Act.6(井戸)
冬馬くんの回想です。
Act.6(井戸)
ほんの少し驚かせるつもりだった。僕をさんざん辱めた3年生の先輩にちょっとした仕返しをするつもりだったのだ。
定期的に僕から金銭を渡すように脅されていた僕は、その受け渡し場所に「周訪鳴山」の人気のない山道を指定した。時刻は夕方6時。
先輩は万引きぐらいなら呼吸をするように平気でするほどの不良だったが、一度学校で他の生徒をカツアゲしている姿を教師に見られていた事もあって、人目を気にしていた先輩はあっさりと僕の要望に応えてくれた。
「ここまでくりゃ大丈夫だろ! おい、早くよこせや」
「ちょ、ちょっと待ってよ! もうちょっと奥に行こう」
僕は山道から外れた林の奥へと移動し、先輩がこっちに向かうのを誘った。もちろん、これは僕がしかけた罠だ。
その場所には堀すらない朽ち果てた井戸があった。普段なら誰かが落ちないようにと鉄柵のフタがしてあるのだが、僕は工具を駆使してそのフタを開け、その穴を枯れ木と落ち葉を使って覆い隠し、「落とし穴」を作った。
見たところ穴は途中まで土で埋められていて、落ちたとしても2mほどしか深さがない。僕はこの中に先輩を落とし込み、素早く上から鉄柵のフタをする。そしてしばらく閉じこめて自分のした悪行を懺悔させるつもりだった。
その時自分が出来る精一杯の抵抗。その後の事なんて考えていなかった。とにかく先輩が慌てふためく姿を見たかっただけなのだ。
「てめえ、あんまり手間取らせるんじゃねえ! 」
どんどん近づいてくる先輩。僕の足下には古井戸の落とし穴が潜んでいる。
あと3m、あと2m、あと1m……。
笑いをこらえるのが必死だった。そしてとうとう……
「うわあああぁぁぁぁ! 」
ついにやった!
僕は嬉しくなって井戸の中を覗きこんだ。
「あれ? 」
その時、僕は初めてとんでもない勘違いをしていたことに気がつく。
「くそおおぉぉ! 痛えよぉぉ! くそぉ! 冬馬ぁぁ! 殺す! 絶対殺す! 」
遙か下方から聞こえる先輩の呻き声……しまった。
井戸は深かったのだ。
僕は井戸の中は土で埋められていたと思っていたが、実は5m近い深さがあった。
井戸内の壁面には途中で枯れ木が何本か引っかかってネットのようになっていたのだ。その上に枯れ葉や溜まっていただけだったのだ。
枯れ木が先輩の体重を支えることは出来ず、そのまま彼はネットを突き破って5m下へと落下してしまった。
「くそったれぇ! 血が出てるじゃねぇか! 」
悪魔のようなおぞましい叫びをあげる先輩。仕返しが想定以上の効果を発揮してしまい、僕は混乱してしまった。
どうしよう! 助けを呼ばなきゃ! でもその後はどうしよう……! 先輩の仲間に殺されちゃうよ……! 謝れば大丈夫かな……そんなワケないよな……ああ、どうしよう! でもこのままにしておくワケには……。
井戸から離れてどうしようかとぐずぐずしていると、さっきまで騒がしかった先輩の声がピタっと聞こえなくなっていたことに気がついた。
やばい……。
最悪な想像をした僕は恐る恐る井戸の中を覗き込む。
「うっ! 」
突然僕は強烈な圧迫感を首に感じた。
まさか……
「よぉ冬馬ぁ……わかってんだろぉなぁ! ええ! 」
僕の目の前にはラズベリーソースを被ったかのように血みどろの先輩がいた。
「わわわわ……」
なんと先輩は両手両足を壁面に突っ張らせてこの5mの高さの井戸を這い上がってきたのだ。そして今僕は、その地獄から這い上がる鬼を思わせる形相の先輩に万力のような力で首を絞められている。
「殺す! 今すぐ殺す! 殺してやる! 」
井戸に引きずり込むかのように全体重をかけて僕の首に両手でしがみつく先輩。
ヤバイ! このままでは絞め落とされて井戸に引きずり込まれるか、それとも先輩が這い上がって地上で殴り殺されるかのどっちかだ!
