洞窟の家1
花の香りがする。甘く、やさしく──懐かしい香り。目を閉じたまま無意識に、少年は鼻をひくつかせる。乾いた喉に優しい、湿ったあたたかい空気を吸い込むと、胸にどっと郷愁が溢れた。おかしなことだ。少年に故郷などない。帰る場所を、まだ知らない。
目覚めたくない、とおぼつかない意識の中で少年は願った。
許されるなら、このままずっとここで、揺蕩うようにまどろんでいたい。
ここは静かで、あたたかい。どこも痛くないし、少年を脅かすものの気配も、今は遠い。こんなに穏やかな時間は久しぶりだ。
伏せた瞼の下から、少年の頬を伝い、ころり、ころりと涙が転がる。
その涙を、拭うものがあった。
「……っ!?」
「あ、起きた」
反射的にがばりと飛び起きた少年の目に最初に映ったものは、萌え出ずる春の若葉を思わせる明るいグリーンの瞳だった。好奇心と期待にキラキラと輝く、警戒心のかけらもない、アーモンド型の大きな瞳。頬を薔薇色に染めて、新しい刺激と非日常を歓迎する、子どもの瞳だ。
「大丈夫? どこか痛いところ、ある?」
薄暗い視界の中、そう言ってことりと首を傾げたのは、少年とそう年も変わらぬ黒髪の少女だった。先程少年の涙を拭ったのは、彼女の右手にあるハンカチでどうやら間違いなさそうだ。しかしわかることと言えば現状それくらいで、胸中からわき上がってくるたくさんの疑問が、一瞬少年の喉を塞いだ。少年の返事がないのを不思議がるように、きょとんと少女が目を瞬く。
「おばーちゃーん! あの子、起きたよー!」
しかしそれもつかの間、大きな瞳をきらきらと輝かせた少女は、やおら後ろを振り向くと弾む声を張り上げた。
返事が待ちきれないのか、軽やかに駆け出していく背中が、1メートルもしないうちにまばゆい光の中に眩む。
一瞬虹色の油膜に似た光が少年を中心にドーム型に浮かび上がり、翻った少女の髪の先をとぷんと沈めて、すぐにまた何事もなかったように静まり返った。
走り去る少女の後ろ姿が、やがて部屋の角を曲がり見えなくなる。
それを追うように、少年は思わず手を伸ばした。とにかく何もわからないのだ。さっきは咄嗟に口が回らなかったが、彼女に聞きたいことが山ほどあった。今だって増え続けている。
しかし、伸ばした指は、先程少女が難なく越えた一線を越えられなかった。バチッと静電気が弾けるような音と衝撃に、少年が驚いて指を引く。
恐る恐るもう一度試しても同じだった。衝撃に耐えて指を押し込もうとしても、その度浮かび上がる虹色の光が、更に強い力で少年の指を弾き返す。訳もわからず、少年はじりじりと後ずさった。後ずさりながらも、本能なのか、自分の状況を少しでも把握しようと目だけはせわしなく動いている。
そうしてよく見てみれば、少年のいる場所は、部屋と言うよりまるで洞窟の中のようだった。ごつごつとした岩壁が四方を覆い、先程少女の出ていった場所だけが開かれている。しかしそれも出てすぐに行き止まりになっており、正面には周りと同じような岩壁が立ち塞がっていた。少女が曲がった方向から、うすぼんやりとした光が漏れ出している。薄暗いのも当然で、その他に光源と言えるものは側に置かれた洋燈ただひとつきりだ。やわらかいオレンジ色の光が、ゆらゆらと揺れながら、少年の周りをまるく照らし出す。かろうじて羽織っているのは薄いシーツ一枚で、他に身に纏っているものはない。
「──あそこには近付くなと言ったはずだぞ。何かあったらどうするつもりだ」
「だっておばあちゃん、まだ子どもだよ? それにあの子、泣いてたんだもん。きっと何かつらいことがあったんだよ」
あちこち必死に目を凝らしていた少年は、カツカツと足早に近付いてくる二人分の足音に気付き、ぎゅっと身を強張らせた。
長くは待たせず、やがて先程の少女と見知らぬ声の主が、連れ立って角を曲がってくる。彼女と目が合った瞬間、少年はしかし、それまでの混乱も、警戒も、いっそ瞬きすら忘れてしまった。
少年の記憶が正しければ、先程少女はおばあちゃんと呼んだはずだ。
おばあちゃん。
しかし少女と共に少年の元を訪れた彼女は、“おばあちゃん”という言葉から人が想像し得るおおよそ全てのイメージから、まるでかけ離れた美女であった。
