Act.3(深爪)
おねショタの予感……!
Act.3(深爪)
「痛てっ! 」
「我慢しなさい、こういうのはほっとくと後で大変なんだから」
やっぱり僕は夢を見ているのだろうか? いや、この確かな痛みは確実な現実。それもこの現状においては喜ばしい感覚として受け入れられる。
「はい、背中は大丈夫。次は前、ほらこっち向いて」
「いや、こっちは自分で出来ますから……」
「けが人は遠慮なんてしないの、さあ早く」
「……はい」
ただ今僕は、憧れの人である「丸子恵美」さんに治療の施しを受けている。それも彼女の自宅マンションの一室で……おまけに僕は上半身裸の状態だ。
「ありゃまあ……これはひどくやられちゃったもんね……」
「……いえ、全然……平気です……」
「その割には体が真っ赤じゃない、痛いんでしょ? 本当は」
そう言って彼女は僕の体に点々と付けられた擦り傷に容赦なく消毒液を浸したガーゼを押し当て、僕は再びうれしい悶絶を繰り返した。
「ほら、こっち向いて顔にもするから」
「えええ、いや、これは大したことないですから! 」
「駄目だって! ちゃんとしないとバイキンはいってボコボコになるよ! 」
ひええ……。
僕は恵美さんと向き合う形になり、動揺しているのを隠すことに必死になった。目を閉じ、呼吸が荒くなっていることを隠すために必死で息を止めた。心臓のリズムも速まり、鼓動音が彼女に聞こえているのではないかと思うほどだった。
「ちょっといい? 」
突然、脳天に温かい感触。まさか……彼女の手のひらが僕に触れているというのか?
「頭も切ってるじゃない、よく見せて」
マズイ、非常にマズイ。僕は今彼女の部屋のソファに座っている。そしてそれに対面する形で恵美さんが立ち上がって僕の頭頂部をのぞき込んでいる。この体制が意味することは、僕の目の前に彼女の胸部が迫っているということ。
「とりあえず血は止まってるみたいから消毒だけしとくね」
消毒の痛みなんて全く感じられなかった。それよりも、眼前から漂うポプリのような芳香を耐えることで精一杯だった。
「ああ、こっちにも……」
より後頭部の方にも傷跡を発見したようで、栄美さんの体がより接近する。僕の鼻頭に彼女のブラウスの柔らかな布の感触が伝わる。
ううっ……。
おそらくこの時僕が目を開いていたら頭の傷口は再び開き、大出血をしていただろう。
「はい、終わり。お疲れさま」
終わった。もう少し治療が長引けば、僕は酸欠に陥っていたかもしれない。恵美さんの体が僕から離れたことを見計らってスーハーと呼吸を整えた。
「それじゃとりあえずこれを着てて。今君の服、洗濯してるから」
僕は恵美さんから渡されたパステルグリーンのTシャツを纏った。
いい匂い……。
ついでに言うと、僕の下半身には彼女の部屋着と思われるショートパンツが履かされている。
「結構似合ってるかも」
彼女は自分の衣服を身に纏った常連客の姿を見て、少し面白がるように笑みを作った。
「あ、ありがとうございます」
まさに地獄から天国。さっきまで河川敷でリンチを受けていたことが嘘のようだった。
今日はパン屋の仕事が休みだった恵美さんは、何の気もなしにドライブをしていたらしい。そして例の河川敷近くを通っている内に夕日が綺麗だったので歩きながら見ようと思ったところ、僕の絶叫に気がついて助けてくれたのだ。本当に運が良かった。
「あと乾燥も込みで一時間はかかりそうだから、ちょっとそこで横になってなよ。疲れてるでしょ? 」
「……あ、はいそうします、いや……させていただきます」
「さっきから固くなりすぎだって、もっとリラックスしていいんだからね」
そう言って彼女は奥の部屋に消えていった。
リラックス……出来るワケがない……。
20分ほど前、僕はフォルネリア・マルコエミをテナントとしているマンション3階にある恵美さんの部屋(307号室)に連れてこられ、まず先にシャワーを浴びるように促された。
彼女が毎日使っているバスルームで同じく僕も一糸纏わぬ姿で温水を浴びている状況に平常心を保つことが出来ず、途中から温水ではなく冷水を浴びざるを得なくなった。
そして僕が体を清め終え、落ち着きを取り戻しながら脱衣所に戻ると、なんとそこには僕の衣服は無く(下着ももれなく消えていた)代わりベージュ色のショートパンツが一枚だけピンク色のカゴに置かれていた。
コレを履けというのか? コレを履けというのか?
