リリアの死
土曜日の夜、リリアが死んだ。十歳だった。
リリアはぼくが生まれたとき家にきた。ぼくを一人にさせないように父さんと母さんが選んだからだ。リリアはぼくの兄弟だった。
リリアは白くて、丸くて、ふわふわしている。そのうえぼくが学校に行こうとすると、玄関まで走ってきて、お腹にタックルしてくるくらい元気だった。
リリアを抱きしめて毛に顔を埋めると、いつもお日さまみたいなにおいがした。母さんはいつもやめなさいって叱るけど、母さんもたまに、嬉しそうに笑って顔を埋めていた。
その母さんは、いま、ぼくの向かいで泣いている。さっきリリアがぼくの膝の上で、ひゅう、とひときわ長い息をはくと、おしっこをして、それきり動かなくなったからだ。
母さんは小さな女の子みたいに、上を向いて大声を出して、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をこぼしている。母さんは、たぶん我慢できなくなって、リリアを抱きしめた。
その足がだらんと垂れさがった。
リリアは、どうしようもなく、死んでいる。
リリアが自分から動くことはもう、ない。元気よくぼくに吠えかかり追いかけっこをすることも、不機嫌な母さんの腰に飛びつくことも、料理を作る父さんの足下でおすわりしてご飯をねだることもない。
けど、寝てるようにしか見えなかった。
母さんの泣き声を聞きつけてどたどたと父さんが戻ってきた。父さんはコーヒーを淹れにいったばかりだった。父さんはぼくと母さんを、それと、母さんの胸元でだらんとしているリリアを見て、目元を手の甲でこすった。
それからぼくらのところに来ると、ぼくと母さんを抱きしめた。
ぎゅっと力が込められて父さんの胸に押しつけられる。しばらくそのままでいた。
すると、低い音が聞こえた。一つは早くて、一つはゆっくり、ぼくの中からもう一つ。
心ぞうの音。
ぼくは手探りで、そっとリリアに手を伸ばして、リリアのお腹に手をのせた。
リリアはまだ温かい。けれどリリアからは、なにも聞こえてこなかった。
リリアがここにいないと感じた。
母さんは泣き止むと、リリアは氷のパックといっしょにボール箱の中に入れられた。ぼくはもう少しリリアと一緒にいたかったけど、足がだらんとした形のままで固くなっちゃうといけないと父さんに止められた。
その日はリリアを箱ごと父さんと母さんの寝室に連れていって、川の字になって寝た。
母さんが寝返りする音で目が覚めた。
父さんは早起きして料理していたらしい。パンの焼ける美味しそうなにおいがして、寝ぼけていたぼくはリリアに声をかけた。リリアは父さんがパンが大好きだった。
もちろん返事はなかった。蓋の開いた箱の中で、リリアは箱の中で目をつぶったままだ。
リリアはそこにいて、ぼくもここにいる。それなのに、リリアは本当はここにいない。なんだか、ちぐはぐな感じがした。
もやもやしたままリリアをじっと見ていると母さんが起きた。目をこすりながら母さんはぼくを食卓に引っ張っていった。部屋を出るとき振り返ると、リリアは差しこんだ朝陽を着て、雪のようにあわく光っていた。
リリアのいない朝はひどく静かだった。食器のあたる冷たい音ですらなんだか場違いな感じがする。そのせいか、セミの声もない。
「陽が落ちたらお墓を作ろう」
今日だけ会社がお休みだから。ご飯を食べながら母さんは言った。
朝ご飯を終えると母さんはアルバムを持ってきた。父さんは母さんと、昔話をはじめた。父さんと母さんは、お昼ごはんを食べることも忘れて話に夢中になった。なんだかここにいないリリアを、ここにつなぎ留めようとしているみたいだった。
静かな時間がすぎていく。窓の外で、庭に咲いたひまわりがゆれていた。ぼくは相づちを打ちながら、黄色い花を見ていた。暑いから、リリアが溶けていないか不安だった。
空が赤くなってくると、父さんたちはなごり惜しそうにしながら席を立った。穴をほりに行くそうだ。母さんに言われて、ぼくはリリアを迎えに行った。
リリアはまだそこにいた。パックが溶けて、リリアの毛や箱が水を吸っていた。箱ごと抱え上げると、教科書でいっぱいになったランドセルを抱えたみたいに重い。リリアは、こんなに重くなかったのに。
裏口から庭に出ると陽は落ちかけて、世界は染め上げたみたいに赤かった。風はちっとも吹いていなくて、遠くから聞こえる虫の声も、車の通る音もなかった。ぼくもリリアもひまわりも、光の中に溶けていく気がする。
花壇の隅から土を掘る音がした。見ると、ひまわりの隣に父さんがうずくまっていて、その側に母さんが立っている。
父さんが立ち上がると花壇にできた空き地が見えた。それがリリアのお墓だとわかった。
二人はぼくに気づくと手招きした。
「最後のお別れをしよう」
ぼくが来ると父さんはそう言って、箱からリリアを抱き上げた。抱きしめたあと、母さんに手渡した。
