日なか小話
コンコンッ――。
朝のウェーバー邸内に、木でできた重厚かつ、繊細な模様の装飾が施されている扉を叩く音が鳴る。
扉を叩いた主――、ハルは廊下に立ち、扉を叩くために拳を握った手を上げたまま、部屋の住人の返事を待った。
だが、暫く待っていたものの、部屋の住人――、ビアンカからの返答は無かった。
「んん――?」
扉を叩く音が聞こえなかったのかとハルは思い、今一度、扉をノックする。
しかしながら――、ビアンカからの返事が無い。
「おい、ビアンカ?」
ハルは、今度は扉越しに声を掛けてみるが――、やはり返答の声は戻って来なかった。
一切戻って来ない返事に、ハルは訝しげな表情を浮かべる。「もしかして、何かあったのか」――、という考えが一瞬頭を過る。
つい最近、ビアンカが“リベリア解放軍”と呼ばれる反王政派の手により、誘拐されるという事件が発生したばかりなため、ハルは過剰なほどビアンカの身を案じている節があったのだった。
(――そんな気配も無かったし。まさかな……)
そんな心配事を振り払うよう、ハルは軽くかぶりを振る。そうして意を決したように、ビアンカの部屋の扉を鋭く見やる。
「……部屋、入るぞ?」
年頃の少女の部屋に断り無く足を踏み入れるものではない、と。そう心得ていたハルであったが、部屋の扉を叩こうとも声を掛けようとも返事をしてこないビアンカを案じ、扉のノブに手を掛けた。
ハルは、そっとビアンカの部屋の扉を開ける。僅かに開いた扉の隙間からハルは顔を覗かせ、ビアンカの部屋を見渡す。
すると――。
「――んだよ……。まだ寝ているのか。珍しい……」
部屋のベッドの様子を目にし、ハルは安堵の色が混じる言葉を漏らしていた。
いつもであれば、ビアンカの起床は早い。それが今日は珍しく、未だにベッドで横になり、惰眠を貪っていたのだった。
そのことにハルは眉を顰めつつ、静かな足取りで部屋に入り、ビアンカの眠っているベッドへ歩み寄っていった。
「おい、ビアンカ」
ハルはベッドの傍らに立ち、眠るビアンカに呼び掛ける。しかし、ビアンカが起きる気配は、一向に感じられなかった。
仕方ない――、といった様子でハルは溜息を吐き出し、ベッドの端に腰を掛け、今度はビアンカの肩に手を乗せて身体を揺する。
「おーい、いい加減に起きろよ。寝坊助」
身体を揺すられ、ビアンカの瞳を縁取る亜麻色の長い睫毛が煩わしげに、ふるりと震える。一瞬だけ、薄っすらとビアンカは目を開くが――、それはまた伏せっていった。
ビアンカのその状態を目にし、ハルは再び眉間に皺を刻んだかと思うと――。
ハルは右手の中指を内側に丸め親指で押さえ、中指に少し力を込め――、親指を離して中指を解き放ったかと思うと、それでビアンカの額を弾く。――所謂デコピンを見舞わせた。
「あうっ!!」
突然、ハルから襲撃を受けたビアンカは、額を弾かれた痛みで小さく声を上げた。
すると、やおら開いた不機嫌さを帯びた翡翠色の瞳が、ハルを睨みつける。
「――痛い……っ!!」
不服の色を宿す声を発し、ビアンカは額を手で押さえている。そんなビアンカの様に、ハルは微かに悪戯そうに笑った。
「お前がなかなか起きないからだろうが。――朝飯の時間が過ぎても起きて来ないから、エマさんたちが心配していたぞ?」
「だって、まだ眠たいんだもん。もう少し寝かせてよう……」
ビアンカは言うと、掛布を頭まで被り寝直そうとする。そのビアンカに、ハルは「待て待てっ!」と慌てた声を掛け、それを阻止していた。
「うう。ハルの意地悪……」
「いやいや、意地悪じゃねえし。眠いなら後で昼寝でもすれば良いだろ。とりあえず、お前が起きて来ないと朝飯が始まらないんだから、さっさと起きる」
ウェーバー邸の主であるリベリア公国の将軍――、ミハイルが不在の現在。この屋敷の上に立つ立場にいるのは、ミハイルの娘であるビアンカであった。
そのビアンカが起き出し、食堂の席に着かない限り――、ウェーバー邸の朝の給仕が始まらない。そのため、早く朝食にあり付きたいハルにとって、今はビアンカを起こすということが一番の目当てだった。
そんなハルであったが、ビアンカの眠っていたベッド脇に置かれるサイドテーブルに置かれた一冊の本が、フッと目に止まった。
「――お前、もしかして夜更かししていたのか……?」
ハルは本を目にして、ビアンカに問うた。
サイドテーブルの上に置かれているその本は――、つい先日、ハルがビアンカに貸し与えた本だったのだ。
