苔けた石碑と偉大なる海
生命は海から誕生しました。
その偉大なる母から頂いた命はまた、海へ還すのが道理。
今回は今までとは違った流れになっています。
海は。
広く、大きく、世界を覆う空の色彩を映し出す巨大な鏡。遠い昔、この海の先の大陸を求めて、あるいは、海の恩恵を求めて、この大海原に世界から見ればたったちっぽけな船に乗り込み、この海と戦った者たちがいたという。時に波を味方とし、時に波を敵とし、時に波に涙し、時に波に怒りを浮かべ、『船乗り』と呼ばれた者らは陽気に海を渡った。その軌跡は『海図』として、後世までいつまでも大切に利用されてたという。
かつて。
かつては薄く、サファイア色の輝きが太陽の光を受けて強く煌めいたという。それは、現在のような灰色に汚れた世界ではなかったらしい。淡い砂色の土を『誰か』は歩いていた。それは男かも知れないし、女かもしれない。大人かもしれないし、子供かもしれない。あるいは私かもしれないし、貴方かもしれない。それは存在しているようで、していないような『誰か』。暗く、この世の終わりを感じさせる波が砂浜へ流れ込み、『誰か』が砂浜に残す微かな軌跡も海の前には露と消えた。押し寄せる冷ややかな水が『誰か』の足に絡みついてくる。まるで何かを伝えるように。優しく愛しく、頭を撫でるように。
――おいで、おいで、我が子よ。
そう、海が囁いているように。
一瞬呆気にとられた『誰か』はその誘いを振り払うように砂浜の方へと引き返した。そのままコンクリート片が散らばった場所まで足を速めて戻ってくる。自然の力とは素晴らしく、そして恐ろしい。我が物顔で人類が闊歩して自然を支配してきた時代は終わりを迎え、母なる大地を敷き潰したアスファルトは、今や大自然の片隅に体を丸くして打ち捨てられている。堅く盤石だと思われていた人類の軌跡は、やがてこのまま大自然へと呑まれていくのか……いや、還っていくのか。
『誰か』の歩む先に迷いは無かった。かつてそこに人間と呼ばれた人類がいたという、その場所へ。海に面した森を歩けば、拓けた場所に出た。そこがかつて、人間と呼ばれた人類がいたというその場所である事に『誰か』が気付くのに、しばしの時間を要した。
家であった場所には何もなく、ただ荒れた土地が残るばかり。墓だった場所には何もなく、ただ雑草が生い茂るばかり。かろうじて、そこに代わらず立ち続けるのは大きな石碑があったからだ。『誰か』はその苔けた石碑に手を触れ、見上げた。そこには言葉が彫られていたようだが、風雨に削れて原型を留めているとも思えないし、『誰か』には文字を読む事は出来なかった。
――海よ、偉大なる母よ。貴方は愛も、憎しみも、その全てを許容してくれよう。ならば、私の愚かな感情もまた、受け入れてくれたまえ。
昨日のようで、ずっと昔だったか。人間と呼ばれた人類がまだ、僅かながらもこの広く雄大な大地で営みを続けていた頃。
この場所で、そう歌う老婆がいた。
声も、顔も思い出せぬその老婆は、崖から海に向かってこう歌い、『誰か』に向かって笑いかけたのだった。
まだ海が青く、美しかった頃。この場所で、一人の男が死んだという。男は愛を抱き、女は憎しみを孕み、二人はこの場所で出会ったという。
はて、概要はそんなものだったと思う。もう、古い記憶から読み取れる情報はそれぐらいだった。もっと、醜く悲しく――かつての海と同じくらい美しい物語であったはずなのに。
『誰か』は祈った。墓であった場所で無く、その老婆が愛した海にへと。老婆からは、墓に主はいないと聞いた。男は海へと還ったという。きっとあの老婆は生を全うし、死期を悟り、そしてまた偉大なる母に抱かれて眠っているのだろう。昔、己もまた相反した気持ちを抱いてしまった男が眠るように。
――海よ、偉大なる母よ。貴方は愛も、憎しみも、その全てを許容してくれよう。ならば、私の愚かな感情もまた、受け入れてくれたまえ。
その昔、人類が栄華を極めた時代があったという。その頃には様々な美しい物語が生み出されたというが、『誰か』にその記憶は無い。
されど、何となくその一片を知れた気がする。誇張も無く、脚色も無く、ただあるがままを語った老婆の人生は、大自然を前にしてもなんら色褪せず、同じだけの輝きを放っている。
なぜなら。
自然と人類。
人類もまた、大自然の一部であるのだから。
『誰か』は立ち上がり、この場所へ、海へ別れを告げる。背を向けて歩き出す背後で大きな波が崖にぶつかり、一際大きく水しぶきがたつ。
――海よ、偉大なる母よ。
『誰か』は小さく歌った。
――貴方の胸の中で眠る、愛し合う二人に祝福のあらんことを。
歩き去る『誰か』はぼんやりと考えた。愛を抱え、憎しみを抱え、あの老婆は母の元で出会えたのだろうか?
既に人類は消滅している設定ですが、記憶として存在し続ける事は可能なのでは? と思い至って書き上げました。
海は広大です。生命を育み、生命を分け与え、生命を奪い……。愛も憎しみも、何もかもを許容してくれる偉大なる母の下で、愛し合いたかった二人は出会えたのでしょうかね?