邂逅遭遇④
ハルがクロエとイツキとの邂逅を果たし、四日ほどが過ぎた。
その後はクロエの言う『手伝い』の要請も無く、乗り合わせている船が目的地である中央大陸の港町への折り返し地点に差し掛かった。そんな日のことだった。
その日の海域は霧が出ており、薄く霞掛かった辺りは白く、船の進路が全く見えない。吹く風も凪に近いため、霧を吹くにも帆船である船が進むにも力が足りない状態であった。
辺りが明るいことから今が昼間だと分かる程度で、太陽の姿も見えず酷く陰鬱とした雰囲気を醸し出す。
そうした中でハルは、眉を顰めていた。
目が覚めてから、左手の甲――。そこに刻まれる呪いの証である“喰神の烙印”が疼き、彼に何かを訴えかける。だが、それが何であるのかは、ハルには察しきれなかった。
ただただ、不穏な嫌な予感がする、と。そう思った彼は弓を担ぎ、海原の方へ。視界の全く効かない霧の先を見据えるように、鋭さを持った赤茶色の瞳を向ける。
「起きておったか、ハルよ」
「おー、ハル。おはよーさん」
息を詰め、辺りに注意を払っていたハルへと、不意に声が掛けられた。
遅鈍な動きでハルがかぶりを動かすと、視線の先に楽しげな微笑を浮かべるクロエと、眠たげに欠伸を吐き出すイツキの姿。
その二人の井出達を目にして、ハルは溜息をつく。
「お前たちがそういう格好をしているってことは――。何かあるんだな」
ハルの言葉を聞き、クロエは笑いを零す。その笑いが、問いに対して然りを表すものだということに、ハルは聡く察し付いた。
ハルの目にしたクロエとイツキは、何かに備えた身ごしらえをしていたのだった。
クロエは白い衣服の上に旅装束の薄い青色をしたマントを羽織り、その手には折りたたまれた白い日傘を持つ。イツキは左側の腰に剣を携えていた。
「おんしも何か気配を察して、弓を携えておるのじゃろう? 聡いことで何よりじゃな」
クロエは不敵に笑い、言う。それにハルは頷くと、再び霧の先に視線を向けた。
「言っていた『手伝い』って言うのは、これのことか? いったい、何がある?」
クロエから視線を外したままハルが問うと、彼女は幾度か頷く仕草を取る。そして、それに応えるために口を開いた。
「――幽霊船じゃ」
「は……?」
思いも掛けていなかったクロエの返しに、ハルは眉間に深く皺を刻み、視線を投げ掛ける。その顔付きは「何を言っているんだ?」と言い表していた。
だが、クロエは怪訝そうにするハルに細めた真紅の瞳を向け、くつくつと笑う。
「……俺をからかっているのか?」
不機嫌にハルが言えば、クロエは首を振るった。
「からかってなどおらぬでな。この霧の向こうには、幽霊船がおる」
尚も可笑しそうに笑みを零し、クロエは口にした。そうした返しに、ハルは更に不機嫌な面差しを浮かべ始めた。
「さような顔をするでない。――最近、この辺りの海域で、船が行方不明となる事件が勃発しておるという話。おんしは聞いておらんのかえ?」
そのクロエの言葉を聞き、ハルは、ふと船に乗る前に港町で聞いた噂話を思い出す。
(そういえば、この航路は船が多く行方不明になっていて、乗客があまりいないって言っていたな……)
西の大陸から中央大陸へと赴く航路。その途中の海域で、船が突として消息を絶つ出来事が頻発しているということを、ハルは乗船券を買う最中で聞いていた。
事故があったのか、それとも何かの事件に巻き込まれたのか。『海上騎士団』と呼ばれる、海の治安と秩序を守るために編成された船乗りたちが、捜索及び調査を行ったものの、その真相は依然として掴めなかったという。
そうした事象が起こっていることもあり、今、船に乗り他大陸に渡ろうとする者の数は少ない。
それ故にハルたちが乗り込んでいる船も、乗船客が疎らで航行船としては静かな雰囲気を有していたのだった。
「クロエは――、その行方不明事件が、幽霊船のせいだって言うんだな……?」
「そうじゃ」
ハルが事情を了得している様を見せると、クロエは肩をそびやかして返す。
しかし、ハルはクロエの返答を聞き嘆息を吐き出すと、馬鹿馬鹿しいと言いたげな面持ちを見せた。さようなハルの態度に、クロエは眉を微かに釣り上げる。
「何じゃ。納得した様を見せおったクセに、信じておらんな」
「幽霊船とか、どうして信じられると思う……」
「そうさのう。したらば、幽霊船の正体は……、“呪い”じゃと言うておこうか」
「は?」
澄まし込んだ面持ちを浮かしながらクロエが発した言葉に、ハルは再び目をやると怪訝そうにして声を漏らした。するとクロエはニヤリと笑みを窺わせ、更に言葉を続けていく。
