邂逅遭遇①
小春日和といえる暖かい日だった。
ウェーバー邸の一角にあるガラス張りの談話室には、太陽の優しい光が射し込み、その一室の空気を温かなものに変えていた。
部屋に置かれたソファに腰掛け、ハルとビアンカは各々の好きなこと――。ハルは読書を、ビアンカは刺繍をして過ごす。
今日もまた穏やかな一日が、そこで推し移ろうとしていた。
「はあ……。何か、目が疲れてきちゃったから休憩……」
ビアンカが溜息を漏らすと共に刺繍に励んでいた手を止め、ソファの背凭れに寄り掛かった。
そんなビアンカを、ハルは本を読んでいた目線を上げて盗み見る。そして、次には視線をビアンカの膝の上に置かれた、刺繍が施される布地に向けた。
刺繍はビアンカの唯一と言っても過言では無いだろう、年頃の少女らしい趣味の一つだった。家庭教師の授業などが無い時間を見計らっては、難しい紋様の刺繍に挑戦してみたりと、ビアンカは意欲的に新しい技法に挑んでいる。
徐々に腕前を上げていくビアンカの技術を目にして、ハルは感嘆の溜息を零す。
「結構進んだ方だろ。大判の布に刺繍するんだと、気が長いけどな」
「うん。縫っても縫っても終わらないわ……」
微かに笑いを含んだハルの言葉に、ビアンカは辟易とした様を声音に混ぜて嘆声する。
ビアンカが現在手掛けているのは、テーブルクロスほどの大きさがある大判の布の縁取りだった。既に布地の半分ほどに色鮮やかな花を象った刺繍を施してはいるものの、その刺繍は非常に手が込んだものであり、いくら縫っても終わらないとビアンカは嘆く。
ビアンカの悔いるような言葉を聞き、ハルは苦笑を口から零してしまう。
「まあ、あんまり根を詰めないでやれば良いさ。好きでやっていることなんだし」
あくまでもビアンカが手掛けている刺繍は趣味の一環。家庭教師の出した宿題というわけでも無かったので、仕上げに焦る必要も無い。ハルは思い、それを口に出す。
そうしたハルの言い分に、ビアンカは頷いていた。
「うん。少し気分転換しよっと」
言うとビアンカは、膝の上に置いていた布地と裁縫道具一式を目の前のテーブルに乗せた。そして背筋を伸ばすように、大きく腕を天井に向かって広げ上げる。
「ねえ、ハル――」
「ん? 何だ?」
不意にビアンカに声を掛けられたハルは、本に落とそうとしていた視線を再びビアンカに向けた。
「気分転換に、何かお話聞かせてよ」
「話……?」
ビアンカの発した言葉に、ハルは首を捻る。ハルの疑問からの聞き返しに、ビアンカは首肯を示す。
「旅の間のお話」
「ああ、そういうことな」
ビアンカの言いたいことに推し当り、ハルは読んでいた本に栞を挟んで閉じた。かと思うと――、目を伏して考える様子を窺わせる。
(ビアンカに話をしても差し障りの無い出来事って、他に何かあったっけかな?)
ハルは心中で一考に思いを巡らせる。
ハルの旅路の出来事は――、彼が身に宿す“喰神の烙印”の力に関わるものが多かった。そのため、迂闊に他言できないような事態も多く、ハルは経験をしていた。
ハルは度々とビアンカに旅の合間の話を強請られ、その都度、話をしても当たり障りの無い話をしてきた。
それは今までの四年間、行われてきたハルとビアンカの日常でもあり――。そろそろハルの中で、ビアンカに話をしても大丈夫そうな旅の逸話が底を見せてきていたのだった。
(少し事実を隠しながら、話でもしてやるか……)
話せない事柄は隠してしまえば良い。そうハルは思い至り、ビアンカに目をやる。
ハルが見やったビアンカは、期待に満ちた眼差しをハルに向けていた。
「――これは、何年か前に船で大陸を渡っていた頃の話なんだけど……」
こうしてハルは、自身の旅路の話をビアンカに綴っていく。
ビアンカに明かしても問題の無さそうな真実と、少しの隠し事と嘘を織り交ぜながら――。
◇◇◇
――『袖擦り合うも、多生の縁』
昔から、そのような言葉があるな、と。ハルは思う。
人との縁は全て単なる偶然では無く、深い縁により起こるもの。だから、どのような出会いでも大切にしなくてはならない。
さような意味だったはずだと、ハルは心中で考える。
しかしながら、ハルとしては、どのような出会いでもヒトと関わる気は――、更々無かった。それ故に深く踏み込んで誰かに関わられるのを、彼は良しとしない。
それはハルが身に宿す“喰神の烙印”と呼ばれる、“身近な人々に不幸を撒き散らし、死に至らしめる呪い”が持つ性質を彼が領得しているためでもあり――。その呪いの力から、ヒトを遠ざけ突き放して接しようと思索した結果でもあった。
