注文の一つしかない料理店
“Pickman's Model”より
ああ、腹が減った。
会社からの帰り道。俺は唸り声を上げる自分の腹をさすりながら、誰に聞かせるともなく呟いた。
いくらデスクワークとは言っても、碌に休憩も取る時間すらないのではたまったものではない。朝、自宅を出ながら大急ぎで流し込んだゼリー飲料の味を思い出しつつ、俺は大きなため息を吐いた。
このまま帰っても明日の仕事に支障はあるまい。だが馬車馬のように散々働いたあげく、腹も満たせないまま布団に転がるだけの自分を想像すると、何やら無性に気に入らなかった。
人間、たまには好きなものを喰ったってばちが当たる筈はない。
どこか飯が食えるところへ行こう。そうだ、せっかくなら旨い飯の方が良い。
家に帰るまでには、きっと空腹を満たしてやる。
固く誓って、俺は足を速めた。
……しかし、物事はうまく運ばないもので。
生憎とこの時間まで開いている店は見当たらなかった。普段なら二十四時間営業しているファストフード店も、今日ばかりは改装工事中だったり他の客で混雑していたりと、タイミングが合わない事この上ない。
これだけ腹の虫が鳴きまくっている状況では、ほんのわずかな時間すら待たされるのには抵抗を感じてしまう。しかし、そんな状態で次の店に賭けようと足を動かしても、そちらの店だってまた何らかの事情ですぐには飯にありつけないのだ。
おまけに、どういうわけだかコンビニの一つすら見つからない。
まるで何者かの悪意が作用しているのかと勘違いしてしまいそうだ。
すでに腹の虫は瀕死の有様で、俺の我慢も限界に達していた。今なら何だって喰えそうだと思えるほどに。
やり場のない失望感と怒りは、しかしどこかへぶつけるだけの余力すらなく。俺の胃袋は、もはや胃酸過多で穴が開くのではないかというほどに空虚なままだった。
畜生。こんなことなら、あのとき正直に家へ帰っていれば良かった。
失意のまま、ふらふらと当て所なく歩く。とにかく片っ端から店を回っていたせいで、現在地がどこなのかすら曖昧になってしまっている。
辺りを見回しても真っ暗な民家が立ち並ぶばかりで、それに四方を囲まれている。真っ暗闇が前後左右上と、あらゆる箇所から俺を圧し潰さんと迫ってきているようで背すじがぞわぞわする。
くきゅるるる、と胃袋が情けない音を立てる。
いつしか息は上がり、足元は覚束無くなり、視界も薄ぼんやりとしてきた。ここしばらくまともな食事をしていなかったことを思い出す。
朦朧とする思考のなかで、ふと自らの指に目が向いた。
骨張って、しなやかさの欠片も感じられない指。思わずそれを自らの口へと運んだ。
――がりっ。
鋭く走った熱で、反射的に口を放す。自らの人差し指を見ると、そこにはじわりと血が滲んでいた。
俺はへなへなとその場に座り込んだ。情けなくて、涙がこぼれた。
畜生。
ちくしょう。
こうなったら、歩くだけ無駄だろう。
まずは体力の温存につとめよう。明るくなってから、改めて行動を起こせばいい。
それよりも、なんだか眠くなってきた。脳みそに泥でも詰め込んだかのように頭が重い。まぶたも段々開かなくなってきた。
やがて抗いがたい誘惑とともに、俺の意識は深い沼の底へと沈んでいった。
いったい、いつまでそうしていただろうか。
目が覚めると、真っ暗闇の中、ぼんやりと明かりが見えた。
あれからどれだけ時間が経過したのかは分からない。辺りに他の明かりが見えないところから想像するだに、せいぜい一、二時間ていどしか経っていないだろう。
意識を手放す前までは、あんな明かりは見えなかったはずだが……。
俺は藁にも縋る思いで、その明かりへのろのろと足を運んだ。その明かりの正体がなんであれ、何もしないよりかはマシだと思えたのだ。
やがて明かりの前へとたどり着く。
それは一軒の家だった。洋風の、時代を感じさせるようなモダンな装飾が施されている。
レンガ造りに似せた外壁と、そこにはしっかりとした木枠の窓が設けられている。よく見えないが、屋根についているのは風見鶏だろうか。明かりの正体は、玄関に吊り下げられている、骨董品としか思えない古ぼけたランプだった。
まだ頭がぼぅっとしている影響なのか、何のためらいもなくその玄関を開いた。カランコロン、と洒落た音が鳴る。
「――いらっしゃいませ。どうぞ店内へお入りください」
そこには、パリッとした給仕服に身を包んだ男が立っていた。ここはレストランか何かだったのだろうか?