腰まで伸びた、贅沢に波打つ黒髪。ニヤニヤと少年を見やる、星空を抱いたような瞳。つり上がった艶やかな赤い唇から覗く牙は、真珠の輝きをしている。
漆黒のローブの下に着込んだ同色のロングドレスは、何故だか胸元だけがこれでもかと強調されたデザインで、豊かな白い胸が、そこから今にもこぼれ落ちそうだ。とはいえ豊かなのは胸元だけで、ぴったりとしたドレスは、彼女の引き締まった完璧なボディラインを惜しげもなく浮き上がらせている。
性には未熟な少年でも、訳も分からず赤面してしまうような、妖しい魅力が彼女にはあった。
「おや、照れているのかい」
いくつもの指輪で飾り立てられた、刺さりそうに長い爪で、「なかなか可愛らしい顔をしているじゃないか」と、笑いながら彼女は少年の頰をなぞった。
「……ッいっ、た……!」
「おばあちゃん!」
そのまま頰にぎちりと爪を立てられて、痛みに身を硬くした少年が悲鳴を上げる。彼女の腕にぶら下がるようにしながら、慌てて止めに入る少女の声を聞いて、ようやく少年は我に返った。
「ふむ。すまんねルチア。少し、確かめたいことがあってな」
少年の血のついた爪の先をぺろりと舐めて、悪びれもせず彼女は、傍らの少女の肩を抱き寄せる。
「さて、まずは自己紹介からだな。私はエルザ。そしてこの子が、わたしの孫娘のルチアだ」
「あ……、すみません……俺──いや、僕、名前はないんです」
どんなに贔屓目に見ても30歳以上には見えなかったが、孫娘と言うからには、やはり彼女に対する”おばあちゃん”という呼称は正しいのだろう。
再度めまぐるしい混乱に襲われ始めた少年は、そっけない自己紹介を返すのがやっとだ。
「名前がない?」
「思い出せないんです。小さい頃の記憶がなくて……だからナナシとか……あと、時々フォーリナーとか呼ばれるときもありました」
「……フォーリナー?」
「はい……あの、ここはどこなんですか? 僕は一体どうなって……どうしてここにいるんですか?」
聞きたいことはたくさんあって、一度口を開けば、質問は矢のように少年の口をついた。
「そ……そうだ、村のみんなは? 突然、ものすごい地鳴りがあったと思ったら、いきなり辺りが真っ暗になって……僕、気を失ってしまって……それから──」
説明するために記憶を辿り、段々と少年はこれまでのことを思い出した。無理矢理髪の毛を掴み、藪から少年を引きずり出す加減のない大人の力。心臓を、肺を、身体中を四方八方から貫かれる痛みと衝撃──。最後の方はコマ送りのように、思い出したくもない記憶がめまぐるしく押し寄せ、少年が思わず口元を押さえる。
「そうだ──僕は、ころされて……槍で胸を……それで息が──息ができなくて……」
「しっかりしろ!」
蒼白な顔でガクガクと震える少年を一喝し、その前に膝をつくと、エルザは少年の肩を揺さぶった。
「落ち着きなさい、少年。君の体はどこも、傷ついてはいない」
エルザに導かれて、少年は震える手で自らの胸に触れた。痛みはない。息も苦しくない。意を決してシーツをずらしてみたが、エルザの言う通り、胸どころか体のどこにも、目立った傷はなかった。
「どうやら我々は、よく話をする必要がありそうだな。その驚異的な回復力についても、洗いざらい調べさせてもらうぞ」
上半身裸の少年にちょっと恥ずかしそうにして、エルザの影に隠れながら、ルチアが手鏡を手渡してくれる。先程確かに血が出るほど抉られた頰の傷が跡形もなく消えているのを見た少年は、青褪めた顔で頷いた。
*****
「……ずいぶん、長いシャワーだったな」
エルザが案内してくれた洞窟の中には、他にも小さな部屋がたくさんあった。縦横無尽に張り巡らされたそれは、さながらアリの巣のような、あるいは穴の開いたチーズのような形状である。その中の一つには、たっぷりと湯をたたえたバスタブのある浴室まであった。どういうわけか、柄に不思議な赤い石の嵌め込まれたシャワーから出る水は、落ちるそばから足元の黒い石にすいすいと吸い込まれていくのである。バスブラシが一人でに動き出して宙を舞い、全身を泡だらけにしていくのにも、少年はもはや驚かなかった。
死んだ人間が生き返る。これ以上不思議なことがあるだろうか?
