Act.5(秘密)
パン作りって凝りだしたらお金かかりそう。
Act.5(秘密)
今から一ヶ月前、私は父にこんなお願いをされた。
「俺の友人がパン作り教室を開いていてな。人手が足りなくて困っているんだよ、ちょっとそいつの助手を務めてくれんか? 」
パン作りの勉強になるし、バイト代も出してくれるって言うから、これは一石二鳥だと思って私は快くOKした。
その教室に助手として参加したことは、私にとって、とても楽しくて有意義なことだった。
父の友人であるパン職人の方はこの道30年のベテラン。「製パン好きに悪い人間はいない」をモットーにしていて、パン作りに対する姿勢や知識の多くを間近で学ぶことが出来て本当に素晴らしい時間を過ごすことが出来た。
でも、一つだけその時にやっかいなことを抱えてしまった。
「恵美ちゃ~ん、今度時間ある? いい店を知ってんだ、一緒に行こうよ! ね! ね! 」
その時の生徒の一人にしつこく付きまとわされるようになってしまったのだ。
父が言うにはその男は大手企業重役の息子だとかなんとかで、あのような若い主婦が集まる場に現れてはちょっかいを出すことをこの上なく好むやっかいな人間なのだというのだ。
私自身、丸々とした体と二重顎をひっさげたその男に一切の興味も好感も持たなかったけど、どこから仕入れたのか私の携帯番号とメールアドレスを知られてしまったようで、執拗な連絡攻めにほとほと参ってしまっていた。
それでも、その男からの着信とメールの受信をブロックすることでしばらく平穏な時期を過ごしてはいたが、ある日に近所の商店街で買い物をしていると悪趣味な車に乗ったその男が私の前に現れた。
「恵美ちゃん、ひどいじゃないの。着拒するなんてさ」
「すみません、でもそれはあなたがしつこく電話してくるからです」
「そんな冷たいこと言わないでよ、オレは純粋にパン作りにハマってて、そのコトを聞きたかっただけなんだぜ」
「パン作り……」
『製パン好きに悪い人間はいない』
私は尊敬する先生の言葉を思いだし、その男の言葉をほんの一滴程度信頼し、彼の自宅へと一緒に赴くことにした。
彼は隣町の一軒家に一人で住んでいて、上がり込むとそこにはキッチンというよりも調理場と呼んだ方がしっくりくる位に広い空間に、プロ仕様の巨大なオーブンや発酵器、大理石のめん台等が一式揃えられていた。どの器具も一級品の物で、それらに圧倒された私は多分、オモチャ屋のショーウィンドウを覗く子供のように興奮していて、少し理性を失っていたのだろう……ほんの一瞬だけ、この人は本当にパン作りが好きなだけなのかもしれない……と綿アメのように淡い考えを抱いてしまった。
でも、その男はそんな私の心を軽々と裏切った。
「恵美ちゃん、もう一度生地の捏ね方を教えて欲しいんだけど」
私は純粋に一人のパン職人の卵として、彼の要望に応えるべく、目の前でパン生地を作るレクチャーを行った。
「ぬるま湯を入れたら、これくらいの固さになるまでボウルの中で捏ねてください」
「どれくらい? 」
「耳たぶ位の固さです」
「へー……」
彼がゆっくりと私の背後に回ったかと思った次の瞬間、私は全身の血が抜かれるかのような嫌悪感に襲われた。
「何するの! 」
あろうことか、男は私の胸を突然触ってきやがったのだ!
私は反射的に男を両手で突き飛ばす。
「いやぁ……耳たぶよりもそっちの方がパン生地に近いかなって思ってね……」
「ふざけないでください! 帰ります! 」
逃げだそうとすると男は見た目とは反して機敏な動きで私の両腕を掴んで拘束してきた。
「なぁ、君をここまで連れてくるのに結構金がかかったんだぜ、いいだろ? 少しぐらい。今ならオレ達だけだぜ? 」
その言葉につくづくあきれ果てた。この豚野郎は私の警戒心を緩めるためだけに、これだけ豪勢な設備を整えたというのだ。
「いいだろ……オレの股間も焼成したパリジャンみたいになっちまってんだ……」
私の怒りは頂点に達した。誇りを持ったパン作りをこんなくだらないことの道具に利用したことに対し、オーブンの熱すら生ぬるい憤怒の炎が胸の中に沸き上がった。
「いい加減にしろぉぉぉぉっ! 」
私は強引に男の腕をふりほどき、ボウルの中のパン生地を彼の顔面に全力を込めて投げつけた!
