2-4
俺はとっさに声のする方を見た。
赤毛が揺れる少女が目に入る。
「リベル!」
リベルが必死に手招きをしていた。
「うし! スパートかけるぜ!」
走る速度を上げるジンに離されまいと俺は続いた。
リベルは数メートル先の木々の隙間から覗かせていた顔を引っ込める。
俺たちはリベルの隠れた木と向かい合わせの木の間を走り抜けた。
4匹のウォーラーが続いて通り抜けようとしたとき、
ビンッ!
左手の視界に入ったクラッセが手に持つロープを力任せに引っ張った。
反対側の木に固く結わえつけられたロープは、ちょうどウォーラーたちの首の辺りにぴんと張られる。
突然の出来事にウォーラーは走る勢いを緩めることなどできなかった。
「うわぁっ」
ウォーラーたちが衝突した勢いでクラッセは思わずロープを持つ手を離して盛大に倒れ込んだ。だが、ウォーラーたちもただでは済まない。
先頭の1匹はひっくり返り、後続の3匹と折り重なり合うように地面になだれ込む。すると、
バサッ
網の振ってきた辺りを見上げると、そこにはレミがいた。
網にかかったウォーラーたちは血走った眼でじたばたともがく。
「よっしゃあ!」
「やったわ!」
ジンとリベルが歓声を上げた。
木に登っていたレミがスルスルと降りてくる。意外と身軽だ。
「逃げましょう!」
したたかに地面へ打ち付けた肩をさすりながらクラッセが言った。
「ああ」
声を張り上げたクラッセに俺は頷く。
さっきまでの彼の弱弱しい面影はそこになく、仲間を守る、という確固たる意思だけがクラッセからは感じられた。
男子たるもの三日会わずば……と言うが、こういった逆境の中で彼も少し成長したのかもしれない。
「あんま丈夫な網じゃねーからな、やつらがもがいているうちに、とっととトンズラすっぜ」
「そうね!」
「うん」
リベルとレミが揃って返事をする。
息も落ち着かぬまま再び走り出すジンに4人が続こうとした時だ。
厄介事とはどうしてこうも輪をかけて、俺たちの行く手を阻もうとするのだろう。
プカリ……
小さな半透明の球体が浮かんでいた。
まるで石鹸水でできたシャボン玉かなにかのようだった。
気がつくとそれは俺たちを囲むように、おびただしい数が浮かんでおり、「今度はなんなんだよ!」と立ち止まったジンが忌々しげに頭を掻いた。
俺は気にせず走り抜けようかと考えたが、レミの一言に思いとどまった。
「ブレス、かな」
「ブレス?」
聞きなれぬ名前に俺は聞き返す。
「そう。見たことが、あるよ。これは最もポピュラーな、ブレス、の仕業だね。他にも、炎を吐くのも、いれば、毒の霧を吐くのも、いるね。そのシャボン玉には触れない、方がいいよ」
"触れるな"というレミの警告に、伸ばしかけた指先を引っ込めるジン。
「それを先に言えっつの。思わずさわっちまうとこだったぜ」
大袈裟によろけたジンが唇をとがらせる。
「破裂すると、酸、の液体が飛び散る」
ぞっとしないことをレミは坦々と語った。
レミが言うにはブレスというモンスターはその名の通り種々様々な"ブレス"を吐く亜種も存在しているらしい。
あとで聞いたところによると、炎を吐くのはレッドブレス、毒の霧を吐くのはポイズンブレスと言うようで、このシャボン玉のような球体はそのブレスの中でも"普通のブレス"と呼ばれるやつの特殊能力なのだそうだ。
「やだ! すぐに網から脱出してくるわよ! どうするの?!」
焦りを隠さずにリベルが振り返る。
俺もつられて振り返ると、そう遠くない場所に転がっているウォーラーの1匹と目が合った。
やつらはまだ窮屈な網の中でもがいていた。知能が高くないのが幸いしたか、網を咬みやぶるという発想にすぐには至らず、狭い網の中で押し合いを繰り返していた。
「酸をかぶった獲物に、襲いかかってくるけど、なにもしなければ、なにも、ない」
「それならどうすればいいんだ?!」
煮え切らないレミの説明にまた皮鎧の中身がじっとりと汗ばんでくるのを感じた。
「なぁ……ありゃぁ、浮かんだままなのか?」
じっと観察していたジンが呟く。
俺はハッとして、ジンに習いよくよく観察してみる。するとシャボン玉は数えきれないほどの数が浮いているが、どれを見ても地面に落ちてくる気配はなかった。
ジンの問いにレミが頭を縦に振る。