受け取った母さんの手は震えている。そしてリリアをぎゅっと抱きしめて、聞こえない声でリリアとお話した。母さんの目元から、光の欠片がこぼれてリリアへと落ちていった。
母さんからリリアを受け取るとぼくもリリアを抱きしめた。リリアの体がお腹に当たる。ぼくからあたたかさを持っていっても、リリアは冷たいままだった。
ぼくの腕の中にリリアはあって、けど、リリアはここにいない。涙がこぼれた。
ぼくは母さんと父さんにうながされて穴にリリアを埋めた。リリアの上に砂をかぶせていくと、周りと少しだけ色の違う土だけがリリアがいたあかしに変わった。
「夕ご飯作ってくる。私たちは、食べなきゃ」
母さんはそう言って、早足で家に戻っていった。ぼくはなんだか信じられない思いのあま、リリアの上に乗った土を見下ろしていた。
父さんはぼくのそばで、じっと待っていた。
「ねえ。父さんは科学者なんでしょ」
「うん」
「じゃあ、頭いいよね」
「まあ、悪くはないかな」
「死ぬって、なに?」
父さんは、振り返ったぼくの顔をまじまじと見つめた。
「リリアはここにあったけど、ここには、昨日の夜からいなかったんだ。それじゃあ、どこにいったの? 死んだらどこにいくの?」
父さんは質問をはぐらかしたことがなかったから、ぼくはじっと父さんを見て待った。
父さんは額の汗を手の甲で拭った。それから、申しわけなさそうにつぶやいた。
「死んだらどこに行くか、おれはわからない」
ぼくは驚いて、裏切られたような気もした。
けれど、父さんすらわからないことがリリアにおとずれ、いつか父さんやぼくにもおとずれることを想像すると、お腹の底が氷を入れられたように冷たくなった。
死んだら、知らない場所に連れていかれるのかもしれない。もしかしたらそこにいても、だれからも気づかれなくなるかもしれない。
目元が熱くなって、手で顔をぬぐった。
「智、泣いてるのか」
「泣いてない」
顔を上げると、父さんは真剣な様子でぼくを見つめていた。ぼくはじっと、父さんの黒い目玉を見つめた。
「父さんは死ぬとどこに行くかは知らないけど、なにかが死ぬとどうなるか、ちょっとだけ知ってる。その話をしてもいいかな」
「うん」
ぼくがそう言うと、父さんはほほ笑んだ。
「前に、星は長生きで、地球よりも長生きのものもあるって話をしたこと、覚えてるか?」
「うん……」
「実はな、智。星も、いつか死ぬんだ」
「うそだ」
「ホントだ」
「でも太陽って、死んでないじゃん。太陽と星って親戚なんでしょ。だったら、……」
「星が死ぬところを、うちの家より大きな望遠鏡を使って見た人がいるんだ。写真もある」
父さんはすこし悲しそうに言った。
「星は年をとると重くなっていく。そしたら、いままでみたいに燃えられなくなる。そして燃え尽きた星は爆発して、欠片になってあちこちに散らばっちゃうんだ」
「星も……死ぬときは、重たくなるんだ」
「うん。そして、冷たくなって、散らばる」
それはリリアの死に、そっくりだった。
「死ぬって、そういうことなんだね。重たくて、冷たくなって、いなくなっちゃうんだ」
すると父さんは、違う、と強い声で言った。
「それだけが、死ぬことじゃない」
父さんは言葉の一つ一つを、大切そうに、慎重に、口に出した。
「いのちが死ぬってことはな、新しくいのちが産まれるってことなんだ」
沈みかけた太陽が、最後にひときわ強く輝いて、世界を強く照らしだす。
「散らばった星の欠片はな、長い時間をかけて、集まって、新しい星になるんだ。死んでも、いなくならないんだよ」
信じられなくて、ぼくは言い返した。
「でも、リリアは星じゃない」
「うん。けどリリアも同じだ」
「うそだ」
「ホントだ。お父さんも子供のころシロっていう犬を飼ってたんだ。そいつが死んだとき、親父の家に、この家の花壇に埋めたんだ。そしたら、どうなったと思う?」
ぼくは、つばを飲んだ。
「そいつの墓から芽が出たんだ。水をやったら大きくなった。そしてそれが、向日葵に育ったんだ」
ぼくは驚いて、声も出なかった。
「そこに咲いている向日葵は、シロがつけた種から生まれたんだよ」
父さんはひまわりを愛おしそうに見つめた。
「星も、犬も、いのちはみんな同じだ。生まれてきて、死んで、ばらばらになる。その欠片が集まって、新しくいのちが生まれる。
……もしかしたら今だって、いのちが死んで、産まれているかもしれない」
ぼくは思わず空を見上げた。そこでは、昼を夜が溶かしていくところだった。そうして、たくさんのいのちがフタを外されて、きらきらと輝きはじめている。
風が吹いて、ひまわりが揺れた。リリアはまだここにいるんだと気づいた。
リリアも、きれいないのちを生むだろう。
この作品はサークル「ことのは」用に書き下ろした作品です。




