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俺が異世界でアンデッドになった話  作者: 仁科
第一章
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洞窟の家2

 

「フシャー! シャー!」

「おお、異世界から来た小さな勇者よ……! 何故そのように荒ぶられるのか! どうか御心を鎮めてくだされ!」

「うるせえバカ! 異世界の勇者なんてそんな設定ねえよ!」

「口調まで変わって、なんとおいたわしい……! もしや悪魔に憑かれたか……!」

「黙れ! 悪魔はお前らだ!」

「失礼な。私たちは魔女だ」


 異世界で出会った魔女、エルザとルチアは、そう言って「ねー」と顔を見合わせた。彼女らに仲良く一回ずつ殺された後、ノアはお馴染みの空き部屋(※今回の殺人現場)で、ストライキの真っ最中である。丸焦げにされた後なので、すっぱだかであった。貧相な体を丸めて、部屋の隅ではりねずみのように全身の毛を逆立て威嚇している。


「悪かった悪かった。この家に客人が来るのは久しぶりでね。私もルチアも、ちょっとテンションが上がってしまったんだ」

「ごめんね、ノア! あたし、お友達って初めてで……一緒に遊びたかっただけなの! 悪気はなかったの!」


 若葉色の目いっぱいに涙を溜めたルチアが、エルザのスカートの端を握りながら、必死でノアに訴えかけてくる。エルザの方はともかく、その目を見れば、ルチアの言葉に嘘がないことがノアにもわかった。女子の涙に一瞬怯んだノアではあったが、それとこれとは別問題だ。唇を噛み締め、体制を立て直す。


「そうだ。仲直りしてくれれば、お前にプレゼントをやろう」


 一方のエルザであるが、ふと考え込むような仕草をしたかと思えば、わざとらしく手を打ってそんなことを言い出した。それ見たことか、とノアは胡乱げな目をエルザに向ける。


「物で釣ろうと言うのですね。この魔女が」

「そうだ、物で釣ろうと言うのだ。だが、勘違いするなよ。元から考えていたんだぞ。部屋を一つやろうとな」

「部屋……ですか?」


 思いがけない言葉に、一瞬ノアの警戒が緩む。

 すっぱだかのノアに自らのガウンを羽織らせながら、ニヤリと悪どい笑みを浮かべ、エルザは「お前の部屋だ」と頷いた。

 ガウンに腕を通しながら、ごくり、とノアの喉が鳴る。


「……は、話を聞きましょうか」

「……物で釣られるなんて……お前、意外とちょろいな」

「勘違いしないでくださいっ! 話を聞くだけです!」


 眉をひそめるエルザに、小さな牙を剥いてノアは吠えた。決して物に釣られたわけではない。しかし一方でノアは、エルザの言葉の裏に隠された意味を正確に汲んでいた。それに気付いてしまえば、怒りを継続するのは難しい。

 ノアの居場所(プライベートスペース)を作ってくれるということは、とりあえずまだしばらくはここに置いてくれる気があるということになる。王都に連れていく気はないと昨夜エルザは言ったけれど、自分の食い扶持ひとつ稼げない子どもを長く養う義理もない。

 打算的に考えてみると、右も左もわからぬ異世界にいつ放り出されるかわからない状況から抜け出せるのは、正直ありがたかった。


「昨日はあんな形で休ませてしまったから仕方ないが、ここで暮らすならまず、ゆっくり眠れるベッドが必要だろう」


 突然気勢を下げたノアの沈黙をどう解釈したのか、エルザの声はどこかやさしい。


「蝋燭ではない、ちゃんとした灯りがあると気持ちが明るくなる。それに、ゆっくりとくつろげる、小さなソファとテーブルがあればいいな。羽のように軽くて、動きやすくて、あたたかい服をたくさん仕立ててやる。外に遊びに行くのに、靴も必要だろう。水の上でも、木の上でも、小鳥のように自由に飛び回れる靴にしよう。本棚もつくろう。お前はこの世界のことを知らないだろうから、本を読んで少し勉強するといい」

