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俺が異世界でアンデッドになった話  作者: 仁科
第一章
7/24

魔王の城3

 

 筋力トレーニングを始めて、わかったことが二つある。

 まずは、エリアスの訓練が思っていたよりずっと常識的な内容だったことだ。

 最初は必ず全身を伸ばすストレッチから始め、最後も入念にストレッチをして終わる。訓練中も適度な休憩を挟み、決して無茶なことはさせない。

 当面のトレーニング室としてノアたちに宛がわれたのは大広間だった。最初は広すぎて気後れしたものの、訓練の中で走ったりもするので、やはりある程度の広さが必要だったのだろう。訓練を始めて二週間ほど経った今は、そう思う。


「正直、意外でした。もっと、ハードな特訓をするのかと思ってたんで」


 不眠不休で倒れるまで走り続けるとか、一万回腹筋するとか、我ながら随分愉快な想像をしていたものだ。朝から数えて何度目かの休憩時間、タオルで汗を拭いながら、ノアはふと思い出したそれを本人に打ち明けてみた。


「いやあ。ははは。昔は本当にそういうやつをやってたんだよな」


 給仕長が差し入れてくれた水をぐびぐびと豪快に煽りながら、エリアスはそう白状した。給仕長特製のスポーツドリンクは、体を冷やさないよう常温で、レモンの風味をほんのりと加えてある。硝子の水差しに入って、目にも涼やかだ。


「戦争時代は、俺も散々殺したが、こっちもバタバタ死んでいったからなあ。悠長にやってる暇はなかったし、時間をかけて育てると……後が、辛いしな」


 そんな風にしんみりした声を出されると、何と言っていいのかわからなくなる。自分も水を飲むことで、やんわりノアは返事を避けた。


「とまあ、そんな感じで、オデットにも同じことをやったわけだ。猛獣蠢く森で一週間サバイバルとかさ」


 オデットは戦争孤児だ。親を亡くしてさ迷っているところを、エリアスが見つけて拾ってきたのだと言う。エリアスに拾われたとき、オデットはまだ7歳だった。そんな風に食堂でみんなから伝え聞いた話を思い出し、これにはさすがにドン引きして「うわあ……」とノアが眉をひそめる。


「わかってる。わかってるから何も言うな」


 反応からして、他にも批難されたことがあるのだろう。今の自分には耳が痛いと、両てのひらをノアに見せて、それ以上の追責をエリアスが避ける。


「戦後は特に忙しくってなあ。リュカのやつも、全体に目を取られて、細かいところのフォローまで手が回らなかったんだろう。俺も忙しかったから、尚更そういう、自分が楽な稽古ばかりになっちまった。そこで死ぬならそれまでだと思って……まあ要するに、成り行きで拾ったはいいものの、あんまり興味なかったんだよな。子育てなんて、柄でもねえし。それでもあいつは頑張った。弱音ひとつ吐かず、涙のひとつ見せずについてきたんだ」


 少しだけ何か悩むような沈黙を置いて、「ええい、この際だ。全部話しちまおう」とエリアスがコップの底でドン、と床を打った。


「一度だけ、岩山に置き去りにして、忘れちまったことがあってよ」


 自分が強いた無茶な訓練で、いつオデットが死んでもおかしくなかったことは理解しているのだろう。エリアスの表情は暗い。


「それに気付いたときも俺ぁ、あんまり慌てなかったなあ。リュカのやつに、早く迎えに行けってせっつかれてよ。今度こそ泣かれっかなあ、めんどくせえなあってそればっかり……今思うと最低だよな」


 ノアの知るエリアスは、面倒見が良く誰もに慕われるような気の良い武人だ。最低だと本人がなじった面影を、今のエリアスに見つけることは難しい。まるで別人の話を聞いているようにさえ思える。


「迎えに行ったとき、あいつぁ、言い付け通り一人で岩山を上りきってよ。岩山の上で膝を抱えてちんまくなってた。いつもみたいに無表情だったんだ。その時まで」


 明かり取りの天窓から、不意に光が射し込んできた。

 外は快晴で、エリアスは窓に背を向けて座っている。広い背中に遮られて、胡座をかいたエリアスの膝に影が下りた。後悔という名の闇を、今でもそこに抱いているかのように、エリアスの視線が落ちる。