僕は何故か周囲を警戒しながら、ショートパンツにゆっくりと足を差し込み引き上げた。(この下着も付けずに女性の私物を下半身に纏うことに背徳感を覚えながら履いたショートパンツの感触は死ぬまで忘れないだろう)
そして今、こうして彼女が生活を送っているリビングのソファで僕は石像のようにぎこちなく寝そべっている。
これがガンダーラか……。
暖房の暖かな空気に包み込まれ、気持ちが冷静になってきた僕は改めて部屋の中を見渡してみる。白をベースに淡いブルーやグリーンでまとめられたフレンチカジュアル風の部屋のコーディネートには彼女の趣味の良さが伺える。
しかし、BGMとして付けっぱなしのテレビにはその雰囲気にそぐわないアクション系の洋画が垂れ流しになっていて、スキンヘッドの男が鍋で熱したハチミツを自分の足の傷に塗って消毒をしていた。僕はこのテの描写が少し苦手だったので、他に気を紛らわせるモノはないかと周囲をもっと細かく見渡す。
ん、これは?
そして一つ気になる物を発見した。ガラス製のテーブルの上に無造作に置かれている一冊のA4ノートの存在。表紙には「レシピ帳」と油性ペンで記されている。
見てみたい……
僕は恵美さん本人はもちろんのこと、彼女が考案したパンの大ファンでもある。そのレシピに興味が無いワケがない。
少しくらいならいいよな……
人のノートを勝手に読んでしまうことはモチロン良い行いとは言えない。でも、見られてはマズイ物はテーブルの上に放置するワケはない。これはたまたま視界に入ったとしても許されるモノだ。きっとそうだ。と心の中で言い訳の言葉を呟きながら、僕はページをめくり見る。
うわっ! 何だコレ?
ノートにはビッシリとレシピの内容「らしき」文字とパンのイラストが、まるで古文書のように書き記されている。何故「らしき」なのかと言うと、その文字が全て日本語ではなく、別の言語で書かれていたからだった。英語のようで少し違う……多分フランス語かイタリア語なのだろうと見当をつけ、とりあえずイラストだけでも楽しもうとパラパラとめくっていると、見覚えのある描画を発見した。
特製ミートパイ!
このマッシュルーム型のパイは……間違いない。このページには僕が虜になった艶美なるミートパイの作り方が記載されている。(おそらく)材料の分量や、扱うパイ生地の注意点が所狭しとメモされていた。
凄いな……と恵美さんの几帳面さと、多言語を操る知識に圧倒され、ただただ感嘆するしかなかった。しかし……
なんだ?
ある一点、妙なモノが気にかかった。それはミートパイのレシピの片隅に貼られた1枚の紙切れ。それは横幅5cm×縦幅10cm程の新聞紙の切り抜きで、見出しにはこう書かれていた……
『火事現場から変焼死体発見』
その字面はあまりにもノートの内容からかけ離れていた。絵本を読んでいたらいきなりセクシーな女性のグラビアページが現れたかのような場違いな感じに、僕は不気味さすら感じて掌にじんわりと汗をかいてしまう。
なんなんだ? コレは? 僕は記事の本文を詳しく読もうと視線をスライドさせようとする。しかし……
「常連くーん 」
心に不意打ちをかけるように、恵美さんがイキナリ僕を適当なあだ名で呼びかけた。
「は、はいっ! 」
急いでノートを元通りテーブルに戻し、ソファに座り直す。
「お待たせー」
恵美さんは特に気にかかった様子を見せることなく、ガラス製の小鉢が二つ載せられたトレーを持ってきた。
よかった……バレてない。バレてない。
「ごめんね、口の中切ってるだろうから、コレくらいしか用意できなくて」
そう言って恵美さんは少し申し訳なさそうな表情で、トレーから小鉢に盛りつけられたオレンジゼリーをガラステーブルに二つ置いた。
「そ、そんな……恵美さん、そんな気を使ってくれなくても……」
「大事なお客さんを呼んでおいて何も出さないってワケにもいかないでしょ? それにしても、私の名前……なんで知ってるの? 」
しまった……。
動揺して目が泳いでしまう。何せ僕は彼女の名前を知るために、何度かストーカーじみた行動をとっていたからだ。
フォルネリア・マルコエミが閉店した後に遠くから恵美さんが店から出るのを確認し、彼女の住まいは同マンションの3階のこの部屋であることを突き止め、さらには集合ポストに届く彼女宛ての郵便物をここでは詳しく説明できない方法でこっそり抜き取り、彼女が「丸子恵美」という名であることを知ったのだった。正直、店の名前そのままとは思ってもなかったけど……
「ええっと……その……なんというか……」
しどろもどろになった僕を見て、彼女は軽く笑いを吹き出しながらこう言った。
「そりゃ知ってるよねぇ! だって店の名前なんだもん」
「そ、そうですよね……はは……」
助かった……。僕は引きつった顔が悟られないように、目の前に出されたゼリーを勢いよく頬張った。
「全くお父さんには困ったわ、私に何の連絡もなく仕事辞めて突然パン屋なんて開いててさ。しかも店の名前が私の名前だなんて……個人情報がどうのこうのって言ってる時代にね……信じられないよね? 」
全くその通りである。
「お母さんにも迷惑かけっぱなしだし……急に私に連絡してきたかと思えば、店を手伝え! だもん、ホント勝手な人なんだから……冬馬くんはそんな大人になっちゃ駄目だよ」
「いえ……僕は逆にその行動力だけには少し憧れ……えっ!? 」
恵美さんの発言に驚き、僕は鼻からゼリーが吹き出しそうになった。
「え、恵美さんっ! なんで僕の名を? 」
自己紹介はしていなかったハズだ。それなのに何故?