そのような決め事を、ハルは心の中でしてはいるものの――。
永い旅をしていると、旅の合間に名前は知らないが顔は知っている。そのような見知った存在とも少なからず縁を持つものだということを、ハルは推し量っていた。
「――良く逢うのう。小童」
船の甲板で海風に当たっていたハルは、不意に声を掛けられる。それに対し、不機嫌の色を隠そうともしない面差しで、ハルは声の主に赤茶色の瞳を向けていた。
ハルに声を掛けてきたのは――、肩までの長さの白銀髪に深紅色の瞳をした、麗しい見目の女性だった。肌の色は白磁を有し、身に着けている衣服も白。そして白い日傘を差して佇む。
女性の井出達は、全体的に真っ白な印象を抱かせた。
その女性は深紅色の瞳に愉快げな様を宿し、ハルを見据える。
男という生き物であるならば、女性の見目に惹かれ、声を掛けられただけで鼻の下を伸ばす態度を取ってしまうであろう。それほど妖艶で、美しい風貌をした美女であった。
だがハルは、声を掛けてきた女性に対し、冷ややかな一瞥を投げ掛ける。
何故ならば――。
「“魔族”が俺に何の用だ?」
冷めきった声音で、ハルは機嫌の悪い様相を窺わせる。
そのハルの素っ気ない返事に、女性は微笑みを浮かべていた顔に、更に可笑しいと言いたげな笑みを見せてカラカラと笑い出す。
「ツレナイ小童じゃのう。顔を知らぬ仲でもあるまいに」
「――半世紀に一度、顔を合わせるか合わせないか分からない奴に、知り合いはいない」
ハルは感情を感じさせない、突き放すような口調で尚も返す。
かようなハルの返答に、女性は「ふーむ……」と呟きを漏らした。
「おんしは、存外冷たい男じゃのう。そりゃ、偶に顔を合わせるくらいじゃが。――互いに、その存在は気に掛けておったじゃろう?」
女性は言いながら、口の端を持ち上げてニヤリと笑う。その口元には細く長い犬歯――、牙が顔を覗かせる。
「それは、あんたが不穏な気配を醸し出しているからだ。近くにいられたら、嫌でも気に掛る」
言うとハルは、女性に向けていた視線を外し――、再び今まで目を向けていた海を見やる。
すると、そのようなハルの態度に女性は「くく……」と、喉を鳴らすように笑った。
ハルと女性は――、ハルの永い旅の最中で半世紀に一度会うか会わないかという、顔を知っている程度の間柄であった。
立ち寄った町の中ですれ違う、旅の街道で見掛ける。本当にその程度の、互いに名乗りあったことも、話をしたことさえも無い仲。
果たしてそれを『顔見知り』と呼ぶのかと言われれば――、答えは『否』だと。そうハルは見為す。
ハルに声を掛けてきた女性は、ハルにとって最も関わり合いになりたくない存在だった。そして、このように言葉を交わし合うなどと、露ほども考えていなかった。
「あんたは吸血鬼の魔族――。クロエ・ルメール、だろう。“同族殺し”で有名な」
女性から目を離し、それでも警戒を怠らない雰囲気を醸し出しながら、ハルは口にする。
ハルの口上に女性――、クロエは、我慢の限界と言わんばかりに、日傘を持っていない手で腹を抱え、大笑いを上げ始めた。
「なんじゃ。わらわはさように有名人かえ?」
「“同族殺し”――、でな」
笑いで涙目になるクロエの言葉に、ハルは冷めた口調で返す。
「その言い様は、無いよのう。わらわの行いは人間に感謝はされども、さような名称は芳しくないものじゃ」
ハルからの返しに、クロエは大げさに嘆声する。
だが、ハルは猶々と追い打ちを掛けるように、多弁に言葉を綴った。
「魔族は同胞殺しをしないと思っていたが。――俺の思い違いも良いところだったようだな」
「そうさのう。さような意味合いで取られると、わらわに弁解のしようは無い」
クロエは苦笑混じりに言う。しかしながら、その態度は――、詮方ない様を語る口振りには似つかわしくない、不遜な情態を明示する。
傲然たるクロエの様子を傍目に見やり、ハルは「ふん……っ」と鼻を鳴らす。
「じゃがのう……、わらわが殺めておるのは――。人間に害なす魔族だけ、と言ったら?」
「は……?」
不敵な笑みを表情に纏わせクロエが放った言葉。それにハルは怪訝そうな表情を見せ、声を漏らした。
「小童なら、知っておるじゃろう? 人間が魔族を悪戯に殺めると、いかような事態が起こるか……」
クロエは更に言うと、深紅色の瞳を細め――、ハルの答えを待つのであった。