「泣かれたよ。俺の顔を見るなり、口だけは真一文字に引き結んで、ぼろぼろ涙をこぼしてよ」


 何度も何度も、繰り返し思い出しては後悔してきたのだろう。

 こうして世間話をする中でまで、ふと思い出してしまうくらい、エリアスは今でもその涙を忘れられずにいるのだ。


「俺にしがみついてさ。置いてかないでください、何でもするから、お願いしますってよ。何度も何度も繰り返し言うんだよ」


「死にたくなったね」と吐き捨てるようにエリアスは続けた。


「俺はその頃、大分参っちまってた。親しい人間をみんな亡くして、自棄(ヤケ)になってたんだ。自分のこと以外に目を向ける余裕がなかった。そうやって、俺が自分ばかりかわいそがって立ち止まってるうちも、あいつは必死で生きようとしてたのにな」


 上から下にぐいっと手のひらで顔を撫で下ろし、ぶはっとエリアスが息を吐く。まるで何年も息の仕方を忘れていたかのように深く息を吸って顔を上げ、「目が覚めるような思いだったよ」とエリアスは語った。


「こんなちっちぇえガキが頑張ってんのに、俺は何をウジウジやってんだって」


 そんな風に自らの転機を振り返り、胡座の両膝に置いた手を、ぎゅっとエリアスが握り締める。


「あいつは夢魔だ。サキュバスになるか、インキュバスになるか、性別だってその頃はまだ定まっていなかった。教えられる前に親が死んで、力の使い方もわからねえ。ただ俺に言われた通りにやるしかなかったんだ。帰る場所もねえ。行く場所もねえ。安心して──泣ける場所もなかった。そんなことに、その時ようやっと気付いたんだ。大袈裟かもしれねえが、こいつを一生守ろうと思ったよ。それくらいしねえと償えねえってな」


 いつからか飲むのを忘れていたコップの水を、ノアがゆっくりと飲み干す。その杯が空になるのを待って、「悪い。思ったよりなげえ話になっちまった」と気まずそうにエリアスは謝った。


「要はそれで反省したんだな。戦争も終わって、無茶な訓練の必要もなくなったし。周りが見えるようになって、自分が下のやつらにどんだけ怖がられてたかってのもわかったしな。今思うと申し訳ないことをしたよ」

「……っていうか、それ、ちゃんと本人に謝りました?」


 飲み干したコップを脇に置いて、ノアが尋ねる。衝撃的な話ではあったが、二人の間できちんと決着がついているのなら、今更外野が言えることは何もない。喧嘩のようなじゃれ合いはいつものことだが、少なくとも日頃オデットがエリアスに向ける眼差しに、薄暗いものはなかった。


「言ったよ。こう……その場で抱き締めてな。すまなかった、一生お前を守るから許してくれって」


 腕を広げて、再現ディスチャーをするエリアスに、「いやいやいやいや」と立ち上がって軽く柔軟しながらノアが突っ込む。この時間に水分補給をしたあと、軽く組み手を交わすのが最近の流れだ。


「絶対おかしいでしょそれ。唐突すぎますよ」

「まあ、簡単に許されることじゃねえわなあ」


 二人ぶんのコップと水差しを部屋の隅に寄せ、ノアに合わせて立ち上がりながら、「でも、あいつは許してくれたよ」とエリアスは笑った。


「ただ、あなたに守られるつもりはありませんって最初にきっぱり言われちまった。それから実際、昼夜問わず棒切れ振り回して、さっさと剣なんか覚えてさ。今じゃ肩を並べて戦って。強い女だよ、ほんとに」


 片腕を上げてもうひとつの手で肘を持ち、腕を伸ばす体操をしながら、「ところでちょっと、聞きたいんですけど」とノアはエリアスに話を振った。


「エリアスの好みって、どんな女性なんですか?」


 エリアスは不思議そうに「随分と話が飛んだなあ」と首をひねったが、ノアの中では何も話を飛ばしたりしていない。


「そうだなあ。素直に言っちまうが、見た目はオデットみたいなのが好みなんだ。あいつは男の夢を反映するサキュバスだから、ずっと一緒にいた俺の好みに寄っちまったんだろ。しかし、何しろあいつはやかましいからなあ。もう少し淑やかな女が好きだな、俺は」