「本……?」

「そうだ。壁のこっち側は全部本棚にしよう。読み切れないほどたくさんの本をくれてやろう。息を飲むような冒険譚、心温まる感動の物語、お前がまだ知らないこの世界の植物や虫や動物の図鑑、足りなければまだまだいくらでも用意しよう。知識は大切だ。お前がこれからこの世界で生きていくのに、きっと役に立ってくれる」


 話に聞く王都はどうか知らないが、ノアのいた村では、本は贅沢品だった。村長の持っていた煙管もそうだ。明日の食事にも困るような暮らしでは、生活必需品でないものの優先度はどうしても低くなる。自分が村のお荷物になっているのは薄々とノアも感じていて、毎日言いつけられた仕事以上のことをしようと子どもなりに一生懸命だった。そのために色々なことを後回しにしながら生きてきたのだ。生活の目処さえ立ってしまえば、知りたいことは山ほどある。

 一瞬だけ輝いたノアの瞳を見逃さず、にやりと笑って、「悪い条件ではないだろう?」とエルザが畳み掛けてくる。


「う……」


 悪いどころか、今のノアに取ってはこの上ない条件である。目の前のニヤけ面を見ればこのまま引き下がるのも悔しいが、そんな子どものちっぽけなプライドなど、エルザにはお見通しだった。


「はい、決ーまりっ! そうと決まれば、さっさと終わらせるぞー。おー!」


 有無を言わせぬ形を作ることで、ノアのプライドに(さわ)らない。うまい手だった。半ば無理矢理ノアの手を引いて立たせ、エルザが強引に話を切り上げる。そしてぎゅっと片手でノアの肩を抱くと、エルザは反対側の手でくるりと煙管を回した。その向こうでは、ルチアが「おー!」と小さな拳を突き上げながら嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。


「……ノア?」

「何でもないです」


 肩を抱いてくれた手の温かさに、ふと、それまで張り詰めていたものが切れた気がした。どっと疲れが押し寄せ、体中から力が抜ける。不意に視界が滲んで、堪えきれずノアは俯いた。


 どうして僕を拾ってくれたんですか? とか。

 会って間もないのに、どうしてそんなに優しくしてくれるんですか? とか。

 聞きたいことはたくさんあったが、喉に嗚咽が絡まって、それ以上のことはとても口に出せなかった。

 次第に肩の震えが大きくなり、エルザの向こう側から、ルチアが心配そうな顔で「大丈夫?」と覗き込んでくる。ぐっと更に肩を引き寄せられて、ノアはエルザの胸に抱かれた。とてもルチアに見せられない顔をしているのは自覚しているので、その心遣いが、今は素直にありがたい。大人しくエルザに抱かれるノアの手に、ふと小さな手が重なった。驚いて顔を上げると、ほとんど泣きそうになりながらルチアがノアの手を握りしめている。昨日今日会ったばかりのノアの涙に心を痛め、それでも目が合うと、必死に笑顔を作り励まそうとしてくれる。

「大丈夫だよ」

 根拠のないルチアの慰めに、ただ黙ってノアは頷いた。

「ずーっと、あたしがそばにいてあげる」


 *****


 湿ったあたたかいものが、ザリザリと頬をひっきりなしに舐めている。


「んん……お願い……もうちょっとだけ寝かせて……」


 眉をひそめて、布団の中から手を伸ばしたノアは、しっしっと侵入者を追い払った。それが気に入らなかったのか、侵入者が両の前脚でノアの顔をしたたかに踏みつける。二度、三度と足踏みをするように踏みつけられて、たまらずノアは目を覚ました。