この状況を打破するには一つしか方法は無かった。
殺られる前に殺る。
「うぐぇっ! 」
必死だった。
僕は足下に転がっていた石を握りしめ、先輩の眉間に何度も打ち込んだ。
「このっ! このっ! このっ! このっ! このっ! このっ! このっ! このぉっ! 」
石が肉壁を陥没させて骨に当たる感触が右手に伝わる。叩けば叩くほど先輩の顔面は真っ赤に染まる。僕の首を圧迫する感触は徐々に緩まる。
「ドサァ……」
革のソファに思いっきり寄りかかった時の音に似た音が井戸の底から反響した。
先輩は再び落下したのだ。
「はぁ……はぁ……」
オリーブオイルのようなねっとりとした汗が全身を包んだ。もう、井戸から声は聞こえない。
殺ってしまった……
一瞬の罪悪感があったものの、僕は自分自身のことを第一に考えた。先輩のことは事故だったのだと自分に言い聞かせ、無理矢理記憶を押さえ込んだ。
その後の僕は自分でも恐ろしくなるほどに冷静だった。まずはありったけの枯れ葉を井戸の中に放り込んで先輩の姿を隠す。そしてキッチリと鉄柵でフタをし、持参していた工具で再び固定、その上にも枯れ葉を敷いてカモフラージュした。
後は靴を縫いで靴下で地面をなでるようにして足跡を消し、念の為にその時履いていた靴もバラバラにして燃えるゴミに出した。フタを固定するのに使った工具と、凶器に使った石は表面を紙ヤスリで削ってから川に投げ捨てた。
きっと見つからない。誰にも分からない。僕はそんな不安を押し殺すように別の事に夢中になろうとした。
最近になってフォルネリア・マルコエミに行く回数が増えたのも、そのせいだったのかもしれない。
■ ■ ■ ■ ■
「大変だったんだね……冬馬くん……」
僕は恵美さんに全てを告白した。
途中、嗚咽を漏らしながら話すも、自分が必死で押さえ込んでいた秘密という重石が徐々に軽くなっていく実感があり、もう恵美さんが殺人犯だとかそんなことも気にならなくなっていた。
「……はい……」
「でも、ごめんね……周訪鳴山をたまに散歩するってさっき言ったでしょ? 」
「はい……恵美さん……見てたんですね……」
「うん……君があの子を殴って井戸の中に落とす瞬間を……」
「なんで恵美さんはそのことを警察に通報するなりしなかったか……僕には分かります」
「やっぱり? 」
「ひどいですよ……あのドーナツ、先輩が井戸から這い上がる姿を見て思いついたんでしょ? 」
「そ! 正解! 君に見せたのはちょっとしたブラックジョーク」
「ちょっとじゃないです! 本当にへこみましたから! 」
僕の心はもはや、雲の無い青空のように晴れ晴れとした気持ちになっていた。
僕の告白をただ黙って聞いてくれて、聖母のような包容力のある眼差しで相づちをうつその姿に、僕は全てをさらけ出したくなってしまったのだ。
おまけに今僕は……柔らかなソファの上で、なおかつグルテンを思わせる柔らかな太股に首を預けて横になっている。
これが膝枕か……
「ねぇ、冬馬くん……これからもウチのパンを買いに来てくれる? 」
恵美さんは自分の太股の上で仰向けになった僕の顔を覗き込む。
「はい、よろこんで」
「良かった。私のことは嫌いになっても、美味しいパンは嫌いにならないでね? 」
「そんなことは絶対に無いです。今日、僕はパンも恵美さんのことも前より好きになりました」
僕と恵美さんはお互いに「殺人」という許されざる行為の共有者だ。それがなんだかまるで世間から認められない偏屈な芸術家同士が、ようやく話の分かる同士と巡り会い意気投合するシチュレーションを思わせ、強い心の繋がりを感じた。
僕はそのせいで少しハイになっていたのかもしれない。少し調子に乗った台詞を吐いてしまった。
「いや……その、今の好きってのはその……」
「参ったなぁ、告られちゃった」
僕は多分全身が真っ赤に染まっていただろう。たまらず恵美さんから離れ、テーブルの上に置かれた乾きたての学生服のズボンとYシャツ、そしてパンツを拾い上げた。
「その……今日はありがとうございました! 」
「もう帰るの? 送っていこうか? 」
「いや、だ、大丈夫です! 」
僕はそそくさとバスルームへと身を隠し、元の制服姿へと着替え、何となく洗面台の鏡で自分の顔と向かい合ってみる。するとどうだろう……
これが……僕?
傷だらけで絆創膏だらけになっていたが、そこには昨日までは想像出来ないほどの「良い」顔になっている自分の表情があった。小動物が一生懸命餌を食べている様子を見守っている時のような自然な微笑みの僕がそこにいた。
ナルシストと思われるかもしれないけど、僕はその顔を見た瞬間に「素敵だ」と思ってしまった。
「言ったでしょ? 自信を持ってって」
パスルームに入ってきた恵美さんは、鏡に見とれている僕を見つけると、向かい合って顔の両端に手を添えてくれた。ハチミツを思わせる甘い香りだ。
「ねぇ冬馬くん、一つだけ言い忘れてたよ」
「なんですか? 」
僕より15cmほど背の大きい恵美さんは、少しだけ屈んで僕とまっすぐ向き合った。
「君が井戸にあの子を突き落とした時の顔ね……」
彼女の顔が近づく。
「すごく楽しそうで、素敵な笑顔をしてたよ」
左の頬にマシュマロのように柔らかで、日光のように温かく、そして少しだけ湿り気を帯びた感触。眼球だけを動かして右側にある鏡を見ると、そこにはあまりにもロマンチックな光景があった。
その瞬間、僕は心の中で一つの決心をしたのだ。
井戸って怖い。