 彼女が聞けば怒り狂いそうな話だが、オデットの不在を良いことに、エリアスは律儀に答えてくれた。

 噂をすれば影、というが、そこでバーンとドアを開け放ってオデットが入ってくる。魔王の側近という役職こそ与えられているものの、名目だけであんまり機能していない。割とリュカと別行動していることも多い二人である。


「あら? もう組み手は終わったんですの? 随分早いですわね」

「悪いな、これから始めるところだ」

「まあ。でしたら、お早くお願いしますわ。この後の予定もありますので」


 オデットの言葉を受けて、部屋の中央で、エリアスとノアは向かい合った。相手に対して半身で構え、片手を前に、片手を後ろに引いて脇を締める。足の向きやらは定まっていない。異世界より持ち込まれた合気道だの空手だのが、色々混ざりあってできた構えらしい。


「行きますっ!」


 最初は馬鹿正直に突っ込んでいくばかりだったノアだが、一週間もする頃には多少の戦術を練るようになっていた。圧倒的なスタミナと膂力がエリアスの武器なら、機動力がノアの武器だ。基本戦法は、縦横無尽に、時には空気すら蹴って飛び回れるブーツを使ったヒット&アウェイ。

 とにかく数を稼ぐことが大事だ。間断なく打ち込んで、隙を探す。あるいは隙ができるように誘導する。エリアスは打ち込まれるノアの拳を、油断なくひとつひとつ叩き落とす。

 ここ2、3日は、エリアスの方からも攻撃が飛んでくるようになっていた。エリアスの攻撃はいちいち重たいので、良いのを貰うと気絶は免れないが、攻撃の際にはエリアスにも隙ができる。右手で突き出された拳を右手で受け流し、反動を利用してくるりとターンすると、ノアはエリアスの腹を狙って左肘を繰り出した。渾身の力を込めたはずの肘だが、エリアスは難なく空いた左手で受け止める。大柄なエリアスに、成長したとはいえまだまだ細身のノアだ。力量の差はなかなか埋まらない。


「うおっと。今のは危なかったなあ」

「……あり、がとう、ござい、ました」


 本気で攻めたつもりだったのに、完全に止められてしまった。ちょうど良い頃合いだったので攻撃を止め、息を弾ませながらノアが礼を言う。


「うーん。今のは相手の左手をどう制すかが問題だなあ。どう思う、オデット」

「難しいですわね。左足で押さえられれば良いのですが、それだとどうしても攻撃力が下がります。お腹ではなく、裏拳で顔面を狙ってみては? どんな相手も、鼻面を殴られれば多少怯みます。その隙にたたみかけるというのは」

「おいおい、左手を制す話だろ。どこを狙おうが、左手が自由なら防がれる危険がある。ていうか可愛い顔してえげつねえな、お前」

「わたくしは剣士ですわよ! 剣さえあれば今の一撃で、左手ごと胴を真っ二つにできましたわ!」

「だからえげつねえって。それに、今は素手喧嘩(ステゴロ)を想定した訓練をしてるんだ。武器が使えなくなった状況を考えてな」


 エリアスとオデットが戦術談義を始めてしまったので、耳だけはそちらに置きながら、ノアは一人最後のストレッチを始めた。組み手の前の軽い柔軟とは違う、強ばった体をしっかりほぐすための体操だ。

 筋力トレーニングを始めて、わかったことのもう一つ。

 予想外に、ノアは筋肉がつきやすい体をしていた。これも体質に()るもので、運動で切れた筋繊維が間を開けず超回復するためだ。森を駆け回って遊んだ経験が活きたのだろう、特に下肢はみるみるうちに力がついた。元々の骨格が違うのでエリアスのように筋骨たくましいとはいかないが、技術に先んじて大分体の方は仕上がってきた。

 そのため思ったよりずっと早く訓練は進み、現在のノアは、午前中を筋トレと組み手に当て、午後はオデットから剣の指導を受けている。


「おっ。悪いな、一人でやらせちまって」


 最後のストレッチも中盤になって、ようやくノアを放置していたことにエリアスが気付いた。それに少し遅れて、「大変ですわ!」と真っ青になったオデットが泡を食って立ち上がる。