「わかった、わかったから。だからもう踏むのはやめてスキャンダル……ぶっ!」


 見事な毛並みの黒猫が、仕上げとばかりに後ろ足でノアの鼻面を蹴って、すたんと床に着地する。

 早く来いよとばかりにふてぶてしく鼻を鳴らして、鍵尻尾を揺らしたスキャンダルは、開いたドアからすたすたと部屋を出ていった。

 それを寝ぼけ眼で見送ってから、ベッドに上半身を起こしたノアが、ふわああと大きな欠伸をする。

 両手を上げて伸びをすると、布団からばさりと何かが落ちた。


「そっか……昨日は、これを読みながら眠っちゃったんだっけ」


 ベッドから降りて、ノアは一冊の本を拾い上げる。はだしの足を受け止めたのは柔らかなクリーム色の絨毯で、毛足の長いそれに受け止められた本は、幸いどこも折れたり曲がったりしている様子はない。

 深緑の表紙に金色の文字で、そこには『愛すべき森の一日』と書かれている。

 本を開くと、最初に本についての説明と解説のページがあり、更にページをめくると、見開きページ一面に緑の森が広がった。ページ上に指を滑らせると、タブレットのように次々と場所が移動していく仕組みだ。大木の根元に空いた穴を拡大してみると、その中ではリスがちょこんと座って木の実を食べていた。カリカリと音なんて立てて、かわいらしい。ノアはことさらにそっと本を閉じ、ベッドの反対側にある本棚に戻した。

 昨日エルザが作ってくれた、ノアのプライベートルームである。

 元はと言えばここはノアが最初に目覚めたあの部屋で、第三の殺人現場にもなった忌まわしい場所でもあるが、他に適当な部屋もないということでとりあえずここを譲渡されたのだった。ゆえに、広さはそれほどでもない。ベッドと、小さな丸いベッドサイドテーブル、ソファとローテーブルを置けばいっぱいいっぱいの部屋だ。

 それでもノアは、その小さな部屋を大層気に入った。

 清潔なシーツをかけられた深い飴色の木製ベッドは、羽毛が入った布をふんだんに重ねており、体が沈むほどやわらかくとても寝心地がいい。掛け布団にも羽毛が入れてあるらしく、ふかふかで軽いのに信じられないほど温かい。同色のソファはフラットタイプで、寝転がって本を読むのにぴったりだ。

 部屋の隅には、観葉植物兼スタンドライト。パキラに似た形をしたこの植物は大変優秀で、二酸化酸素を吸って、酸素を吐き出す際に発光する。また動くものに反応するので、ノアが部屋にいないときや眠っているときは光量を落としてくれるのだ。今も有名な童話に出てくる妖精の粉のように、きらきらとその葉から燐光を零れさせている。読書などで体の動きが少なくなると暗くなってしまうのが難点だが、ランプを併用すれば問題なさそうだ。岩肌が覗く壁や天井はそのままだが、これはこれで味わい深い。風呂やトイレ、キッチンなどは共用だが、ワンルームマンションのような作りである。

 そして圧巻なのが、壁の一面に埋め込まれた本棚である。

 エルザは約束通り、そこにノアが読みきれないほどの本を詰めてくれた。

 『愛すべき森の一日』は、ぽかんと口を開けてただただ感心するばかりだったノアに、ルチアがくれたものだ。

 ルチアが「あたしもノアに本、あげるもん!」と頬を膨らませていた理由はわからないが、ノアはもちろん礼を言ってありがたく受け取っておいた。そして夜に自室に戻り、本の厚みから簡単に読みきれるだろうと何気なくページを開いたのが運のつき。たった数ページしかない不思議な本にすっかり心奪われ、夜行性の動物たちが蠢く夜の森に、真夜中まで没頭してしまったのだった。

 それにしても、この一連の作業がわずか5分足らずで行われたのだから驚きである。煙管を指揮者のように振りつつ、おしゃべりする余裕さえ見せながら、エルザはいとも簡単にその全てを仕上げてみせた。