「……すみません。あの、色々……考えることがあって」
「……そうだろうな。目が赤いぞ。まずは座って、冷やすといい」
重厚なカーペットが敷かれた一室で、エルザは暖炉の前の椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいるところだった。最近暑くなってきたからか、暖炉に火は入っていない。
一瞥もせずに少年の腫れた目を指摘して、エルザがくいっと指を振る。部屋の中央にあるテーブルに備え付けられた椅子が、それに合わせてすっと引かれた。少し迷って、少年が恐る恐る腰かける。
氷の入ったボウルとタオルがどこからかふわりと飛んできて、遅れて追いついた銀色の水差しが、ボウルにさらさらと水を注いだ。エルザがもう一度指を振るとタオルは自らボウルの中に飛び込み、浮かび上がってくるりとコイル巻きになると、身を捩って水を吐き出す。
目の前に飛んで来たどこからどう見ても普通のタオルをまじまじと見つめ、一瞬迷って、少年は手に取ったそれに顔を埋めた。
つめたいタオルが、火照った瞼に気持ちいい。少年は深い満足の吐息をついた。どのくらいそうしていただろうか。コトリという音に顔を上げると、水差しやボウルは姿を消し、テーブルにはいつの間にかマグカップが置かれている。
恐る恐るマグカップに手を伸ばし、少年は横目でちらりとエルザを伺った。椅子は暖炉に対して斜めに設置されており、腰かけているエルザの顔は、ここからでは横顔の一部しか見えない。たっぷりした黒髪を耳にかきあげながら、エルザも本から顔を上げない。
手のひらにじんわりとあたたかいマグカップからは、ミルクの匂いがした。
ふうふうと息を吹きかけて冷ましてから、少年は慎重にホットミルクを一口すする。風呂上がりなのを考慮してか、思ったほどに熱くはない。ごくごくと飲めるくらいのぬるさだ。蜂蜜が入っているのか、ほんのりとした甘さが舌にやさしい。
マグカップ半分の糖分を腹に入れ、頭が正常に働き出したところで、さて、少年は困ってしまった。
エルザはまだ、本を読んでいる。
話しかけるタイミングを、完全に少年は失っていた。
「あ……の……」
もう半分のミルクを時間をかけて胃に流し込み、ようやく腹を決めて、少年はエルザに話しかけた。「なんだね?」とこちらを向いたエルザの鼻の上で、丸い眼鏡がきらりと光る。シンプルだが、よく見ればブリッジやつるに、いくつもの石が嵌め込まれている不思議な眼鏡だ。
「あ……その、目が悪いんですか?」
そんなことを聞くつもりはなかった少年は、言ってしまってから内心で慌てたが、事も無げにエルザは「老眼なんだ」と答えた。
咄嗟に何も言えず黙り込んだ少年に、「冗談だよ」と笑って、エルザがパタンと本を閉じる。
「さて──全部ではないが、さっき君がした質問と、してない質問に答えよう。飲み物のお代わりはいるかね?」
首を振った少年だったが、「遠慮することはない」と、エルザは有無を言わさず指を振った。
「それから、軽くつまめるものも必要だな」
少年が呆気に取られている間にも、テーブルには次々と皿が並んで行く。
冷たいミルクのお代わりと、薄切り肉の挟まった柔らかそうなサンドイッチ。じゃがいものポタージュに、果物。それらを見て少年が空腹を思い出すより早く、腹の虫がクウ、と鳴った。
*****
「食べながらでいい。まずは一つ目の質問だ」
向かいの椅子に座ったエルザの手には、いつの間にか煙管が握られていた。村人にも持っている者がいたが、記憶にあるものより随分と長い。50cmはあるだろう。エルザは慣れた手つきでそれに刻み煙草を詰め、爪先に灯らせた炎を火皿に移した。うまそうに紫煙を燻らせながら、もう片方の手で古い紙を広げる。
