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湯船

作者: ニヒル

 それは、何ら平素と変わらない、平日の夜の出来事であった


 その日も会社で朝から晩まで働き、力ない操り人形の様にゆたゆたと歩きながら帰路についた。


「どすん」


 ソファに体重を預けると、大きな溜息を中空に吐き出し、ふと時計を見遣る。


 既に夜の10時を廻っている。意気なく、食欲も湧かないので、夕食の前に風呂に入る事にした。


 いつも通りに風呂を沸かし、さあ風呂に入ろうと風呂場に向かうと、曇りドア越しに、何やら異臭が漂ってくるのに気がついた。


 その得体の知れない異臭は、何やら腐った魚を想起させる様な刺激臭であり、私はその異臭の正体を探るべく、顔を遠ざけるようにしながら、指先でもって曇りドアを開けたのであった。


 風呂場の中には依然、異臭が漂っているが、別段普段と変わった様子もなく、異臭の正体を掴めぬまま、訝しみながら浴槽の蓋を開けた。


 すると、なんたることか、浴槽の湯が地獄の血の池のように、禍々しく一面赤黒に染まっているではないか。


「あっ」


 私は、その余りに見慣れぬ異様な光景に、頓狂な声を上げ、その場で腰を抜かしてしまった。


 勿論心当たりなど有るはずもない。動揺によって乱れた呼吸を、僅かに残る理性で整えるようにしながら、私は少しの間思案に耽った。


 こんな得体の知らぬ不気味な湯に軀を浸かる訳もない。私は一ち早く湯船の栓を抜いて、この湯を捨て切ることに決めた。


 不思議なことに、この不気味な湯は、鈍い音を立て、排水溝に渦を巻いて吸い込まていく内に、徐々に異臭を収めてゆき、湯が完全に流れ終わる頃には、今までの出来事が嘘であったかの様に臭いを消し去ってしまうのであった。


  一体全体、先の出来事は如何にして起こったのであろうか。余りの不気味さに思わず不安を覚え、おちおちと食事につくことも出来ぬまま、まんじりともしない夜を明かした。


 後日、藁にも縋る思いで、先の出来事を霊感の強い友人に相談してみる事にした。


 彼は大学時代からの知り合いで、同じ職場ということもあり、非常に信頼の置ける人物であった。


「なるほど。それは相応の対処が必要だな」


 彼は一通りの説明を聞き終わると、なにやら神妙な面持ちでぽつりと言った。


「僕が今から見に行こうか。いや、ぜひ僕にその部屋を見にいかせてくれないか」


 力の込もった語調に気押され、急遽、彼を自室に呼び込む事となった。


 不思議なことに、部屋に入るや否や、彼は唐突に顔をしかめて、悲しげな表情を泛かべたのである。


 「そんなに悲しそうな顔をして、一体どうしたんだい」


 「いや、なんでもない。それより、早く風呂場を見せてくれないか」


 私は彼を風呂場に案内して、彼にその場で湯を張って見せた。


 すると、なんたることか、湯船に湯が溜まってゆく内に、忽ち透明であった湯が、再び赤黒く、あの禍々しい色に塗り替えられていくではないか。


 「ほら、これを見てくれよ、この前とまったく同じだよ、一体何が起こってるんだ」


 狂ったように大声で捲し立てると、わなわなと震えた軀を抑えながら、彼は訥々と語った。


 「矢張り、そうだったか...、僕はね、昔から幽霊が見える特異な体質でね、見たくないものも見えてしまうんだよ。それでね、今僕の目の前に居るのはね...」


 「矢張りってどういう意味だい、君は霊感が強いから幽霊でも見えたのかい」


 「違うよ、幽霊じゃない」


 

「では何がーーー」


 

「君の死体だよ」


 衝撃が走る。一瞬時が凪めいて停止する。


 「僕の死体?君は頭でもおかしくなったのか。僕は紛れもなく、今ここに存在しているじゃないか。今日も会社にだって行っているはずさ」


 「昨日も今日も、出社していないじゃないか。出社記録にも君の名は見当たらなかった」


 「有り得ない、詭弁も程々にしてくれよ」


 彼は、全てを悟った、落ち着いた語調で続ける。


 「詭弁なんかじゃないさ。それ、湯船に君の死体があるのが見えるだろう、手首を切って自殺した君の死体がーーー」


 視線を湯船に落とすと、湯船に一杯になった赤黒い液体が、不気味に揺れているのが見える。


 「嘘だ、決して信じやしないぞ、死体なんて、ある訳がないだろう、ほら、僕には何も見えやしないんだ」


 再び意識を湯船に向けてみる。すると、何もなかったはずの赤黒い湯から、徐々に、足首、ふくらはぎ、太腿、胸、全身が、蝋人形のように真っ白な死体が、姿を現す。


 瓜二つの顔に、浮世を嘲笑うかのような微笑を湛えながらーーー


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