「さて……と」


 壁の一部に設えられた洗面台で顔を洗い、軽く口をゆすぐ。地下から汲み上げているという水は冷たく、きりりと身が引き締まるようだ。

 手探りでタオルを取って水を拭い、壁に埋め込まれたクローゼットを開けて、エルザが用意してくれた服に袖を通す。新しく服を仕立てるまでの間に合わせに、ルチアのお古を簡単に手直ししたものだそうだ。前で布地を重ね合わせ、長細いトグルボタンにループ状の紐を引っかけるタイプの前開きの服である。ボトムスはウエストを紐で縛るタイプの、七分丈のパンツだ。ちなみになんとなくその方が落ち着くという理由で、ノアの部屋は土足禁止にしてもらってある。そのため小さな土間のようなものを作ってもらい、靴はそこで履くようにしていた。スキャンダルが足を拭けるよう、布巾もちゃんと置いてある。

 朝が始まる。この家に来て、三日目の朝だ。

 この世界のものを食べ、この世界の服を着て、この世界の地を踏みしめ、これからノアはこの世界で生きていく。

 生きていくしかないのだ。


 *****


 暖炉の間に行くと、既に全員が揃っていた。

 まず、鼻歌混じりに縫い物をしていたエルザが、顔も上げずに「遅いぞ、ノア」とノアを迎える。

 続いてルチアが、「おはよう、ノア」と笑って、自分の隣の椅子を引いてくれた。テーブルの上で丸くなっていたスキャンダルが、恨みがましそうな目でノアを一瞥し、ふいっと顔を背ける。


「おはよう、ルチア。せっかく迎えに来てくれたのに遅くなってごめんね、スキャンダル」


 ノアは腕を伸ばして、あやすように黒猫のすべらかな毛皮を撫でた。ふんっと鼻を鳴らし、けれどスキャンダルはノアの手を拒まない。

 エルザとルチア、そして金の眼をした黒猫スキャンダル。ノアの新しい家族のすべてだ。


「さあ、全員揃ったな。さっそく朝ごはんにしよう」


 バスケットに縫いかけの布を入れてしまうと、エルザは指揮者がタクトを振るように長い指を翻した。暖炉の間に隣り合う小さなキッチンから、パンの詰まったバスケットやマグカップ、布巾や小皿が行進するように躍り出て、テーブルの真ん中に集まる。スキャンダルの前には、銀色のスープ皿。恭しく進み出たミルクピッチャーが、なみなみとそれをミルクで満たした。


「頂きます」


 胸の前で祈るように指を組んだエルザにならい、ノアとルチアも口々に言って指を組んだ。さっそくバスケットに手を伸ばして、めいめいにパンを頬張る。エルザは銀のボウルから、ガラスの小皿に二つ、ヨーグルトを取り分けてくれた。とろりと赤いジャムをかけて、二人の前に並べてくれる。


「二人とも、よく噛んで食べるんだぞ」

「……母親みたいなこと言うんですね」


 二人を見守る優しげな目に、いきなりがっつきすぎたかと子どもらしくもなく恥じて、ノアは照れ隠しに唇を尖らせた。


「ママが恋しいなら、私に甘えてもいいんだぞ?」

「遠慮します。そもそも俺は、母親のことも覚えてないですし」


 ノアの言葉に、二人が目を丸くして顔を見合わせる。まずいこと言った? と眉を下げて目で問いかけるエルザに、ルチアがぶんぶんと首を縦に振った。自分から話を振っておきながら気を遣われたりするのは本意ではなくて、慌てて「気にしないで下さい」とノアが手を振る。


