多々良小椿さんは、静かに起こっている。
月が出てきた。
夏場は太陽の沈むのが遅く、まだ帰る時間だと思うことはできないほどの景色の暗さ。
けれど時計は七時を示していた。
ゲームセンターでひとしきり通常の男子高校生らしく遊んで、僕と三郎と原田とその他もろもろは解散した。
今日は両親ともども帰ってくるのが遅いため、一人でご飯を過ごさなくてはいけない、のだけれども。さて、冷蔵庫には何が残っていたかな。作れもしない大根の煮物に思いをはせれば、飲食的な僕が前に出てくる。
「そうだ、魚を焼こう」
飲食的な僕の暴発的な言葉を押し込めながらも、その提案を飲むことにした。
第二回脳内自分会議が延期されたため、どうやら僕の中の僕は、やる気を持て余しているようだった。
金曜日の今日は、近くのスーパーでは多分魚がお安い日だったはずだ。
一人、前に進めていた足を止めて、スーパーへ向かうための、横の道に入ろうとしたところ。
「私のことは、放っておくのね」
月の出ている帰り道。ふさわしい声が聞こえた。透き通るような、耳心地の良い、けれど責めているような声。
彼女しかいない。
なぜみんな背後から話しかけてくるのだろうか、ということを考えた上で、多々良さんには僕が声でしか判別できないことがばれていることを思い出した。
彼女たちなりの優しさ、なのかもしれない。
もし、多々良さんが目の前から歩いてきても、声をかけてくれなければ、判別することは、難しいかもしれない。
もろもろのことを思うに、多々良さんも、僕に無視されるのが嫌だから、後ろから話しかけてくるのだろうか、とまで考えた。まぁ、プライドが許せないだけだろうと言うのが最終結論。
多々良さんはいつのまにか僕の隣に来ていた。
「馬鹿な人」
「多々良さん、かまって欲しいんですか?」
「冗談は止めて」
切り捨てられた。
シャツと紺色のスカートを履く多々良さん。彼女は一体、どの多々良さんなのだろうか。
マリちゃんや、小菊さんではない、多々良さん。
下の名前を、僕は忘れてしまっているから。
うす暗くなってきたコンクリートの道、気の早い街灯が眩しく、多々良さんを照らしている。
「僕、さっき、三郎と原田と小手河原達とゲームセンター行ってきたんです」
「だから、誰なのよそれは」
「あなたは、僕と一緒の学校―――一緒の学年の人間じゃないんですね」
小菊さんが同じ学校、ということからの消去法でも分かることだった。
「そうよ。私は、あなたとは違う学校に通っているわ。だから、月曜日にしか合わなかったの」
「……僕たちは、約束をしていたんですね。月曜日に会う約束を」
「あなたが取り付けたのよ。毎週月曜日の、放課後。公園にって」
当時の僕が、なぜこんなことをしたのかという理由を、完璧に答えることはできないけれど。推測するに、僕は一番接点のない彼女との関わりを絶たないようにしたのだと思う。
多々良さんが誰か分からないから、すべての多々良さんを『多々良』と見る。
その前に、きっと、僕は彼女たちの中にいる自殺しようとした多々良さんを、死なせないために、見張ろうとしていたのではないだろうか。
又は、彼女と一緒に色々な事をして、振り回し、その中で破顔するのを見ようとしたのかもしれない。
多々良さんを見つけるために。
結局のところ、思惑は何一つ上手くいくことなく、むしろ自分自身が僕に騙されると言う、アホな結果になってしまった。
「私の名前は、多々良小椿。ツバキでいいわ。名前が四文字なのって、呼ぶのに面倒くさいでしょう?」
「ツバキさん、金曜日なのに僕に会いに来てくれたんですか?」
「あなたを中心に私が動いているはずがないのに、何を言っているの、本当に。この道路はあなた専用なの? 違うでしょう? もっと頭を働かせなさい」
リズム良い罵倒である。これでこそ多々良さん、という感じもする。僕はとんだ変態になってしまったのだろうか。
「分かりました。ツバキさんも、スーパーに寄ろうと思ったんですね!」
「違うわ。隣町の文具店まで行くの。ノートが無くなったの、忘れていたから」
「スーパーにも、売ってませんか、それ」
「私、そこ、嫌いなの」
地元のスーパーが嫌い、とは一体全体どういうことであろうか。お店に好きも、嫌いもあるまいよ。隣町の文具店は、歩いて一時間くらいかかる。この町の文房具店なら、それの十分の一ほどの時間で向かうことができるはずなのに。
「『嫌い』は可笑しい?」
否定する。
ただの人間であれば、愛情も憎悪も、普通に持っている思いの一つ。パンを奢ってくれたから好き。足を踏まれたから嫌い。
理由だって、人間の数ほどある。突き詰める必要のないほどに沢山ある原因。
けれど、あの多々良さんが、誰かを、何かを嫌いだというのは、それだけ理由があることのような気がした。
「僕も、スーパーが嫌いですよ。僕がサバの切り身を手にした瞬間、置いてある方のパックに割引シール貼りますし、あれ絶対わざとですよね」
「この町の文具店も嫌い」
「品揃え悪いですよね。そのくせジャポニカ学習帳の種類だけは豊富で、アンバランスすぎますよ。あの店」
「私、シャーペンも嫌いなの」
「最後の最後までシャー芯を使い切ってくれないところとか、最低だと思います。環境に優しくないですよね」
「放課後も嫌いなの」
「それは―――」
どういうことだ。
「僕は、放課後が好きですよ」
「……なぜ?」
「多々良さんに会えるから」
多々良さんに会える、放課後。
「誰が誰だか、分からないくせに、よく言えたものね」
「分からなくても、一週間に一度、絶対僕は、あの多々良さんに会えているんです。それはとても幸せなこ」
「口を閉じた方がいいと思うわ。これ以上私の機嫌を悪くさせたくなければね」
蛇に睨まれたカエルになってしまったみたいだ。ツバキさんの大きな威圧に、体が動かない。全身が緊張してしまっている。
彼女は静かに怒っている。
口がうまく動いてくれず、これ以上、軽口など叩けもしない。
「馬鹿にしないで」
僕の横を通り過ぎながら、ツバキさんは、そう言った。
何の感情も籠ってない声。そう言わせてしまったのは、間違いなく僕だった。