「まず、ここは、フェレナハイム大陸の端っこの端っこ……、の端っこの森の中だな」
長い爪の先でエルザは「この辺だ」と地図を示す。地図の真ん中には地続きの大陸が一つあり、エルザの指はその右下に尻尾のように突き出た地の先端を指していた。大陸の周りには、大小さまざまな島が点在している。
「この森に、正式な名前はない。未だかつて人の手が入ったことのない、未開の森だ。雄大な外観をしていながら、入ろうとすると何故か辿り着けない。逃げ水のようにね。着いたあざ名は蜃気楼の森──ミラージュ・フォレ」
「蜃気楼の森……」
「二つ目の質問。君はこの森の入り口にある川の流木に引っ掛かっていたのをルチアが見つけてきた。君の言葉から推測すると、殺された後で川に捨てられたんだろうな」
それを聞いて複雑な気持ちにならなくもないが、事も無げにエルザが言うので、何だかどうでも良くなってしまう。まあ食べなさいと促され、少年はたくましくサンドイッチにかぶりついた。
「それから、今度は君のしていない質問」
ふーっと尖らせた唇から紫煙を吐き出し、「私たちは魔女だ」とエルザは告げた。
「魔女……ですか」
「うむ。これは追い追い説明するが、この世界には7つの種族がある。それぞれに細分化しているが、その中で私たち……私とルチアは、魔法と呼ばれる概念を使いこなす、“魔女”の血統」
サンドイッチをかじりながら、また少年は頷く。魔法というのは、先程エルザが目の前で見せてくれたものに違いないだろう。物を動かし、何もないところに火を灯す、不思議な力。
「実を言うとこの森は、私たち魔女が使っている隠れ家の一つでね。誰にも見つけられないよう、魔法をかけている。蜃気楼と呼ばれる由縁だな」
エルザはくい、と指先を振った。漆塗りの煙草盆がどこからか飛んできて、音も立てずテーブルに着地する。
「そして君。いや、君たち──と言うべきかな。先程言っていたね。フォーリナーと呼ばれていた、と。君はそう呼ばれる存在について、何か知っているかい?」
カツン、と煙草盆のふちに煙管を打ちつけて灰を落とし、エルザはじっと少年を見つめた。肌つやや瑞々しい唇からは伺えない、長い年月を経てきた者だけが持つ叡智の光が、夜色の瞳の中に宿っている。
一瞬雰囲気に圧されて言葉に詰まった少年は、一拍置いて首を振り、「いいえ」と答えた。
「僕を拾ってくれた村の大人が言っていたのを聞いただけです。周りの人は疑っていたようだったし……よく、わかりません」
「さもありなん。フォーリナーというのはね。この世界では『異世界より来たもの』を示す。外見上は人族に酷似しているが、先に言ったどの種族にも属さない。異質な存在だ」
「異世界から?」
「そうだ。ごくまれに、どこからかこの世界にやってくる。何年も現れないときもあれば、同時期に数人現れることもある。何故かはわからないが最初から私たちの言葉を解し、そして多かれ少なかれ、私たちに異世界の知識をもたらしてくれる」
「僕もその……フォーリナーだと?」
「フォーリナーは不思議な光に包まれて、何もない場所からいきなりこの世界に顕現するという。君をフォーリナーだと言った村人は、恐らくその光景を見たのだろう。しかし君の記憶がないことから、他の村人は確信を持てなかった。フォーリナーはその希少性から、見つけたらすぐさまその国の王都に引き渡す義務がある。にも関わらず今まで君がその村で過ごしていたことから考えても、他の村人が疑っていたのは間違いないだろう。報償金目当てのでっち上げは重罪だからな、慎重にもなる」