「そういえば、ルチアのお母さんは?」

「あたしのママは、あたしをおばあちゃんに預けて、一年くらい前からパパと世界旅行中なの。今回は10年くらいかけて回るつもりだって言ってた」

「私は母方の祖母に当たるんだが……まったく、仕方ないな。あいつらは」

「だってママだもん。一ヶ所に留まれる人じゃないよ。むしろ、あたしが10歳越えるまでよく我慢したなって感じ」


 嘆息したエルザに、ませた口を聞いて、ルチアは肩をすくめてみせた。ノアの常識で言えば、親が子どもを置いて姿を消すのに10年は長すぎるような気もしたが、今目の前に座っているのは見た目はともかく実年齢945歳の老婦人(オールドミス)だ。

 魔女に取って10年は、瞬きほどの短い時間でしかないのかもしれない。


「でも、あたしはおばあちゃんといられて幸せ。二人とも時々手紙をくれるし、色々お土産送ってくれたりするし。あ、ノアにも後で見せてあげるね。あたしのお気に入りはフェニックスの羽根。この間なんか、久しぶりに長い手紙が来たと思ったら、便箋9枚も使って、パパが超かっこよかったときの武勇伝しか書いてないんだもん。いつまで経ってもラブラブでやんなっちゃうよね」

「そうだね……」


 突っ込んだら負けな気がして、けたけたと笑うルチアの言葉に、目から光を無くしたノアが曖昧に頷く。話に聞く限り、エルザの破天荒な性格は孫のルチアだけでなく、自らの娘にもしっかりと受け継がれているらしい。


「エルザさんの旦那さんは、どういう人だったんですか?」


 そうなると我らが美魔女と恋をして子まで成してみせたルチアの祖父に俄然興味が湧いて、ノアはエルザに水を向けた。ぴしり、と空気が凍る。否、よく見るとぴしりと音を立てたのはエルザの持つマグカップだった。黒猫の絵が描かれたかわいらしいマグカップが、あわれエルザの手の中で、粉々になってテーブルに飛び散る。同じ黒猫のスキャンダルは、ノアが目を向けたときにはすでに忽然と姿を消していた。本能で危険を悟ったのかもしれない。ルチアは平然とパンを食べているように見えたが、よく見れば蒼白な頬に滝のような汗を伝わせている。


「……私の夫のことを聞いたのか?」


 割れたマグカップの中に残っていたミルクの雫が、エルザの手のひらを伝ってぽたぽたとテーブルに落ちた。


「え……いや、あの」

「私の夫のことが聞きたいのだろう?」


 どうやら何かの地雷を踏み抜いたらしいと、そのときになってやっとノアも気付いたが、時すでに遅し。背後におどろおどろしい黒い影を漂わせながらにっこりと微笑むエルザの気迫に押されて、もう結構ですとも言い出せず、ガクガクと震えながらノアが頷く。


「いいだろう。教えてやる。私の夫は、吸血鬼だ」


 ピシピシとつめたく凍っていくマグカップの欠片を見ながら、震えが止まらないのはけして恐怖のせいだけではないとノアは悟った。テーブルを這い寄ってくる霜から、隣のルチアが慌ててパンの入ったバスケットを回収する。


「きゅ、吸血鬼」

「そうだ。あの浮気者のことだから、おそらく生きてはいるのだろうが……もう百年も帰ってこない」

「百年……」


 そら恐ろしい話である。パキン、と音がして、先程スキャンダルが残していったスープ皿が凍りついた。それよりもエルザに近い割れたマグカップは、もはや細かな氷の結晶となってきらきらと空気中に漂っている。


「遠い昔、私がまだ『漆黒の魔女』と呼ばれていた頃の話だ。その当時をして、純血の吸血鬼は珍しかったからな。滅多に姿を現さない割に、なかなか有名だったんだ」

「は、はあ……」


 じわじわと侵食してくる霜に内心穏やかではないが、これ以上地雷を踏むわけにはいかないと、ノアは黙ってエルザの話を聞いた。


「ワルプルギスのパーティーで、私から声をかけた。面白そうなやつだと思った。初対面の私に向かって、笑いながらやつは頼みがあると言ったよ。“とびきりの媚薬を調合して欲しい、『漆黒の魔女』を落としたいんだ”……とな。ああ、今思い出してもそんな言葉に軽々しくよろめいた自分が憎らしい」