「魔王様がお待ちなんですの。早く行かなければ!」

「えっ、行くってどこに?」


 いつもは午後の訓練の前に食堂に行き、食事休憩を挟むのが常だ。スケジュール的にオデットは午後から合流でも問題ないのだが、何故かいつも食事前に合流する。その疑問の糸口をさっき見つけてしまった気がするのだが、そこはそれ、とにかくここまではいつも通りだったのだ。

 平常時は背中に折り畳んでいる羽を広げたオデットに、ノアは目を丸くした。当然、エリアスも何も聞いておらず、二人して目を見合わせる。


「今日は風が気持ちいいから、外で食べましょうって魔王様がおっしゃって。お弁当はもう運んでありますの。素敵でしょう」

「お前なあ、わかってんのか? そりゃあサボる口実だ。簡単に騙されやがって……女はそういうの好きだよな」

「ええ、だいすきなの」


 機嫌良さそうににっこりと唇をほころばせ、オデットははっとしたように口元を押さえた。誰も突っ込んでなどいないのに、ふるふると震えながら顔を真っ赤にして、「いいから、早く行きますわよ!」と二人を急かす。


「サキュバスの羽で二人を抱えて飛ぶのは無理ですわ。エリアス、ノアはあなたが抱えてきてくださいね」


 羽をはためかせてふわりと浮き上がったオデットは、大広間の天井付近に一つだけある天窓を開けてひょいと外へ飛び出した。「おう」と短く応じて、エリアスも翼を広げる。オデットの羽とは違い、エリアスのそれは、普段は見えも触れもしない翼だ。エーテルの翼に魔力を与えて実体化させるのだという。

 エリアスは竜人族(ドラゴノイド)だ。本気で魔力を練れば、『竜化』もできるという。

 7つの種族の境界は実は割と曖昧で、一般に魔性の力──魔力を帯びたものが魔族と呼ばれる。獣人(アニマ)人魚(マーメイド)の中からも、もちろん人族(ヒューマン)からも魔族は生まれる。そしていつの時代も、異端は弾かれるものだ。それぞれの種族を追われ、半端者同士が身を寄せたのが魔族の起源である。ゆえに、彼らの歴史は比較的浅い。その理論で言うと魔族に当たるはずの竜族や妖精族は、夢魔のような一部を除いて、据え置きでそのまま呼称されている。人族の害になるものが魔族と呼ばれていると言っても齟齬はないだろう。勝手な基準だ。

 その中に置いて、竜人族は最も特殊な一族である。竜人族は、ずっと昔から竜と暮らしてきた一部の人族(ヒューマン)が、竜の加護を得て権能の一部を譲り受けたもの。その成り立ちから、竜人族は例外なく全ての者が魔力を持つ。ひときわ高い戦闘力を誇るがために戦争では矢面に立ち、それゆえに先ほどエリアスが語った通りほとんどの者が戦死した。エリアスは数少ない生き残りなのだ。


「やれやれ、やっと来たか」


 城がある島から海を挟んで、少し行った先の小島でリュカは待っていた。大きな岩の陰で釣糸を垂らし、水の入った桶をかたわらに、呑気に釣りなんかしている。地べたに腰を据えてだらしなく足を崩し、とても一城の主とは思えぬだらけっぷりだ。


「あんまりお前たちが遅いものだから、ほれ見ろ、2匹も釣ってしまったぞ。腹が減ったから、そろそろ食べようと思っていたところだ」


 言葉通りリュカのそばでは、串を打たれた大きな魚が二匹、焚き火の上で炙られていた。ぱちぱちと音を立てて、いい具合にこんがり焼けている。


「ふふ、興味があるか。おいで。この釣竿をな、こうやって持つんだよ」


 体よくノアをおびき寄せ釣竿の番にしてしまうと、リュカは串の一本を取って荒塩を振りかけ、あんぐりと魚にかぶりついた。


「魔王様! 子どもをいじめるのはおよし下さいませ!」


 オデットに怒られて、「少し悪ふざけが過ぎたか」と笑いながら、リュカが片手に魚を持ってやってくる。差し出されたもう片方の手に釣竿を返そうとした瞬間、釣竿に当たりが来た。


「あっ」


 ちょうどお互い力を抜いたタイミングだったため、たちまち釣竿は海にひきずり込まれてしまう。岩でできた島は、ぐるりと周りを潮に削られてきのこ型になっており、取りに行くのも戻るのも難しい。寸でのところで細い釣竿を掴み損ねたノアは、「すいません」と恐縮して謝った。


