細やかな自尊心
――『女は命を生み出すもの。母なる海と同等の尊い存在である。それ故に敬い、大切に扱え』
古くから群島諸国で男たちに言い含められる信念。海に生きる男として守らなければならない誓いともいえる考え方だった。
そのため、女よりも男は強くいなければならない。そんな風にヒロは強く心に思い、生きてきた。
しかし、最近の女の子は強い。力が云々だけではなく、立場が強いとも思う。『女だから大人しく守られていろ』などという男尊女卑なことを言うつもりは微塵も無いし、強い女性はある意味で頼り甲斐があるとも思っている。
だが、守ってあげなければと思う存在に負けることで、自尊心を傷つけられるとは思いもよらなかった。
さようなことを頭の片隅で考えながら、右手に握るカトラスを振るう。雑念の入り混じる一撃は剣戟の音を響かせ、いとも簡単に去なされた。それにヒロは苛立たしげに舌打ちをつく。
ヒロの目の前に佇むのは、畝の強い長い黒髪を瞳と同色の藤色のリボンで一括りに結った青年――。否、男装の麗人であるシャルロットことシャロ。
シャロは片手に刺突剣、レイピアを構える。唇は微かに弧を描き、藤色の瞳を愉快げに細めてヒロを見据えていた。
ヒロとシャロの周りには同盟軍の面々が集まって、歓声や野次を飛ばす。
シャロの凛々しさに女性陣が黄色い声を立て、片やヒロを応援する女性の声も上がる。
元海賊やならず者たちはヒロとシャロのどちらが勝負に勝つかを賭け事の対象にしており、ヒロに賭けた大穴狙いたちが野次を荒げた。ヒロが勝つ確率が倍率の高いものとして設定されているというのが、またヒロの苛立ちに拍車をかける。
(くっそ。あいつら、後で覚えていろよ……っ!)
悔しげに歯噛みをして、ヒロは忌々しげに紺碧色の瞳を荒くれ者たちに向ける。
ヒロが僅かに気を反らした瞬間にレイピアの先端が鋭く差し向けられ、咄嗟にカトラスで流すと共に身を反らして躱した。
「軍主殿。試合中に余所見をするのは、いただけないな」
穏やかな声音で紡がれる窘め。内心で「そんなの分かっているよ」と悪態をつきながら、ヒロは気を改めてシャロに視線を投げる。
刺突に向いたレイピアはヒロの扱うカトラスと同様に、細身な見目に反して重量がある。だが、重さのあるはずのレイピアを、シャロは片手で軽々と扱う。
右腕の膝を軽く曲げ、手の甲を上にした姿勢。鍔の装飾のように添えられている指鐶に指を通した正統なレイピアの構えを取ってシャロは佇む。
ヒロは実の両親を亡くしてから海賊の頭目に拾われ、海賊として生きてきた。それ故に彼の剣術は、同じく海賊に身を窶していた者から教え込まれた群島式剣術を基礎にした我流。
腰を僅かに落として両足を開く、薙ぎ払いや刺突に移行することを想定した構えがヒロの型だった。
ヒロたち同盟軍が敵対する存在は、“オーシア帝国”と呼ばれる国の有する軍隊であるのだが――。その統率の取れた相手と戦うということを前提に入れた、シャロとの訓練試合だった。
正しい形式の下で振るわれる剣技ほど脅威なものは無い。我流で振るわれる剣技の方が自由が利いて強いと思われるかも知れないが、混戦となりやすい船上での戦いでは大きく剣を振るうことで味方をも傷つけてしまう危険性を孕んでいる。そうならないために本筋の剣技を見極める意味も兼ね、ヒロはシャロの手元に細心の注意を払う。
しかしながら――、シャロを見据え、再びヒロの頭には雑念が湧き上がってくる。
シャロは一見すると凛々しさも相まって、騎士の風格を持つ美丈夫だ。その風体がまた癪に触ってしまうとヒロは思う。自分の目の前に対峙する存在が男なのか女なのか、時折わけが分からなくなる。
そして、どうにも女性を試合相手にしていると意識すれば、上手く身体も動かない気がしていた。