「報償金まで出るんですか?」
「そうだ。文化や言葉、武器、日用品に至るまで、今日まで異世界の影響を受けていないものはない。今君が食べているオレンジや、ポタージュのじゃがいも。パンの材料になる小麦。過去に現れたフォーリナーが、たまたま種子を持ち込んで普及したものだ。どれだけ貴重なものかわかるだろう?」
「……王都に連れて行かれたフォーリナーたちはその後どうなるんですか?」
「わかるだろう? 貴重なものは誰だって独り占めしたくなるものだ。保護という名目で、他国に渡ることも許されず、一生飼い殺しにされると聞いている。そこで悲嘆に暮れて足を止めるか、開き直って自分なりの幸せを見つけるか──元の世界に戻る方法を探した者もいたようだが……残念ながら見つからなかったそうだ」
「……教えてくれてありがとうございます」
エルザの語る言葉に薄々と自分の行く末を悟って、目の前が暗くなる。礼を言う声が震えた。
「では……僕を、王都に?」
「何だ? 連れて行ってほしいのか?」
意を決して自ら水を向けたノアに対し、エルザの反応は意外なものだった。目を丸くして「お前、今の話聞いてた?」とやや不安そうに確認までされてしまう。
「えっ……でも……義務なんじゃ」
「言っただろう? 貴重なものは誰だって独り占めしたい。そもそも私たち一族は少数で、属する王都などないしな。もちろん報償金にも興味はない」
「でも僕……知識なんて持ってません」
「まあ、記憶が戻るに越したことはないが、子どものフォーリナーは知識が少ないというしな。構わんよ。能力は備わっているようだし。私が興味があるのは、むしろそっちの方だ」
「スキル……ですか?」
「フォーリナーは、この世界に来たとき、一つだけ特殊な能力を授かるという。それがどうしてなのかはわからないが……人によって様々な能力があり、また、突然その能力が無くなることもあるらしい。私たちが使うどの魔力とも体系を別にする力らしくてな。前々から手元に置いて研究してみたいと思っていたんだ、うん」
煙草盆に置いていた煙管を手に取り、ニコニコと何故か上機嫌でエルザは立ち上がった。
目を丸くして顔を上げた少年を見下ろしながら、エルザが手の中でくるりと煙管を回す。
「私の仮説が正しければ……」
一回転したそれは、今やもう煙管ではなく、一振りの鋭いナイフへとその姿を変えていた。
「君は──不死者だ」
翻ったナイフに頚動脈を掻き切られ、声を上げる間もなく少年は死んだ。二回目の死だった。
*****
「魔女だ……ここに魔女がいるぞ……信じられない……なんてひどいことをする人なんだ……」
「あーはっはっはっ! やべえ超おもしれえ! その顔サイッコー! あーはっはっはっ!」
翌日。
この世界で一番最初に目覚めた部屋と同じ部屋で少年は目覚めた。申し訳程度にかけられたシーツをはね除け、そばに用意されていたシンプルな貫頭衣を、走りながら身につける。その勢いで飛び込んだ暖炉の間では、エルザとルチアが向かい合わせに椅子に座り、仲良く朝食をとっているところだった。朝だとわかったのは、ひと足早く少年を見つけたエルザが、「よ、起きたか少年。おはようさん」などとふざけた挨拶とともに片手を上げたからである。昨日自分を殺した張本人が、あんまりにもあっけらかんとしてそう言うものだから、一気に脱力して少年はがっくりと膝から崩れ落ちた。そして、冒頭に戻る。
ていうか、キャラ、違わない?