「ん。読み始めたら面白くて……、止まらなくてねえ……」
言いながらビアンカは欠伸を吐き出し、ベッドに横たわったまま大きく伸びをする。
「栞が挟んでないみたいだけど……。もしかすると……、読み切った、のか……?」
まさか――、と思い、ハルは再び問いをビアンカに投げ掛ける。そのハルの問いにビアンカは、「そうだよ」と、シレッと返していた。
「マジか。一体、何時頃に寝たんだよ、お前……」
「んー……。空が白み始めていたから。本当に朝方……、かなあ?」
さようなビアンカの返答を聞き、ハルは嘆息を漏らした。
ビアンカの行為に呆れつつも、はたと、ハルはあることに思い当たる。
「本当に読み切ったのか、お前……?」
ハルがビアンカに貸し与えた本は、兵文書や軍事指南書などとは違い、フィクションを題材にした物語を書き綴る無名作家の手掛けた俗に『小説』と呼ばれるものである。話の内容は、下手をすればあらすじや後書きの部分に目を通してしまえば、大体がどのような物語であったかが把握できてしまうものだった。
それ故に、ハルは本当にビアンカが、貸し与えたその本を一晩で読み切ったのか疑問を覚える。
「嘘じゃないわよう。最後の方とか――、まさか主人公が宿敵を助けに行って、行方不明になっちゃうなんて思わなかったよ。でも、二人とも生き延びていて、良かったってなったわ」
ハルに本当に読み切ったのかという疑惑を掛けられたのを察し、ビアンカが唇を尖らせ、物語の内容を口にした。
「んじゃ、主人公と宿敵の関係は?」
「実は生き別れの兄妹、でしょ?」
ハルの問いに、間髪入れずにビアンカが答える。
「実は兄妹だったって知って、ちょっと驚いたわ。宿敵のお兄さんの方が執着している感じが少しあったけれど、それは主人公の宿していた力に対してだって思っていたのに。実は兄妹――、なんて、そんな素振り殆ど無かったじゃない?」
「……その主人公が宿していた力の正体は?」
「慈愛と戦の女神・アテナの恩恵。お兄さんの方は破壊と再生の神・バルドルドの恩恵を受けていた」
ハルの再三出された本の内容に対しての問いに、ビアンカは得意げに笑みを浮かべスラスラと語っていく。
「追手として出てくる二人組の異名は?」
これならば本当に内容を読んでいないとわからないだろう――、という偏執的な問いを、ハルは投げる。
「“白角の暴れ馬”と“首狩りシスター”よね。特に“首狩りシスター”だなんて、裏では死刑執行人で、表向きではシスターっていう設定が変わっているなって思ったわ」
ハルの投げ掛けたその問いにも、ビアンカは自身の感想を述べながら答えていく。
「マジか……」
本当にしっかりと読み込んでいる――と。本の内容について応酬しあい、ハルは推し量る。
(――結構、内容が重厚で、本自体も分厚いのに。それを一晩で読み切っちまうとか……)
ビアンカが貸した本を本当に一晩で読み切ったことを悟り、ハルは呆れを含ませた溜息を吐き出す。
しかしながら――、ハルは貸し与えた本を、ビアンカが面白いと言い読んでくれたことに、貸した甲斐があったと。そう内心で思ってしまうのも事実だった。
「んー。なんか、お話していたら目が覚めてきた。起きようっと」
ビアンカは言うと、上体を起こしベッドの上で大きく伸びをする。
そうして、サイドテーブルに置かれた髪留めを手に取り、亜麻色の長い髪を簡易的に一括りに纏めると、のそりとベッドから抜け出した。
やっと起きてくれたか――、と、ハルはホッとしつつ、ビアンカの動きを見守っていた。――が、しかし、クローゼットの前まで足を運んだビアンカは、クローゼットの扉に付けられた取っ手に手を掛け、そこで動きを止める。
「――ハル」
「ん?」
未だにベッドの端に腰を掛けたままでいたハルに、不意にビアンカは声を掛けた。
「私が着替えるところ。見ているつもり……?」
ハルの方へ、首を傾げ見やりながら、ビアンカは悪戯そうな笑みを浮かべていた。
そのビアンカの言葉に、ハルはハッとした様を見せ、慌てる。
「わ、わわ、悪いっ!! 俺っ、廊下で待っているからなっ!!」
ハルは頬を朱に染め、慌てて立ち上がると――、足早にビアンカの部屋を後にしていった。
バタンッ!!――と、やや乱暴な扉が閉まる音が部屋に響く。
「――そんなに慌てなくったって良いのに、ねえ……」
ハルの狼狽ぶりに、ビアンカは可笑しそうにくすくすと笑っていた。