 ぴたり、とテーブルの縁まで来て、霜の侵食は止まった。少しでもエルザから離れようとのけぞり、背中で椅子に張り付いていたノアが、「う、うん……?」と首を傾げる。


「ちゃんとすればそれなりなのに、髪はいつもボサボサだし、言わないと髭も剃ろうとしないし、いつ見てもヘラヘラしてるし、私と会う前まで、女癖も相当悪かったと聞く……あいつがその気になれば匿ってくれる女の一人や二人……どうせ今もどこかの女とよろしくやっているに違いないのさ。あの浮気者め……私だけだと言ったのは嘘だったのか……」

「……要は、旦那さんが帰ってこなくて寂しいんですね?」


 愚痴に見せかけた盛大な惚気に脱力して、緊張から解き放たれたノアは、ついまた言わなくてもいいことを言ってしまった。ぎろりと鋭い目で睨まれて、ごめんなさいとノアが飛び上がるより先に、「そうだ」とエルザが答える。


「私はさびしい」


 組んだ腕を下にして、力なくテーブルに突っ伏したエルザは、乱れた黒髪の間から地を這うような声を聞かせた。


「何百年経ってもドロシーたちは仲良しなのに……どうしてあいつは私の元に帰ってきてくれないんだ……」


 誰に向けるでもなくぶつぶつと呟くエルザに、どう声をかけていいかわからず、ノアが隣のルチアに目で助けを求める。今まさにあんぐりと口を開けてパンにかぶりつこうとしていたルチアは、気まずそうに口を閉じて首を振った。


「ほっといていいよ。おばあちゃん、こうなると長いから」


 バスケットの中から別のパンを取ってノアに渡しながら、「ちなみに、ドロシーはママの名前」とルチアが言い添える。


「おじいちゃんには、あたしも会ったことないんだ。でも、すっごく強い吸血鬼だって聞いてる。ママたちが旅に出るとき、本当はあたし、着いてくるかって聞かれてたの。あたし、断った。おばあちゃんはせいせいするって言ってたけど、きっとおばあちゃん、さびしがるだろうなって思ったから。スキャンダルを拾ったのもノアを拾ったのも、多分、さびしいからなんだと思う」


 パンをあらかた食べ終えて満足したのか、ルチアはヨーグルトに手を伸ばした。一連の流れですっかりフローズンヨーグルトになってしまったそれは、スプーンでかき混ぜるとしゃりしゃりと涼しげな音を立てる。にゃあ、という鳴き声に足元を見ると、いつの間にかスキャンダルが戻ってきていた。


「……スキャンダルも、エルザさんに拾われたの?」

「うん、おじいちゃんがいなくなってしばらくしてから、おばあちゃんが外で拾ってきたんだって。それから今まで百年生きてる時点で普通の猫じゃないのは明らかなんだけど、別に悪さもしないしね」


 ノアは吸血鬼のことはよく知らない。しかし子どもの寝物語(フェアリーテイル)として村に伝わっている話では、吸血鬼は確か、動物に姿を変えたりもできたはずだ。ひょいとテーブルの上に飛び上がったスキャンダルは、慰めるようにぽふぽふと肉球でエルザの髪を撫でている。


「まさか……ね」


 フローズンヨーグルトに頬を緩ませているルチアを横目に、冷えたパンをかじりながら、ノアはぼそりと呟いた。それが聞こえたのか、ちらりとノアを見たスキャンダルが、また一声にゃあと鳴く。


「やっぱり喧嘩して庭で十字架に張り付けにしたのがまずかったんだろうか……」


 エルザはぶつぶつと、まだ呟いている。内容については、聞かなかった振りをした。


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