「そうカリカリすんなよ、少年。わかった、腹が減っているんだな? ミルクをやろう。朝食も用意してやる。だから、まずは座るといいと思う」
長い髪をスッキリとポニーテールにまとめ、黒いブラウスにロングスカート、同色のガウンを羽織ったエルザが、ちょいちょいと斜め前の椅子を指差す。示されたのはルチアの隣だ。何やら熱い視線を感じて目を向けると、口いっぱいにパンを頬張ったルチアの、きらきらした目と視線が合った。
「ルチア。挨拶は口の中のものを飲み込んでから」
その熱に押されて半ば引け腰の少年に、指先一つで朝食を用意しながら、エルザはルチアにぴしゃりと釘を刺した。
こくこくと頷いて口の中のものを無理矢理飲み下し、ミルクをきゅーっ、とあおったルチアは、やおら椅子から飛び降りると、パンくずのついた唇をにっこりと綻ばせた。
「おはよう、よく眠れた? 昨日はあたし、あなたがシャワー浴びてる間に眠っちゃったんだ! あたしはルチア、12歳です! まだまだ魔法はうまく使えないけど、いつかおばあちゃんみたいな立派な魔女になるんだ! よろしくね! お友達ができて、あたし今、とってもうれしい! ホウキに乗れるようになったら、あたし、一番にあなたを後ろに乗っけてあげる!」
そう一息で言い切って、ルチアは両手で少年の手をぎゅっと握り締めた。思わず頰を赤くしながら、「うん、よろしくね」と少年がルチアの手を握り返す。
「同じくらいの年の友達ができてうれしいよ。村には、僕と同じ年頃の子はいなかったから」
「ほんと? うれしい! ねえ、じゃあごはん食べ終わったら、一緒にフェニックスごっこしようよ!」
嬉しくてたまらないと言った様子で、笑顔のルチアが少年の手を掴んだままぴょんぴょんと跳び跳ねる。微笑みあう二人の間に、ほんわかとした空気が流れた。
「ルチア。挨拶はその辺にして、そろそろノアに朝食をとらせてやれ」
「はーい! ねえノアってあなたの名前? 昨日は覚えてないって言ってたけど……何か思い出したの?」
「今私がつけた。呼び名がないと不便だし。お前もそれでいいな?」
「えっ? あ、はい」
「それとルチア。私はノアに話があるから、食べ終わったのなら菜園の花たちに水をやってくれないか。今日はまだだったろう」
「あっ、そっか。ノアが起きるの待ってたんだっけ。じゃあノア、また後でね!」
言うが早いか、ぶんぶんと少年に手を振って、ルチアはあっと言う間に部屋の外へと駆けて行った。昨日も思ったが、フットワークの軽い娘である。あと、なんかすごいあっさり名前決められたな……確かに呼び名、ないと不便だけど。
「どうだ。ルチアは可愛いだろう」
朝食をとるため椅子に腰掛けると、いつの間にやら向かいで煙管を食みながら、エルザがニヤニヤと少年を見つめていた。
「はい。とっても。いきなり人の首を掻き切るようなおばあちゃんに似ないよう祈るばかりです」
返す少年──ノアの言葉に、もはや遠慮はない。死んだときは普通に痛かったし、とてもびっくりした。ゆえにノアは、少なからず怒っているのだった。
「何を言う、あれは私の孫だぞ? いずれ私のような立派な魔女になる。それよりお前、もしかして怒っているのか?」
「怒ってますよ! すごく怒ってます! 死ぬほど痛かったんですからね!」
からかうように吹き掛けられた煙管の煙を手で追い払い、ぷりぷりと怒りながら、バスケットからパンを掴んでノアが頬張る。こんなにおいしい朝食が食べられるのも生きてこそだ。
「わ、びっくりした。本当に怒ってる。ごめんなノア、このとーり!」
顔の横に両手にパー、で驚きのポーズを取ったエルザが、次いでその手をぱん、と顔の前で打ち合わせる。指についたパンくずを舐め取りながら、ノアはため息をついた。