「ふげぇっ! 」
パン生地は男の顔にべっとりと張り付き、その衝撃で彼はつまづいて仰向けに倒れてしまった。
「イースト菌に謝りな」
私は新車でドライブをするようなスカッとした気分でその場から立ち去ろうとしたが、少し妙な違和感を覚え、彼の方へゆっくりと歩み寄った。
「……あれ……」
男があまりにも静かすぎる。悪い予感が頭をよぎり、私は嫌悪感をこらえながら彼の首に触れて脈を確かめ、戦慄した。
うそ!……死んでる……?
どうやら男は転んだ際に首筋の急所をシンクの角に思いっきり強打してしまったようだ。彼はそのまま死亡していて、張り付いたパン生地がデスマスクの型どりを思わせた。
「どうしよう……」
取り乱してしまった私はとにかくこの男の死体をどうにか消せないかと思い、調理場を見渡した。包丁でバラバラにしてしまおうか? それともミキサーも使って……などと思考を巡らせている内に、ある可能性に気がづいてしまった。
あのオーブンなら、いけそうだ……。
男は調理場に分不相応な業務用オーブンを用意していた。高さは2mで3段に分かれていて、横幅1,3m、奥行きは1,2mはある。そのおかげで一番下の段であれば、私の力でも肥えた肉体を引きずって中に押し込むことが出来た。
あとは……焼いてしまえばいい……
もう迷いは無かった。オーブンのスイッチを入れて350℃に設定。男を火葬し灰にする。あとはトイレにでも流してしまおう。そう考えていた。
「ブジュウゥゥゥゥ! 」
20分ほど経過いた頃、オーブンから男の体内に蓄えられた大量の脂肪が煮え立つ音が鳴り響いた。
「すごい脂……本当に豚肉みたい……」
男がいかに不摂生な生活を送っていたかを垣間見たその時、私の後頭部に電撃を受けたようなような衝撃が走った。
「パン生地に……豚肉……! 」
新たな可能性を閃いたのだ。
「イけるかも! 」
その瞬間、私はもう男の死体を処理することなんてどうでもよくなってしまった。オーブンを付けっぱなしにして男の家から飛び出し、そのまま自宅へと直行、レシピ帳を開いてペンを走らせた。
■ ■ ■ ■ ■
「そいつの家が火事で炎上したのを知ったのは後で知ったの……オーブンには黒こげの骨だけが残ってたらしいね」
そのつもりは無かったとはいえ人間を一人殺しているのにも関わらず、その話をまるで犬についたノミをティッシュで握りつぶしたかのように軽く語る恵美さん。
さっき感じた怖気の正体が分かった気がする。
「冬馬くん、その時私が何を思いついたか……もう分かるよね? 」
胃液が少し食道を昇っていくのを感じた。
「恵美さん……まさか……」
豚肉・生地。その二つのワードから答えを導き出すことは簡単だった。
「そう、これは君が大好きな特製ミートパイの誕生秘話ってわけ」
「絶望」という言葉はこの時の為にあるのかもしれない。恵美さんが男を殺したことに対してではない、殺人に一切の悪気を感じていないことにだ……そして、今僕はそんな人に背後から腕を回されて逃げられない状況にあることに……
「どうして……どうしてそんな話を僕にしたんですか……? 」
「う~ん、そうだね。私達は同じ秘密を抱えた似たもの同士? だからかな」
「え? 」
まさか? と思った。確かに僕は大きな「秘密」を抱えている。でもそれは誰にも知られていないハズだ……
「僕に秘密なんて……無いですよ」
「強情だなぁ……それじゃあ昨日渡した新商品の感想、聞かせて欲しいんだけど? 」
「新商品……あのドーナツ……ですか? 」
「そう、味はどうだった? 」
「……それは……」
「食べてないんでしょ? いいんだよ、きっとそうだろうと思ってたからね」
どうして分かるんだ? 何故なんだ?
「ごめんね、お姉さん見ちゃったんだ……」
嘘だ! そんなの嘘だ!
「先週から行方不明の中学生さ……」
やめてくれ! もう忘れたいんだ!
「君が殺しちゃったんだよね? 」
セクハラ、ダメ!ゼッタイ!