【3話】サキの葛藤
家に帰って、風呂に入って、一息ついたところで今日の出来事がフラッシュバックする。なんであんなことになったのか。
単に知識としては何となく知っていた。男性の持つ精子が女性の持つ卵子に受精して、うんぬんかんぬん。でもその行為については見たことも、その実体験を人伝てに聞いたこともない。
性とは”恥ずかしいもの”で、大人の世界では”当たり前のもの”。そういう認識があるだけだ。
ただ、子供を産むために必要なことであるなら、もっと堂々としているべきカテゴリーではないのかという疑問が以前から薄々あった。
人間の三大欲求と言われる、「食欲、睡眠欲、性欲」。食欲も睡眠欲もTVではその欲を発散させたり、その欲を促すことさえしているのに、その2つと同じくらい大事な”せいよく”が無下にされていいはずはない。だから、性欲は人に隠すべきものという世間の認識に違和感を覚えていた。
けど、今日ユウの持ってきた本を読んで、理解できた。
あれは”隠すべきもの”だ。
子供を作る、子孫を残すことは素晴らしいことと教えられてきたけど、そのための神聖な行為が、あんなに淫らで汚いわけがない。たとえ実写でなく絵であろうが、あれを読んでいる時、今までの分からなかった理屈が、今まで噛み合わなかった歯車が音を立てて噛み合っていくのを体で感じた。
そして理解できた。しかし失望もした。その在り方に。
でも、それ以上に衝撃だった事実も今日知った。
下ネタは奥が深い。
性行為という汚いものが、文学的表現によって芸術という美しいものにその姿を魅入られている。その芸術性によって、汚さを中に内包していると言っていいかもしれない。神聖とは呼べないその実態の汚さが、その行為中もしくは会話中の、”ことば”や”セリフ”を通したコミュニケーションによって詩という新たな境地に至っている。恐らく私を含め読者はその描写だけでなく、とくにそのセリフや文章にこそ注目する。単に性欲を満たすものではなく、性欲と詩を読むことの楽しさが共存しているのだ。例えるなら、食レポをする漫画が、漫画そのものの魅力(面白さ等)と食欲を刺激し、その味を想像することによって得られる疑似体験が共生してるようなものだ。
あれにも似ているかもしれない。たとえば”格闘技”。暴力という争いや迫害の象徴が、人間の残忍性やスリルを求める本性とも呼べる欲求を満たすため、”見世物”という新たな形態に変化したように。そしてそれが”スポーツ”となり、する人、見る人が増え、大衆文化として定着したように。
もちろん、すべてのエロ漫画やエロ漫画を描く作者が、このような詩的表現を重要視しているわけではないと思う。この5冊の中にも共通する点や恐らくテンプレとも言えるだろうという流れがいくつかあり、単に描写を盛り上げるためだけのセリフや、より世界に入り込めるための表現技法(率直に言うと絵本に文字を付ける・アニメーションにアフレコをするといった言葉の存在意義そのもの)にしか”ことば”が意味を持たない、”ことば”に意味を持たせていない(もしくは持たせる必要がないか薄い)作品が多いんじゃないかと思う。世間一般に、昨日までの自分にそう認知されていたように。
しかし世界はもっと複雑だ。
エロはすでに私の知らない世界でその進化を遂げていたのだ。
世界は知らないうちに回っている。
「はあ…」
湯船に顔を付けてみる。怖いので目を開けることはもちろんしない。
「気持ちいいのかな…」
顔を上げ自分の胸を軽く揉んでみる。体育の授業前の更衣室で他の子を見る限りは、胸の大きさは大きかったり小さかったり個人差は結構ある。クラスの男子グループの1つが胸の大きさについて真剣に議論しているのを、通りががった時に聞いてしまったことはあったけど、そういえばこの胸はどうなんだろうか。同級生と比べても小さくはなく、左右それぞれみかん一個分くらい体積はある。ちなみにユウは左右それぞれオレンジ一個分くらいとちょっと大きいし、スタイルが全体的に大人っぽい。
「はっ」
何をやっているだろうと我に返る。これじゃ本当にむっつりみたいじゃんか。私は別に変態ではない。未知の感覚に驚いたり、考察しているだけなのだ。
とりあえずは。現状の確認と今後の方針について。
私はあのエロ本を読んで、恥ずかしさと、その在り方への失望もした。一方で新たな文学の発見という感動と、その私の知らない未知の可能性に期待もしている。だから、私はこの可能性について探求しなければならない。誰でもない私がそう望んでいるから。好奇心こそ人間の生きる価値であり、人間らしさの象徴でもあると私は思う。歴史上の研究者が、かつては金持ちの娯楽として研究を行っていたように。私もそうでありたい。
しかし、その探求をするにあたって、この形容しがたい恥ずかしさと、その在り方への失望という社会性を含んだ話題は障害だ。価値の有無にかかわらず、純粋な研究に、探求心に、有象無象の他人は邪魔だ。必要ない。
だから私は今はこの性の話題について、私は恥ずかしさとその在り方についての疑念は無視しようと思う。そういえばお母さんも言っていた。子供はどうやってできるの?って質問に、大人になればわかる、って。私はまだ大人じゃないから、子供のでき方についてまだ考えなくてもいいんじゃないか。大人になった時に考えれば。まだ成人するまで3年ちょっとある。
それよりも今はこの新たな文学の可能性について探求したい。このジャンルが画期的であることは、長年本を読み続けてきた私にとって、確信的だ。ここまで衝撃を受けた世界に出会ったのは、これがはじめてかもしれない。もっと深く知って、私の世界を広げたい。そういう方針に結論付けた。
「ふぁぁぁ~」
そろそろのぼせてきた。考え事がすぎたかもしれない。でも情報と感情と理論で錯乱した洗濯機と化した脳内をどうにか整理することだけはとりあえずできた。研究はこれからだ。
「またユウと話さないとなあ」
見せてもらった本については、私が興奮して一方的にしゃべってしまっただけで、ユウの見解を聞いていなかった。私が言い終わった後は恥ずかしくなって、ユウにからかわれただけの気がするが、少なくともこのもやもやはユウも抱えているのか、少し気になる。
このもやもやを物理的に、”一人で”発散する方法はもちろんあるのだが、この時の私はまだ知らない。気づいていない。