言われるがまま、建物の中へ入りテーブルに着く。
店内は落ち着いた雰囲気だ。アンティーク調の装飾が施され、壁には犬の絵が飾ってある。店の中だけ一昔前に戻ったような錯覚さえ感じた。
「ただいま料理をお持ちいたします。少々お待ちください」
食事を注文した覚えもないのだが、ウェイターにそう声をかけられ、訳も分からないまま頷く。まるで夢見心地のようなふわふわした気分に、疑問が入り込む余地など無かった。
そうしてしばらく待っていると、どこからともなく香草の匂いがツンと俺の鼻腔を刺激した。腹の虫が物欲しそうに鳴き声を上げる。
何やらウェイターが皿を運んできた。どす黒いソースがふんだんにかけられた、何かの肉だった。
いったいこれは何肉なのだろう。得体のしれないそれに、浮ついた意識ながらも疑問を持つ。
「――ヤギの肉でございます」
その疑問を見透かしたかのように、運んできたウェイターがそう答える。
なるほど、これがヤギの肉だと言われればそうも見えなくはない。
ヤギ肉なら匂いや癖が強いからなぁ。
俺はそれで納得してしまい、それ以上の疑問を持たずにナイフとフォークを手に取る。思考ははっきりしていなかったが、それでも胃の腑が狂おしいほどにこの肉を欲していたのだ。余計な事など考えたくなかった。
欲望のままに、俺は肉を口へ運ぶ。
……うまい。
肉は硬めだが、だからこそ噛めば噛むほど口の中に味が広がる。香草とソースの匂いを押しのけて、肉本来の鉄臭い味で口の中が満たされる。
ああ。
うまい。
なんてうまいんだ。
死にかけていた腹の虫が、与えられた餌を貪欲に喰い散らかす。
俺は夢中になって肉をほおばり、噛みしめ、喰らい尽くした。
あっという間に皿の肉が消え去るころには、俺の腹の虫もすっかり満足したようで、もはや悲しげに鳴くことなど無くなっていた。
「――本日はご来店、誠にありがとうございました」
食事が終わったころ、いつの間にかあのウェイターが再び現れていた。
そいつが恭しく一礼をするのと同時に、俺は再び意識が泥沼へ沈み込むような感覚に陥った。
「またのご来店、お待ちしております」
そう言って顔をあげたウェイターの風貌は、どことなく犬に似ていたような気がした。
あの後、気づいたら俺は会社近くの路傍に倒れていた。
辺りを見回しても、あの店は影も形も見当たらない。
あれは夢だったのだろうかと思ったが、しかし舌と腹に残ったあの味は、間違いなくあれが現実だったのだと俺に感じさせた。
いったい何が起きたのか、俺にはさっぱり見当もつかなった。しかし既に朝日が昇りかけていたこともあり、俺は首を傾げつつ再び会社へ向かうのだった。
腹が減った。
どうしようもなく腹が減って仕方ない。
腹の虫はあの味を、あの肉を求めて貪欲に鳴きわめく。
今日も気が付いたら、指の傷跡を舐めていた。
早く。早く。
あれじゃないと満足できない。
あの肉じゃないと…………
――――いらっしゃいませ。どうぞ店内へお入りください――
“アマゾンズ”のカニレストランのようにしても良かったのですが、やはり食屍鬼を描くならこうかな、と。
ドリームランドや子供の取り換えなど、食屍鬼については色々と題材がありますが、今回はこのような形で書かせていただきました。
こういった作品ですと、ストーリーのテンポを取るのがなかなか難しいですね……。
元々は、序盤の空腹に至るまでの描写がもうちょっと長かったのですが、それだと肝心のシーンに辿り着けないだろうと思いカットさせていただきました。
まだまだ至らない点があるかと思いますので、ご感想、ご批評など頂けましたらありがたく思います。