うん、かわいいね。」
ショーケースが息で白く曇っていた。
「行こうか。」
「うん。」
よろけながら歩く彼女の手をとり、1階の診察室へと向かった。
彼女の家までまっすぐな道が続いていた。
道の先を少し欠けた月が透き通った夜空にぽっかり浮かんでいた。
空っぽの空間の中、俺はいたたまれなくなりカーステレオを点けて音楽を流した。
「そうだ、お腹減ったでしょ、おにぎりあるけれど食べる?」
「うん、もうペコペコでよく分からなくなっちゃったけれどいただこうかな。」
それでも3個も食べられないからと、俺が鮭おにぎりを食べていると彼女が言った。
「ねぇ、信じられる?」
「何が?」
冷めてしまったお茶を飲みながら答える。
「朝、病院に行ったときは3人で車に乗っていたんだよ。」
ドキリとして、しばらくの間言葉が浮かんだままだった。
スピーカーから流れる音がグッと心臓を押し上げる。
「そうか、じゃあさっきまでは俺はお父さんだったわけだ。」
「私はお母さんだった。」
指についた海苔をティッシュで指を拭きながら続ける。
「もし、また俺に子供を授かることができたとき、俺はいい父親になれるのかな?」
今度は彼女が黙る番だった。ステレオのボリュームを下げ彼女の答えを聞く。
「なれるよ、きっと…なれるよ。」
赤信号にさしかかり遠くの助手席を見た。まぶたの重そうな目で彼女がこちらを覗く。
「少し眠たくなっちゃった。」
そう言うと彼女は目をつむった。
街の陰から時々月明かりが差し込む。
輝く彼女の横顔は今朝よりも大人っぽく見えた。
「これからどうするの?」
玄関のドアに寄りかかった彼女が言う。
夜空を見上げた。都市から少し離れているせいか星がはっきりと降り注いでくる。大小さまざまな光が自分の存在を知らせようとしている。遥か何光年も離れたところから、俺はここにいると言っている。
顔を戻すと彼女の目は俺の中を見つめているようだった。
『これからどうする?』
永遠の命題のような問いかけに、俺は何も答えの見つからないまま首を振り、『それじゃあ。』と言ってその場を後にした。
部屋の明かりをつけると急に身体の力が抜けた。いつものようにテレビをつける気にはなれなかった。俺は床に腰を下ろし、辺りを見回わす。どうしたらこんなに散らかるのだろうか。まるで空き巣にあったかのように部屋は散らかっていた。昨日抜け出したままの布団、いつかの読みかけのスロット雑誌、電池の切れた時計、ケースにしまわれない山積みのCD、溢れかえるゴミ箱、そこに入りきらなかったビールの空き缶、脱ぎ捨てたデニム、置物になったギター…。
『これからどうする?』
俺は何かをつくらなければならない気がした。たとえあの希望に優るものは創れないとわかっていても、夜空に浮かぶ一点の小さな輝きにはなれるかもしれない。そして誰かに何かを伝えなければならない気がした。俺にしか見えない何かを。
誇りまみれのフェンダーに手を伸ばす。久しぶりの感触、弦は錆びついていた。
かろうじて覚えていたいくつかのコードを弾く。チューニングが狂っているし、指が錆に引っかかるがかまわずに続ける。
目を閉じ今日のことを思い出す。
今なら少しは歌えるような気がする。
朝日に燃えていたあの山々を
産まれることのなかった我が子を
希望に満ちた小さな小さなその手を
月に照らされた大人びた彼女を
夜空一面に散らばった様々な輝きを
美しい世界がもたらす
ありきたりな平和に満ちた
愛のうたを
完
人生の貴重なお時間を割いていただきありがとうございます。皆様の御評価・御意見・御感想が大変勉強になります。厳しい御意見でも構いませんので宜しくお願いします。