徐々に眉間に皺を寄せ始めたヒロを目にして、シャロが嘆声を漏らした。そして、構えを取っていた右腕を降ろしてしまう。
「えっ?! ちょっと、シャロってば試合放棄っ?!」
思いも掛けていなかったシャロの動きに、ヒロは吃驚の声を上げる。それの返答として、シャロはこれ見よがしに今一度の溜息を吐き漏らしていた。
「軍主殿は些か雑念が多すぎるね。――大方、私が女だからと攻めあぐねいているんだろう? 私のことを男だと思い込んでいた時の方が、攻め込み方に覇気があったぞ?」
心中の痛いところを突かれてヒロは顔を顰めた。それと同時に肩の力を落とし、項垂れる。
「……なんていうか。そんなに僕って分かりやすい?」
「ああ。ものの見事に君の考えは筒抜けだ」
シャロは再三の溜息を吐き、遂にはレイピアを鞘に納めてしまった。もう試合相手をする気は無いと行動が言い表し、ヒロも釣られて溜息をつく。
決着を付けぬまま試合終了の空気が醸し出された途端、野次を上げていた荒くれたちが非難の声を荒げるが、ヒロは紺碧色の瞳を鋭く差し向けた。
「お前ら、うるさいっ! 後で相手してやるから首を洗って待ってろっ!!」
苛立たしい気持ちを抑えようともせずに声を張り上げる。カトラスを粗く左腰に携える鞘に納めたため、鐺と鍔が叩きつけ合い、高い音が響いた。
そうしたヒロの威圧的な言動に、大声を発していた男たちは立ちどころに口を噤んでしまう。その様子を目にして、シャロは愉快そうにカラカラと笑い出す。
「そうそう、そういうのだよ。次に私と試合をしたい時は、その勢いで頼みたいものだね」
その気持ちの切り替えができれば、こんな悶々としていない。ヒロは内心で思う。
オーシア帝国の軍勢の中には、女性の兵士や士官たちもいる。そういった者たちを相手にすることも今まで多々あったし、実際に手に掛けたこともあるが――、あまり気分の良いものでは無かったと懐う。そのことを考えるに、早々と拭い去らなければならない信念だとは分かっている。
しかし、幼い頃から頭の中に刷り込まれた『女性は大切にしなくてはいけない』という思いは、簡単にヒロの中から払拭できなかった。
改めなければいけない定見だと、分かってはいる。分かってはいるけれど――。
◇◇◇
「女性尊重主義も、度が過ぎると差別になる」
呆れ果てた声音で紡がれる口述に、ヒロは納得がいかなそうにして喉を鳴らして唸った。
「――と、いうかだな。なんでわざわざ俺に報告をしに来る?」
不機嫌な様を宿す赤茶色の瞳に睨みつけられるが、さようなハルの鋭い視線を気に留めずにヒロは眉根を下げてへらりと笑う。
「うーん、と。ハルが探しているっていう女の人も、君より強かったんでしょ。自分よりも女性が強いのが悔しいって、そう感じたりしないのかなって思ってさ」
少しだけ前に、ヒロはハルが探している存在の話を聞き出していた。
ハルの探し人である女性は、ハルの憶測では彼やヒロ同様の“呪い持ち”であり、かなり強い力を有した存在だったのではないかと語られていた。そうして、その人物は武術にも長けており、たった一人でハルを襲った魔物を去なしたという。
そうした話の内容を思い出し、ハルが自身より強かった女性を探しているという解釈の下で、ヒロはハルの元を訪れたのであった。
「あのな。俺があの人と出逢ったのは、ガキの頃の話だ」
「あ、そうか。『お姉ちゃん』って言っていたもんね。年上のひと――、痛いっ!!」
以前ハルが口走った言葉を思い返してヒロが何気なく口に出した矢先、机下でヒロはハルに足を思い切り踏まれていた。ヒロは咄嗟に足を引っ込め、突然の痛みに顔を顰めて唸ったかと思えば、慨嘆の表情をハルに向けた。
「もー、急に何をするんだよ。痛いなあ……」
「からかうつもりで来たんなら帰れ」