「なんの」


 ひょいと後ろを向いて、リュカが海の中に尻尾を差し入れる。エリアスの翼と同じで普段は見えない、髪と同じ白銀色をした狐の尾だ。

 尻尾でぐるぐると海をかき混ぜたリュカは、「あ、痛、いたた」などと言いながら、すぐに魚を一匹水揚げした。


「……尻尾、初めて見ました」

「ん? そうだったか? 実は9本あったんだぞ」


 魚に噛みつかれた尻尾を抱き寄せ、ふーふーと息を吹き掛けながらリュカが言う。

 リュカが、千年生きた狐の化生(けしょう)なのだと聞いたことはあった。あったが、初めて見る片鱗がこれとは如何なものか。


「尻尾ならわたくしだって、ほら!」


 先端がハート型をした細い尻尾をヒュンっと鞭のようにしならせて、オデットが海に突き刺した。串刺しになった魚が、陸に放られてピチピチと跳ねる。


「何の勝負をしてんだよ……そもそも、弁当があるんだろ」

「そうでしたわ!」


 呆れたような顔で言いながら、そう遠くはない場所に、エリアスがどっかりと座り込んだ。嬉しそうに駆けていったオデットが、どうやら手作りらしい弁当の包みを広げ、サンドイッチをエリアスに取り分けている。

 オデットが置いていった魚に見よう見まねで串を打ちながら、「王様。オデットってもしかして……」とこっそりノアは聞いてみた。


「うむうむ、かわいかろう? 私くらいの年になると、あの年頃の色恋沙汰というのは、孫世代のままごとを見るようで、まこと微笑ましい。全く想いが通じてないところが、見ていてもどかしくもあるがな」


 もどかしいと言いつつ完全に楽しんでいる目で、ころころと笑いながら、リュカがどこかから取り出した酒を煽る。


「完全に酒の肴にする気満々じゃないですか……」

「ふふふ。オデットのやつめ。エリアスの好みが淑やかな女だと知って、口調だけは改めたんだがなあ」

「ああ、それであんな口調なんですね……」


 何だか努力が斜め上にから回っているが、とにかく、今後あの二人の喧嘩は真面目に受け取らなくて良さそうだ。今度からみんなに混じって野次でも飛ばしてみようかと迷うノアの裾を、足元からちょいと、引くものがあった。


「あのー、もしかして、釣竿、落としました?」

「えっ? うわあ!」


 何気なく足元を見ると、なんと海の中から裸の女の子が生えている。そのあまりにも非現実的な光景に心臓が縮み上がるほど驚いて、バランスを崩したノアは派手に尻餅をついてしまった。


「こけた!」

「こけたわ!」


 いつの間にこれだけ集まったのか、何人もの男女が身を乗りだし、転んだノアに好奇の目を向けてくる。次から次へと岩肌に押し寄せてくる波を物ともせず、キャッキャッと声をはずませて、彼らは楽しそうに笑い転げていた。


「ふふふ、かーわいい。ねえ、この釣竿、あなたの?」

「私のだ。わざわざ拾って届けてくれたのか。そんな大層なものでもないのに、ありがとう」

「気にしないで、魔王さま。だってわたしたち、人間の男の子を見てみたかったの」


 最初に話しかけてきた女の子から釣竿を受け取りながら、「セイレーンの子どもたちだ」とリュカは紹介した。言われてみれば、みな一様に長く伸ばした髪の毛の先が、魚のヒレのように硬質化している。興味津々なノアに気付いたのか、「見て見て!」と陸に乗り上がってきた女の子が、ぱたぱたと尾びれを振ってくれた。腰から上は人間と変わらない外見だが、腰から下が魚になっている。白羽立つ海の中まではよく見えないが、髪の色も尾びれも色とりどりで、こうして集まるとまるで海に花が咲いたかのように華やかだ。