「人間にしか“呪い”は遺されぬと思っておるじゃろうが、それは大いな間違えじゃ。不動なるもの――、まあ、今回は船に遺った“呪い”故に動くのじゃが……、そういった意思の籠らぬ物にも遺恨が宿る」
「それは……、初耳だぞ……」
眉を顰めたハルが不審そうな声を零すと、クロエは得意げな表情を見せて首を縦に動かす。
「そうじゃろうな。大抵のさような物に宿った呪いは、ある人物が根こそぎと集めておる故に世に出回ることが、ほぼ無い」
深紅色の瞳で霧の向こうを見つめながら、クロエは尚も語っていく。
「そやつの目を逃れても、人間が崇めておったりしおる。良く聞くであろう。例えば、とある教会に『奇跡を起こす、神から遣わされた神器』じゃと祀られておる物を。あれも“呪い”を宿すものじゃ」
クロエの言を聞き、ハルは口元に手を当てながら納得の様相を見せていた。その姿を目にし、クロエは微笑む。かと思うと――、不意に顔付きを変え、愉快げな色を表情に浮かし始めた。
「そして、これが――。今まで“傲慢”の目を逃れてきた呪いの一つじゃ」
逸楽の声音でクロエが言い放つ。その瞬間にハルは、いつの間にか船の航跡波を作る音が、自分たちの乗っている船のものだけでは無いことに気付いた。
咄嗟に霧の先を見据えるように赤茶色の瞳を向けると――、航行船に接舷直前まで迫った帆船が並走しているのが映る。
「これは――っ!?」
何故に今まで気が付かなかったのかと言うほど、目前にまで迫っている船にハルは息を呑む。
航行船の隣を並ぶ帆船は、真っ黒な巨体に軋む音を響かせながら海原を走る。その船体は朽ちかけ、舷側や聳え立つ三本マストに広がる帆の所々に穴が開いているのが見受けられ、如何にも幽霊船と言った趣を醸し出していた。
そして――、その船体全体から感じる禍々しい気配。それに呼応するかのように、ハルの左手の甲に刻まれる“喰神の烙印”が、ざわりと蠢きを示した。
凪の状態で大した速度も出ないはずなのにも関わらず、幽霊船と称された船は帆に風を孕む音を立て、徐々に航行船に近づいてきていた。
「白い姉ちゃんの言った通り、本当に幽霊船が来ちまったな……」
唖然とした様相で幽霊船を見据えていたハルの耳に、不意に男の声が届く。その声に振り向くと、青白い顔色をした航行船の船長がクロエの元に歩み寄って来ていた。
「だから言うたであろう。わらわは嘘をつかぬ」
信じていなかったのかと言いたげな面差しでクロエが返すと、船長は微かに頷く。
「船乗りや乗船客たちに、幽霊船に乗り込もうとするなって指示はしたか?」
今まで眠たげにしていたイツキが、漸く覚醒してきた風体で船長に問う。それにも船長は首を動かして首肯した。
「ああ……。――というか、そんな命知らずな馬鹿は、この船にはいねえよ」
「おう、上出来だ」
そのクロエたちのやり取りを目にし、ハルは彼女たちが先駆けて、この船を取り仕切る船長に話を付けていたことを察する。
(用意周到なことだな。全く……)
そして半ば呆れの色が混ざった悪態を心中で吐き、嘆息してしまう。
このような事情ならば、勿体ぶらずに先に言えば良いものを、何を言い惜しんでいるのだろうと。ハルは心中で思いなす。
「本当に、あんたたちに任せちまって、良いのかい……?」
「問題は無いぞよ。こちらは、さようなことを専門としておるでな」
「分かった。頼りにしているぞ。それで、上手くいったとしたら、俺たちゃ何をしたら良い?」
不安の色を顔色に呈したまま、船長はクロエとイツキを交互に見やり言う。
すると、クロエは静かに腕を動かし、その手の人差し指で空を指差した。
「――空じゃ」
「空?」
船長が不思議げに言葉を返すと、クロエは頷いた。
「雷が鳴り、稲光が見える頃――、風が再び吹く。そうしたら舵を取り、幽霊船から離れると良い」
クロエが凛とした声で紡ぐ。それに船長は幾度か首を縦に動かす。
「船の周りには結界を張った故、魔物は草々に乗り込んでは来れぬ。その間に、わらわたちが幽霊船に乗り込み、魔物どもを一掃しようぞ」
嘲り笑うように唇を歪ませ、クロエは幽霊船に向き直る。その表情に不安を纏った様子は一切なく、自信に満ち溢れたものを宿していた。
イツキもどこか楽しげな面差しで、幽霊船を銀色の双眸で見据える。
「さて、ハルよ。契約の履行じゃ。心して掛かると良い」
覇気のあるクロエの声にハルは頷き、弓を手に取った。
そうして三人は、幽霊船に乗り込んでいくことになるのだった。