例えばこんな日常①
第二部からは【死ニ至ル呪イ~望郷の想い出~】本編に沿った小話となります。
それは、つい最近の出来事だった――。
ビアンカが思い出したかのように棍を久しぶりに使いたいと言い出し、ハルが剣術師範代であるホムラの指南の下で習い始めた剣技の術を持ってして、ビアンカと棍術と剣術の模擬試合を行った。
その勝負はハル曰く、『引き分け』という結果に終わったものの。その後――、ビアンカは時折棍を持ち出しては、自主鍛錬を成すようになっていたのだった。
(――今日のビアンカの動き。何だかいつもより鈍いな……)
ウェーバー邸の中庭の一角に座り込み、ビアンカが棍術自主鍛錬を行なっている様子を見ていて、はたとハルは気付く。
ハルの目にしているビアンカは――、樹木の枝に紐で括りつけられ下げられた木の板を、手にした棍で紐が張り落ちる前に再度叩きあげる。そのような鍛錬を行っていた。
だが――、そのビアンカの動きはいつもより鈍く、棍の取り回しも億劫そうにしており、息も上がっていて酷く汗をかいている様を見せていた。
――まさか、具合でも悪いのか……?
ハルは眉間を寄せ、思う。
もし、具合が悪いのであれば自主鍛錬なぞさせていないで、早々に休ませるべきである。そう考えたハルは、ビアンカに声を掛けるために口を開いた。
「――なあ、ビアンカ。お前、もしかして具合悪いんじゃないのか……?」
「え……?」
ハルの心配そうな声音の声掛けに、ビアンカは棍を打つ手を止める。そしてハルの方を、不思議そうな面持ちで見やった。
動きを止めたビアンカを見止めたハルは、その場から立ち上がり、ビアンカに歩み寄ったかと思うと手拭いを彼女に差し出す。
「いや。いつもより――、動きが鈍いみたいだから。調子が悪いんじゃないのかと思ってな」
手拭いを渡しがてら発せられたハルの言葉。差し出された手拭いをハルから受け取り、滴る汗を拭き取り、汗で額に張り付いた前髪を煩わしげにしながら、ビアンカは「ああ……」――と。ハルの言いたいことを察したのか、小さく声を漏らして微笑む。
「ハル。両手、出してもらって良い?」
手拭いを首に掛け、笑みを見せながらビアンカは言う。
そんなビアンカの言葉の意味することを見出せず――、ハルは首を傾げながら、ビアンカの言葉に従って両手を差し出した。
「気を付けてね……」
ビアンカは注意の促しを口にすると、自身が右手に持っていた棍を、ハルの差し出された両の手の上にゆっくりと置いた。
「うえっ――?!」
ビアンカの手からハルの手の上に渡った棍――。その棍を手にした瞬間、思ってもみなかった重みを感じ、ハルは両掌から棍を取り落としそうになり、前のめりになってそれを阻止する。
驚きと慌てを含んだ動きを見せたハルを目にし、ビアンカは可笑しそうにして、くすくす笑う。
「重たいでしょ?」
「こ、これ……。いつもの棍と違うのか……?」
普段ビアンカの使用している棍は、白蝋と呼ばれる柔軟性のある木でできた代物だった。だが、ハルが手渡された棍は――明らかに白蝋の木で作られた物では無く、鉄の重みを持っていた。
「それ、実戦用の鉄棍なんだって。――前にゲンカク師匠に貰った物なの」
「実戦用……」
そのビアンカの言葉を聞き、ハルは手にした棍の用途を聡く推した。
(そうか。実戦用ってことは――、真剣を使う相手と戦うことを想定して、斬り落とされないようになっているのか……)
剣を扱う相手と対峙した際、木でできた棍で対応することは難しい。その刃で容易く叩き斬られてしまうからだ。だので、鉄でできた棍を使い、剣を用いる相手と戦う――。そのような目的を持った棍を、先ほどからビアンカが扱っていたことをハルは悟る。