「ふふ、ちょっとこんなコト言っちゃマズいのかもしれないケド、実は私見ちゃったんだよね。君が会計の度に開く財布の隙間から飛び出すTATSUYAのカードを……そしてそこに記された君のフルネームをね! 羽賀谷冬馬くん! 」
と、してやったり! といった表情で恵美さんはさながら推理マンガの探偵のような口調で個人情報の入手経路を暴露した。
コンビニのフリーペーパーでさえ、しっかりと店員に断りをいれて持って行くようなイメージを抱いていた恵美さんからは、とうてい想像出来ない一面を目の当たりにした。そしてその激しいギャップがひたすらに『かわいい……』かった。
「冬馬くん。きみの個人情報ガバガバだよ。気をつけなさい」
「それは恵美さんには言われたくないですよ」
「言えてる」
陳腐な表現だが、夢のようだった。
僕は今、パン屋の店員と常連客としての接点しかなかったハズの恵美さんと、今こうして会話を楽しんでいる。昨日まで想像するしか出来なかった状況を、僕は1分でも1秒でも長く過ごしたくなり、普段他人とのコミュニケーションが苦手僕は、ここぞとばかりに脳ミソをフル稼働させて色々な話を振って、色々な情報を知ることが出来た。
彼女は今24歳で、去年までイタリアに住んでいたということ。紅茶よりもコーヒー派で、それもフレンチプレスで淹れる油の浮いた深炒りのモノが好物なのだということ。犬派でそのうちシーズーを飼えたらいいなと思っていること。山が好きで、時々近くにある「周訪鳴山」の山道をふらっと散歩することがあるということ等々、恵美さんの趣味や嗜好を色々と知ることが出来て、彼女との距離がどんどんと狭まったことが嬉しかった。
でも、少しだけショックな話もあった……
彼女には離婚歴があった。
恵美さんは友達の紹介で知り合ったイタリア人男性と20歳の頃に結婚し、その後3年間は夫の故郷であるフィレンツェで生活をしていたらしい。でも、夫婦生活がうまくいかずに結局離婚して帰国したのだそうだ。その詳しい理由は語ってくれなかった。
「……恵美さん、今は付き合っている人とか……いるんですか? 」
僕は思い切って聞いてみた。
「今はパン作りが面白いから……しばらくそういうのはいいかな? って感じ」
少しホッとした。
「それにしても冬馬くん、君っておとなしそうな見た目だけど色々とガッツリ聞いてくるのね。警察の聞き込みみたい」
恵美さんに言われて僕は初めて気がつき、恥ずかしくなった。そういえば僕が一方的に質問するばっかりで自分のことはほとんど喋っていなかったからだ。
「……す、すみません! 」
謝る僕を見て恵美さんは一瞬黙り込み、何かを思い出したかのように目を大きく開けて、さっきまで僕が使っていたバスルームへと小走りし、笑顔で手招きしてこっちに来るようにと僕を誘った。
「なんですか? 」
「いいから、いいから」
何か悪戯めいた口調の恵美さんの方へと、僕は吸い込まれるように足を運ぶ。
な……何が起こるんだろう……?
「ハイ、手を石鹸でキレイに洗って。それと……爪切り貸すから、爪もキッチリ切っておいてね」
「え? 爪を? 」
「君、結構伸びてるから、それだとよくないの」
「よ……よくない? 」
「あと、それと……コレも着ておいて」
恵美さんから畳まれた衣服と思われる物を手渡された。それはバターのように、やや黄色かかった白色だった。
「それじゃ、ここでちょっと待っててね……私も着替えてくるから……」
どこか意味ありげな、何か重大なことの予兆のような想像を駆り立てる口調で言葉を残し、恵美さんは別の部屋へと姿を消した。
着替える……!
何が始まるんですか? 何が始まるんですか!?
僕はいつもより深めに両手の爪を切り整えた。
彼が観ていた映画は「イコ○イザー」です。