冷たい声音で言い放たれるハルの言葉に、忽ちヒロは表情に苦笑いを浮かせてしまう。つい口をついた自身の失言がハルの癪に障ったということは推し量るものの、そこまで怒りを顕わにされるとは思ってもみなかったようだった。
冷ややかな声音と同様の氷のような目つきをハルはヒロに差し向けており、「早く船室から出て行け」という言葉を口以上に雄弁に物語っている。
「か、からかうとか。そんなつもりじゃないってばっ! 純粋に君に相談をしに来たのっ!!」
ハルから猶々と白眼視を向けられ、ヒロは焦燥で弁解を言上する。それにハルはわざとらしく嘆声をついた。
「――お前は仲間に恵まれている。そのことを視野に入れて考えろ」
ハルの口端をついた言葉。それにヒロは首を傾げてしまう。
「無理に考えを改めようと意識して戦闘に支障を来すより、向き不向きを考えてこちらの軍勢を動かせば良い」
「……というと?」
ハルの口述にヒロは不思議そうにして増々首を傾げる。するとハルは、一つ溜息を吐き出して言葉を綴っていく。
「お前自身が女相手に武器を振るいづらいと思うなら、いっそのこと開き直って、そういうことを気にしない連中をぶつければ良い。――まあ、お前の根本的な悩みの解決にはならないけどな」
「う、うーん。そうだねえ。進軍に関しては、ミコトと相談してみるよ……」
なんとも同盟軍の軍主として情けない話だ――、などと。ヒロは思いつつも、軍師であるミコトと相談して考慮する旨を口に出す。だが、心境としては納得のいっていない様をハルに悟らせ、再び彼に嘆息を漏らさせた。
「シャルロットの相手に関しても、仕方ないと思え。あいつの強さは別格だ。――何だったら、手加減しても勝てるくらい、お前が腕を上げろ」
「簡単に言うねえ。こうも連敗続きっていうのもさ、男としても軍主として示しが付かなくて困っているんだよ?」
「男だ女だなんていうものは、戦場に出れば無駄な考えだと気付け。戦いで女相手だと油断をしたら、殺されて終わりになる」
ハルの言い分もヒロにも分かる。理解はするが――、なかなかとヒロの中では受け入れきれない信条であり、ヒロは眉間に皺を寄せた。
だが、ヒロの様子を意に介さず、ハルは尚も話を続けていく。
「お前は同盟軍の上に立つ者だ。うだうだと自分のちっぽけな自尊心を守ることに拘っていたら、お前の後についてくる奴らが苦労をする。それを自覚しろ」
「ちっぽけなって……、手厳しいなあ……」
言い放たれる歯に衣着せぬ物言いに、ヒロは眉根を下げて大きく嘆声した。
だがしかし、男としての面目を保つために我儘を貫くか、軍主という立場に座して仲間を守り率いるかを天秤にかけるとなれば、後者を選ばざるを得ない。
自身の信念が如何に細やかな自尊心を固守するための私意であるか、ヒロは思い馳せる。
「まあ、ハルの言いたいことも分かるよ。――その辺りに関しては、僕も僕なりに考えてみる」
「そうすると良い。このイロモノばかりの同盟軍を引っ張れる奴はお前以外にはいないんだから。しっかりとしろよ、リーダー?」
そこまで口にすると、ハルは意地悪げに唇に弧を描いた。
ハルの発した『リーダー』という言葉に、ヒロは紺碧色の瞳を丸くして瞬く。
「あはは。初めてハルに『リーダー』なんて呼ばれたねえ。君は僕のことを『青二才』だっていうんでリーダーとして認めてくれてないと思っていたから、ビックリしちゃったや」
「『青二才』のままで良ければ、撤回しても良いぞ?」
「いやいや、遠慮しておくっ! そのまま『リーダー』にしておいてっ!!」
ハルの返弁にヒロは首を慌てて振るい、拒否の言を出す。それにハルは可笑しそうに笑みを浮かしていた。
それは過ぎし日の懐かしい想い出の一つとなって、ヒロの記憶に刻まれる出来事になった。
この際にハルが語った言葉は――、数百年の後にヒロと出逢うことになる人物が偶然にも同じ言葉を口にして、ヒロの中にあった一つの考えを改めさせるのだった。