(そりゃ、動きも鈍くなるな……)
ビアンカが体調不良から動きが鈍かったわけではなかったのだと。ハルは安堵の溜息を吐く。安心した様子を窺わせるハルに、ビアンカは「ふふ……」と笑いを零した。
「その棍が上手く扱えたら一人前だって。そうゲンカク師匠に言われていてね。今日はそれを使ってみていたのよ」
「――それにしても、結構重いな。お前、さっき片腕で取り回しをしてなかったか……?」
やや嘆息気味にハルは言うと、手渡された鉄棍を自身も片腕で持ってみた。
男のハルの方がビアンカより腕力はあるものの――、それでも手にした鉄棍は片腕で取り回すには相当力が必要だと。ハルはズシリとした重みのある鉄棍を持ち、考える。
「コツがあるのよ。腕の力で持とうとするんじゃなくて――、振るった時の遠心力を利用して取り回すの」
くすくすと笑うビアンカは、ハルに手渡した鉄棍を再度手にし――、空を切る音をさせながら片手でいとも簡単に取り回し、最後に手早く脇に挟む形で鉄棍を構える。
だが、ハルには説明をされても、ビアンカの言う鉄棍の取り回しの方法が理解できなかった。しかし、目の良いハルから見てビアンカの今取った動作が、確かに腕の力だけで行っているものではないということだけは解せた。
ハルがビアンカの行った鉄棍の取り回し方に首を捻っていると、ビアンカは何かを思いついたのか悪戯そうな笑みを浮かべていた。
「ねえねえ。ハルもちょっと棍を使ってみない?」
「へ……?」
唐突に発せられたビアンカの言葉に、ハルは間の抜けた声を上げてしまう。
「いつもの棍だったら予備もあるし。ハルにも棍術を教えてあげる」
「いやいやっ! 俺は良いよっ!!」
ビアンカの申し出に、ハルは両手を勢い良く振り、拒否の返答を口にする。
つい先日、ビアンカと行った剣術と棍術での模擬試合の有様を思い返し、もうあのような肝を冷やす思いをするのは懲り懲りである。そうハルは心底思っていた。
「良いじゃない。誰かに教えながらやった方が上達もするって言うから、私も助かるし。ハルも剣術や弓の扱い以外を覚える機会になるし」
良いことだらけじゃないか――、と。ビアンカはそう言いたげに微笑む。
(うわあ……。これは、もう言い出したら聞かないやつだ……)
ビアンカの正論のような物言い。それを聞き、ハルは内心で嘆息する。
ビアンカがこのように言い出すと梃子でも動かないことを、ハルは理解している。それ故に、もう逆らっても無駄だと――。諦めに近い思いを抱く。
「――分かったよ。付き合うから……、今日はお手柔らかに頼むぜ……」
ハルは観念したように、溜息と共に言葉を零した。そのハルの返答を聞き、ビアンカは嬉しそうに笑顔を見せる。
「やった。それじゃあ、いつもの棍を持ってくるね。ちゃんとハルの分も持ってくるから」
言うや否や、ビアンカは踵を返し、屋敷の中に足早に戻っていく。
そんなビアンカの後姿を見送り、ハルは今日何度目になるか分からない溜息を吐き出した。
「まあ、棍術なら――、打根術と同じようなもんだし。何とかなるかな……」
打根術は、ハルのような弓の扱いを得意とする弓引きたちが、矢が尽きたり弓の弦が切れてしまった際、弓自体を武器として戦う術の一つである。勿論、その技術とビアンカの扱う棍術を同等視してしまうと、痛い目を見ることはハルには分かってはいたが――。
半ば諦めと、何とかなるだろうという楽観から、ハルは自身に言い聞かせるように呟きを漏らしていた。
暫くして、二本の棍を持って屋敷から出てきたビアンカに、ハルが痛い目に合わされたのは。言うまでもなかった。