兄騎士と妹姫⑥
「――姫、大丈夫? 疲れていない?」
行商馬車から降ろしてもらい国境近くの町を目指して歩き始め、幾度目かになるヒロの声掛け。
今まで楽しげに歩みを進めていた姫は、数度に渡るヒロの憂慮の声掛けに首を左右に振るって大丈夫であることを表していた。
しかし、ヒロの前を歩いていた姫はくるりと踵を返し、今度ばかりは眉間に皺を寄せながら素直に頷く。
「疲れちゃった……」
「だよねえ。日も落ちて来たし、今日はここまでかなあ」
馬車で半日以上は移動しているのだ。街道沿いの来た道を戻っているが、町まではまだまだ距離がある。
これ以上を姫に無理させて移動の強行をすることは難しいと考慮し、ヒロは仕方なさげに溜息をついた。
姫は頑張って歩いた方だと思う。大人であるヒロと子供の姫とでは、持ち前の体力がそもそも違う。だのにも関わらず、町の外に出てきたということで気分が高揚していた姫は、喜び勇んで辺りを物珍しげに見渡しながら今まで歩いてきた。
そんなにはしゃぎ回ったら途中で疲れてしまうというヒロの窘めも聞かず、姫はヒロの前を付かず離れずの間隔で元気に歩いていたのだが――、流石に体力の限界になったようだ。
姫のことを早めに休ませて、明日の早朝から動き出そう。
ヒロは考えたと同時に姫の手を取って握った。手を繋がれた姫は不思議そうな面持ちを浮かし、ヒロを見上げる。
「今日の移動はここまでにして休憩しよう。野宿になっちゃうけど平気かな?」
嫌だと言われてもどうしようも無いものの、ヒロは問う。すると、姫の顔付きが見る見る内に綻び、翡翠色の瞳が再び輝きを取り戻していくのが分かった。
「えーっと。その反応だと、野宿でも大丈夫そうだね」
さような姫の反応を目にして、ヒロは空いている手で頬を掻いて苦笑いを浮かす。
「うん、大丈夫っ! 外で寝るの、初めてだから嬉しいっ!!」
「そ、そりゃあ、初めてだよね。嬉しがるようなことでも無いと思うんだけど」
姫は身分の高い家柄の令嬢だ。野宿をした経験など、あるはずが無い。そして、野宿というのは楽しいものでは決して無いし、喜ばれるようなものでも無い。
外で寝食をすることは、意外と危険を伴う。魔物が襲ってくるのを警戒するため火を絶やすことができないし、それこそ先に行商人の青年が憂慮として言したように野党に襲われることもある。
そして何よりも――、横になって休むのに困る。布団などがあるわけでもなく、地面に直に寝転がるようだからだ。身体は痛いし、土と埃塗れになる。おまけに休んだ気があまりしない。
それを『嬉しい』と口にする姫との感性の違いに、自分が純粋に物事を目視せず現実的に見てしまい、妙に歳を取ってしまった気がして再び溜息が漏れ落ちた。
「まあ、いいや。街道から少し外れるけど、適当な木陰で休もう」
ヒロが深く考えることを放棄して言えば、姫は翡翠色の瞳を輝かせたままでヒロを見上げて頷いた。
「火を起こしたりするの?」
「するする。あとで薪になりそうな枝を探してくるよ」
「私も一緒に探すっ!」
「ええ。姫、疲れたんじゃないの? 休んで待っていて良いんだよ?」
姫を適当な木陰で休憩させている内に、ヒロは自身が火起こしに使う薪を集めに行くつもりでいた。それを口に出すと、姫はふるふると首を左右に振って繋いだヒロの手を小さな両手で強く握る。
「ヒロお兄ちゃんと一緒が良いっ!!」
姫が力強い声音で宣言すると、途端にヒロの頬が朱に染まる。
なんて可愛いんだろうという思いが、ヒロの心中に湧き立つ。胸の奥にくすぐったさとも温かさとも言い難い得も言われぬ感覚が灯り、ヒロは表情を緩めてへらりと嬉しそうな笑みを浮かせていた。
「それじゃあ、ヒロお兄ちゃんと一緒に探しますか。疲れすぎたら言うんだよ?」
「うんっ!!」
ヒロが笑顔で言えば、姫も満面の笑みを表情に帯びる。
談笑を取り交わしながら仲睦まじい様を窺わせ、ヒロと姫は街道から逸れた場所で野宿の準備を始めるのだった。
◇◇◇
ヒロは薪集めを姫と共に終わらせた後、手持ちの携帯食と水で姫に食事を摂らせた。旅に出る前にヒロが自製した干し肉を与えると、美味しいと喜色満面で食べてくれたのが何とも言えず嬉しかった。
野宿することを念頭に入れていたならば、それなりの道具も用意できたのに。せめて材料でも調達できれば、何かしら作ったのだけれども。さような無念さに思いを馳せてしまう。