「セイレーンたちは、日中海の激流の下で眠っていて、夜になると歌を歌いに陸へ上がってくる。歌うのが何より好きな種族なんだ。そしてその歌には魔力が宿る」

「本で読みました。言葉でその魔力を操り、『言霊』という不思議な力を行使するのが、セイレーンだと」


 セイレーンとは、人魚(マーメイド)が魔性を帯びたものだ。つまり魔族と呼ばれ、迫害される側である。こんなに美しい種族までもが、夜に閉じ込められている。


「親に黙って抜け出してきたんだろう。今起きていると夜に起きられなくなるぞ」

「ごめんなさい、魔王さま。気をつけるわ。でも、今度はイーディス様と違って女の子じゃないのね。わたし、女の子も見てみたかったな」

「馬鹿。それ以上言っちゃだめ。じゃあ魔王さま、おやすみなさい」


 一瞬動きを止めたリュカを見て、一番年上らしい女の子が、慌てて友人の口を塞ぐ。そしてどことなく気まずそうにそそくさと尾びれを翻し、とぷんと海の中に消えていった。


「ああ──おやすみ」


 水面を覗き込んで、優しい声でリュカがセイレーンたちを見送る。うつむいた拍子にさらりと髪が頬に流れて、その横顔を隠した。来たときと同じように音もなく、セイレーンたちが海の中に消えていく。イーディスという名前が出た瞬間リュカが動きを止めたのを、もちろんノアも見逃していない。


「……イーディス様って誰ですか?」


 いつまでも振り返らないリュカに焦れて、ノアは直球で攻めてみた。


「俺の他に、人間がこの城にいたことがあるんですか?」


 そのことばかりが気になって、ノアの口を走らせる。何故リュカが振り返らないのか、いつもなら考えて身を引けるその一線を、何の準備もなくノアは飛び越えてしまった。城の方から吹いてきた強い風が、ゴオゴオと音を立て、リュカとノアの髪を揺らす。

 長い沈黙の後、ため息をついて振り返ったリュカは、「この城に人間が来たことはない」とどこか寂しそうな顔で告げた。


「この城は、イーディス様が亡くなられた後に建てたものだ」


 いつの間にか背後に立っていたエリアスが、ノアの肩を掴んで、(あるじ)の代わりに説明した。分厚い手のひらから、何故だかこれ以上踏み込ませまいという意思を感じて、少し高いところにあるエリアスの顔をノアが見上げる。


「フォーリナーでも何でもない、普通の、人間の女の子でしたわ」


 リュカとノアの間に立って、オデットが教えてくれた。オデットもまた、どこかリュカを庇うような位置に立っている。何か良くないことを聞いてしまったのだと、ようやく我に返ってノアは言葉を飲み込んだ。


()()い。二人とも、そう恐ろしい顔をするな。ノアも、そうかしこまらんで良い」


 表情のかたい部下たちを片手を振ってたしなめながら、「悪かった。別に、隠していたわけではないのだ」とリュカは謝った。


「ただ、イーディスは100年も前の人間だからな。あのセイレーンたちだって、話に聞くばかりで会ったことはない。説明する必要を感じなかったのだ」

「ご、ごめんなさい……王様、俺……」

「気にするな。お前は、もう何年も人間との交流を絶っているからな。久方ぶりに人間に会えるかもしれんと思って、気が(はや)ったのだろう。あの様に言われれば、お前が気になってしまうのも無理はない」


 ノアの心の動きをノアよりも正確に読み取って、しょんぼりと項垂れた頭を、ぽんぽんとリュカが撫でてくれる。

 混乱していたノアの頭が落ち着くのを待って、「イーディスはな」とリュカは教えてくれた。


「かつて私の、妻だった人だ」


 驚いて顔を上げたノアに「人魔戦争を終わらせたのは、私ではなく、彼女なんだよ」と真剣な目でリュカが続ける。


「っと……魚が丸焦げになってしまうから、続きはまた今度な」


 そんな話をしたかと思えば、薪のはぜる音を聞いて慌てて話を切り上げ、リュカは魚番に戻ってしまった。「ああ、最初の一匹はもうすっかり黒焦げだ」と嘆き、「残った魚をあげるからおいで」と何事もなかったかのようにノアを手招く。


「リュカのやつはああ言ったがよ……下手なことは聞かんでやってくれ」

「イーディス様のことは……とても悲しい出来事でしたの」


 なにかと衝撃的な話を小出しにされた上、説明もなく放置されて、疑問ばかりが残る。けれど寂しげなリュカの瞳を思い出せば、今はもう、何も聞こうとは思わなかった。みんなの心に波風を立てるつもりもない。こっそり耳打ちされた二人の言葉に頷いて、リュカの元へとノアは戻った。近くに広げていたお弁当を持って、後ろから二人もついてくる。