「そう、ブレスといっても、あのシャボン玉は、実は蜘蛛の巣の、ようなもの。だから」
レミが言い終える前に唇の端を上げるジン。俺もすぐにレミの言葉の意味に思い至る。
「そうとなりゃ行くぜ!」
こんな状況にあってもレミが落ち着いている理由がようやくわかった。
ぷかぷかと浮かんでいるように見えるそのシャボン玉のような球体だが、実は張り巡らされた目に見えない糸のせいで宙に浮かんでいるかのように見せているのだ。だからそのシャボン玉が地に落ちることはない。
ジンはじっと観察していて、シャボン玉が落ちてこないことに気がついたのだ。
気がつかないうちに取り囲まれていたものだから、俺はジンが言わなければまさか宙に固定されているなどとは夢には思わなかった。要は固定されているシャボン玉の下を潜り抜ければいいだけのことだ。
"ブレス"と言いながら、吐いた糸を張り巡らせているとは、まさに蜘蛛のようだと俺は思った。
だが、その蜘蛛の巣の秘密を知るものがいなければ、はたまたジンのように気が付く者がいなければ、俺たちはとても無傷ではいられなかったはずだ。
もし気に留めずに触ってしまっていたとしたら……最悪の結末を想像すると身の毛もよだつ気持ちになる。
「え?! なになに?!」
まだよくわかっていないリベルに俺はかいつまんで説明する。
「あのシャボン玉みたいなのが下に落ちてくることはないんだ。目に見えない糸が張り巡らされている蜘蛛の巣のようになっているらしい。だから這ってあの下を通り抜けられるぞ」
そうしている間に素早く向こう側へと抜けたジン、そしてレミが振り返る。
「おらっ、とっとと来いよ! げげっ、きやがるぜ!」
ジンの声に慌てて球体の下へと滑り込む。
リベルも急ぐ。
「い、急いで!」
その間にシャボン玉の蜘蛛の巣を抜け終えたクラッセも叫ぶ。
背後に獣の粗い息遣いが近づいてくるのがわかった。
「きゃあ、きゃあ!」
悲鳴を上げながらリベルも球体の下を潜り抜けきる。
俺もほぼ同時だ。
ブレスの出現に肝を冷やしたが、どうやら俺たちはツイていたようだ。
全員がシャボン玉の向こう側に逃げきると、すぐに追いついてきたウォーラーはその球体に気が付くこともなくつっこんだ。
パチンパチン、と音はしなかったが、ウォーラーたちが触れるなり割れたシャボン玉からは青白い液体が飛び散った。
レミから話を聞いていても、やつらの末路は想像だにしないものだった。
まともに酸を浴びたウォーラーたちは声にもならないようなおぞましい悲鳴を上げ、顔から手足からとみるみるうちに焼け爛れていった。
薄茶色の毛並みは見るも無残に失われていき、剥きだしになった皮膚がそれを見る俺たちの目を手の平で覆わせた。
するとどこからともなく現れたのは、泡の塊のような人型のモンスターだった。
ウォーラーたちを焼いた酸と同じく青白い泡の塊で、それはのそりのそりとやつらに歩み寄ると、ゆっくりと広がり4匹のウォーラーを包み込んでいった。
その光景はスライムが小動物を捕食するときのようだった。
「え、えげつねぇ」
ジンの顔が歪む。
一歩間違えれば俺たちもああなっていたのだ。ブレスのおかげで助かったとはいえ、生きた心地がしないのもまた事実だった。
「あのブレスというモンスターは、酸を浴びた獲物だけをああやって捕まえるんだよな?」
「そう。でも、また同じことを、やられると、厄介だよ。早く、逃げよう」
「よし、逃げるぞ2人共」
レミの言う通りだ。
俺は目の前で絶句しているリベルとクラッセに声をかける。
「あれって本来あたしたちみたいのが遭遇するようなモンスターなのかしら」
ぽつりとリベルが呟く。
酒場のマスターが言っていたことを俺も思い出す。
新米冒険者には手頃な仕事だと言っていたはずだ。もしかすると、本当にジンが言っていたように、この森では"なにか"が起こっているのか?
だが、
「あーゆーのもいるってこった。普通じゃねー気もするけどよ、現実を見ていこうや。街の外は俺らが思ってるよりもずっと危険なんだよ」
ジンがリベルの肩をぽんと叩く。
「行こう」
リベルの気持ちもわかる。
わかるが、ジンの言う通りに冒険者という稼業は俺たちが思っていたよりも過酷なだけということなのかもしれない。
つい言葉少なになってしまった俺に、4人ともが頷いた。