その後は――、心気充実といえども疲れたことと腹が膨れたこともあって、姫の欠伸が止まらずに眠たげに目元を擦り始めたため、早々に眠るように促した。そして、姫はヒロが羽織っていたマントを借りて身を包まされ、ヒロの膝を枕代わりにして寝入っている。
ヒロは身に宿している“海神の烙印”が見せる悪夢を避けるため、眠ることをしない。だので、見張りと火の番を兼ね、眠る姫を見守った。
「――最初に出くわした時は凄く警戒されていたけれど、随分懐いてくれたなあ……」
ヒロの口端を小さな声が漏れ出す。その声音は愛しみを乗せたそれで、心の底から姫のことを愛らしいと感じている様を窺わせるものだった。
姫と出会った当初は、彼女に誣言の言葉を投げ掛けられ狼狽したものだ。
だが、姫は今や警戒心の欠片も見せず、安心しきった穏やかな寝息を立てて眠る。そんな姫を目にして、ヒロは紺碧色の瞳を細めた優しげな面持ちを見せていた。
(姫は大人に囲まれて過ごしているっぽいし、年上の人に甘えるのが上手なんだろうと思うけど。――それにしたって、会って日が浅いのに、ここまで懐かれるとは思わなかったな)
唯一ヒロが解せないとすれば、ここまで姫に懐かれた理由である。
姫は大人ばかりの環境で育ったため、大人に甘えるのが上手いのではないかと思う。そうして、兄弟のいない一人っ子なのだろう。それ故に自身が“妹”という存在に憧れを抱いたように、姫も“兄姉”が欲しかったのかも知れないと思いなす。
友達が欲しくて懐いてきたのかとも勘がえたが、姫の見せてくる態度は友達に対してのものとも違う。
「あ。そういえば、ハルが前に探しているって言っていた『お姉ちゃん』って。確か、亜麻色の髪に翡翠色の瞳の人って話だったな……」
不意に思い出した“群島諸国大戦”の折、ハルが語っていた彼の探し人である女性の特徴。その人は、姫と同じような亜麻色の髪に翡翠色の瞳を有する人物だったという。
それらを想起しながらヒロが姫の髪を手に取り手櫛で梳くと、ふわりとした柔らかな手触りの髪が指間から流れ落ちる。その流れを瞳に映しながら、ヒロは小首を傾げた。
「うーん。でも、ハルは“呪い持ち”じゃないかって言っていたしなあ。年上の人だったみたいだし。――案外、この子の血縁だったりするのか……?」
ハルの出身地は東の大陸だ。そして、ハルが件の女性に命を救われたのが、約六百年前の話。そう考えると、予想外のところで姫に関わりのある存在だったりするのではないか。
かようなことを思想していくが、結局のところ確かめようが無いためにヒロの憶測にすぎず、真意は分からない。
日が落ちて辺りが暗くなっても眠ることをしないため、夜はつい物思いに耽ってしまうことが多い。そのせいで様々なことが、疑問に浮かぶ。
焚き火をぼんやりと眺めて考え馳せてはみるが、どれも答えに行き着かないものばかりだった。
暫しの間、ヒロは近場を照らす炎に紺碧色の瞳を向けていた。
時折、穏和な手つきで姫の頭を撫で、身動ぎすることで開けたマントで身を包み直してやる。むにゃむにゃと姫が寝言のような短な声を発すると、視線を姫に落としてはヒロの口元から可笑しそうな笑いが零れ落ちる。
そんな風に穏やかに宵の時間が過ぎていったが――、ふとした瞬間、ヒロの顔付きが変わった。
今に至るまでは温かい眼差しを湛えていた目元が一変し、鋭さを帯びる。かんばせが煩わしさを訴え、紺碧色の瞳が警戒心を顕わにしたと思えば辟易とした溜息を吐き出した。
「――せっかく姫が寝ているんだから、静かにしてもらって良いかな?」
不機嫌を醸し出す声音がヒロの口をつく。
ヒロの声掛けに反応するように、周りに生い茂った草木がガサリと音を立てて揺れる。それと共に、下卑た笑みを浮かせる男たちが姿を現した。
焚き火の灯が男たちの手にする抜身の剣に反射して煌めく。
――さて。こいつらは山賊か? それとも追い剥ぎか?
海で悪さをするヤツらのことは『海賊』と呼ぶ。まあ、悪さをするばかりが海賊ではないが――。
陸で無法を働く者は山にいなくても『山賊』と呼ばれるのか。しかし、山賊と追い剥ぎの違いはなんなのだろう。
さような場違いなことを悠長に考えながら、ヒロは未だに眠る姫の身を僅かに引き寄せ、また一つ溜息を溢れさせていた。