「美味しいごはんに免じて許してあげます」
「うん、じゃ、本題だ」
打って変わって真面目なエルザの声に、ナイフでハムエッグを切り分けようとしたノアの手が止まる。ピリッと緊張が走った。
「昨日、君が死んだあと、眠りの呪文で君の意識が戻らないようにしてから、色々実験してみたんだ」
「実験?」
「うん。つまり腕を折ったり、足を切り落としたり、眼球を……」
「最低か! やめてください食事中になんて話をするんですか! ごはんが不味くなります!」
「うん? うん、じゃあ結果だけ。捥げた四肢は1分もあればくっついてきれいさっぱり元通り。潰れた心臓も落とした首もくり抜いた眼球も飛び散った脳みそも然り。煮ても焼いてもだめ。引っこ抜いてミンチにした可愛いアレも、くっつけるとまた生えてきたぞ。うふふ」
「セクハラで訴えてやるぞ! ていうか痛い! 聞いてるだけで痛い!」
思わずナイフを放り出して股間を押さえながら、涙目でノアは喚いた。さーっと食欲が引いていく音が聞こえる。
「結論。君はやはり、どうあっても死なない体のようだな」
やれやれ、と煙を吐き出しながら、エルザは軽く肩を竦めた。
「体系が違うからなんとも言えんが、魔法というより、呪いに近い力のようだ。堅牢なプロテクトがかかっていて、そこから既に超難題。私でもすぐには外せそうにない。うーん、腕が鳴るな!」
「そっか……本当に僕、普通の人間じゃなかったんですね」
「うっ……まあ……なんだ。そう暗い顔をしたものではないぞ、ノア。長生き……とは違うかもしれんが、時間があるのはいいことだ。時間をかければ、いつかは解決策も見つかろう。それに、私はもう945年生きているが、一度も人生に退屈したことはない」
「きゅ、945……年……!?」
「言っただろう? 私は魔女だ。老化を司る遺伝子をちょいと魔法でいじくれば、この通り永遠にナウなヤングでいることもできる」
「ナ、ナウなヤング……?」
ばいん、と揺れる胸を突き出し自慢げに鼻を鳴らすエルザは、どうやらノアを慰めようとしてくれているらしい。
「そりゃあもちろん殺せば死ぬが、魔女の寿命は、基本的に本人の心の持ちようなのさ。好奇心は猫をも殺すが、私たちを殺すのは退屈だ。新しい知識を求めるのを止めたとき、魔女は魔女ではなくなる。そして私は今、新しい研究対象を見つけた。心配するな。私はお前を置いていかない」
「……はい」
なんだか泣きそうになって、慌ててノアは取り繕うように笑ってみせた。知らない世界で、独りではないことが、今のノアを支えている。死なない体になってしまったが、手は動くし目も見える。耳も聴こえるし声だって出る。立って歩ける二本の足があるのだ。
ノアを呼ぶ、明るいルチアの声が聞こえてくる。
「さあ、私の可愛い小さな魔女がやってきた。良ければ遊んでやっておくれ。退屈があの子を殺さないように」
頷いて朝食をかきこみ、駆け出した10分後──しかし死んだのはルチアではなくノアの方だった。前に死んでから8時間とちょっと。人生で三回目の死であった。
死因は、焼死。
フェニックス。それは老いて火に飛び込み、火の中からまた新しく生まれ出ずる精霊の名前。ルチアはごっこ遊びで、あろうことかそれを少年に実践させようとしたのだ。
『だって、あたしおばあちゃんから聞いたよ。ノア、死なないんでしょ? だったら大丈夫だよ!』
少年を火の中に突き飛ばす直前、満面の笑みでルチアはそう言い放ったのである。
『私の孫だぞ?』
生きながら焼かれる地獄のような苦しみの中、少年はエルザの言葉を思い出していた。そして同時に、嫌というほど理解させられていた。
天使のような笑顔を浮かべるこの小さな少女は、幼いながらも間違いなく魔女で──そして、あの人の孫なのだということを。