 みんな揃ってから始めた食事は、空腹も手伝って、意外にもおいしい昼食になった。


「そう言えば俺、魚ってあんまり食べたことありません」

「言われてみれば、エルザの住んでいる辺りは森だからな。わざわざ遠い海に出ずとも、獣の肉には困らなかろう。食べたことがないのなら、さあさ、味見してみるが良い」


 目の前に突き出された串をおっかなびっくり受け取って、リュカに言われるまま、ノアが焦げた皮を少し削る。皮を剥ぐと、中から湯気とともに、ふかふかの白身が現れた。リュカに分けてもらった目の荒い塩をぱらぱらと振って、思いきってかぶりつく。


「はふっ、はっ、熱っ」


 骨にそって歯を滑らせ、たっぷりと太った身をこそぎ取ると、真っ先に潮の香りが口から鼻に抜けていった。ちょうどいい具合の塩気と、じゅわっとした魚の甘い脂が、口の中いっぱいに広がる。思わず夢中になって、ノアは魚にがっついた。


「この辺りは激流だからな。魚の身も締まって旨かろう。秋になればまた、脂が乗って旨いんだがなあ。もっと食べるか?」

「いいんですか? 食べたいです!」


 それぞれの胸に残ってしまったであろう澱みを振り払うように、わざとはしゃいでノアが言う。


「うーん。若者の食欲は好ましいな。このサンドイッチもおいしいぞ。ほれオデット、もっと魚を取っておやり」

「わたくしが取るのですか!?」


 子どもらしくない気遣いに大人たちも乗ってくれて、どっと場に笑いが溢れた。ぎこちない雰囲気も、食事を進めるうちに段々と元に戻っていく。


「ところで、リュカよう。お前、わざわざ俺たちを呼んで、何しに来たんだ? やることあるだろ、色々さ」


 部下二人にノアを任せ、この時間は大抵政務室に籠っているリュカに向けて、ふと今更感のある問いをエリアスは投げた。


「うん? ノアがそこそこできるようになったとオデットに聞いて、視察に来たんだよ」


 どうやらサボり癖のあるらしいリュカを気安く肘で小突いて、「嘘つけ」とエリアスが笑う。


「他にも何かあるんじゃねえの?」

「うーん……」


 本当にサボる口実だと信じて疑ってなかったのか、言葉を濁すリュカに、「おいおい、マジで何かあるのか?」とエリアスが顔色を変えた。


「あ、いや、別に大したことではないのだ。また今度で構わぬ」

「大したことないなら言えるだろうが」

「もしかして、人間たちに何か動きがあったんですの? フォーリナー( ノア )がここにいるのがバレたとか……」

「いやいやいや。本当に大したことないのだ。ちょっとした助言をと思っただけで……」

「じゃあ尚更聞かせてもらわねえと困るだろうが」


 逆に大事(だいじ)に取ってしまった部下二人と一通り押し問答を交わし、「そうは言うが……そうは言うがな……」とリュカがほとほと困り果てて肩を落とす。


「このタイミングで言わねばならんのか……うう、嫌じゃのう」


 そう言いノアを見るからには、ノアに関連するちょっと言いづらい何かなのだろう。先程一悶着あったばかりなのでリュカは先送りにしようとしたが、二人がおおごとにしてしまったので今更なかったことにもできない。そんな構図だ。特に薮をつついてしまった形のエリアスはうっと息を詰まらせて、気まずそうに黙り込んだ。隣ではオデットがエリアスを睨みながら、その腿をきつくつねっている。


「俺、大丈夫です。何でも言ってください」


 元を辿れば先程の一悶着も自分の浅慮が原因なので、これ以上被害者側(リュカ)に気を遣わせるわけにはいかない。覚悟を決めて、ノアは申し出た。特に戦闘への助言(アドバイス)と言うなら、早めに聞いておくに越したことはない。ここにいられる時間は有限なのだから。


「うむ。こうなっては仕方ない。ただ、本当に大したことではないので、楽にして聞くが良い」


 コホンと咳払いをして、リュカは言った。


「ちょっと殺しに来たんだ。お前を」


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